第193話 D

 目が覚めると、目の前にうらら子先生の顔があった。

 先生が僕と向かい合うように、横向きになって寝ている。

 先生の寝息が、僕の前髪を揺らす距離に先生がいた。

 僕達は一組の布団を共有している。

 朝日が、ぼんやりと先生を照らしていた。


 僕は、わけが分からなくて、しばらく先生の寝顔に見とれている。


 目を瞑った先生の寝顔は、彫刻みたいだ。

 すっと高い鼻とか、シャープなラインの輪郭とか、先生の顔の整った部分が際立っていた。

 でも、胸が上下に動いているから、これが彫刻じゃなくて呼吸をしている人間だってことが分かる。

 呼吸をするたび、先生が着ているシャツの胸元から、ダージリンティーみたいないい香りが立ち上ってきた。



 僕は、そんな先生の寝顔を見ながら思い出した。

 そうだ、僕は昨日、部員のみんなと柏原さんの工場で夜遅くまで作業して、そのまま泊まったのだ。

 女子達が柏原さんの部屋に寝るなかで、僕だけ従業員さん用の仮眠室に隔離されて寝ることになった。

 一度、なんとかして三階の柏原さんの部屋まで登れないか、工場の雨樋あまどいを調べたけど、無理そうだったから、そのまま寝たんだった。


 そうして一人寂しく寝てた筈なのに、今、僕の目の前にはうらら子先生がいる。

 先生のほっぺたを突っついてみたけど、ちゃんと柔らかい感触があった。

 その長い髪を触ったら、ぱらぱらと流れて僕の手をくすぐった。

 先生の鎖骨さこつをなぞってみたけど、ちゃんと固かった。


 これは、確かに実在してる先生だ。



「あの、先生。うらら子先生」

 僕は先生に声をかけた。

 本当は、ずっとこうして一緒に寝ていたい気分だったけど。


「先生、うらら子先生」

 僕が何度か声をかけると、

「うー、うぅん」

 って、先生が悩ましげな声を出した。

 そのうち、目をぱちぱちさせて、僕に向けてニコッと微笑む先生。


「はぁーあ」

 目を覚ましたうらら子先生が、大きく伸びをする。


「馨君、おはよう」

 寝ぼけまなこのうらら子先生が言った。


「昨日の夜は、楽しかったね」

 先生がそんなことを言う。


「あの、昨日の夜って?」

 僕は恐る恐る訊いた。


「なに? 覚えてないの? 昨日の夜、残業が終わって私がここに様子を見に来たら、もう、みんな柏原さんの部屋で眠ってるみたいで、仕方ないから、工場の仮眠室に寝てた馨君と、一緒に寝たんじゃない」

 先生が言う。

 はて? そんな記憶、微塵みじんもないんですが。


「初めて、二人だけで迎えた朝だね」

 うらら子先生が、遠い目をした。


 いえ先生、勝手に遠い目をしないでください。


「まさか、馨君が、あれほど情熱的だなんて……」

 先生がそう言って、僕を上目遣いに見た。


 ん? まったく身に覚えがない。

 そんな情熱を発揮はっきした覚えはない。


「年下の男の子に、あんなことされちゃうなんてね」

 先生の悪戯っぽい視線に、僕は射貫いぬかれる。

 でも、ぼくはした覚えもない。



「もう、先生! いい加減にしてください!」

 すると、部屋のドアを開けて、我が部の女子達がなだれ込んできた。

 朝比奈さんに綾駒さんに柏原さん、千木良に滝頭さん、全員いる。

 すでに制服に着替えているみんなが、先生を布団から出した。

 布団から出ると、うらら子先生も、シャツにタイトスカートで、出勤前の服装だった。


「どっきり仕掛けようとか言ってたのに、がっつり一緒に寝てるじゃないですか!」

 綾駒さんが言う。


「西脇君も西脇君だよ! 先生が目の前に眠ってて、すぐに飛び起きたりしないで、しばらく一緒に寝てるとか!」

 朝比奈さんに怒られた。


 怒られたけど、僕は、まだこの状況の半分も理解していない。


「朝早く、先生が僕達の様子を見に来てくれたんだよ。先生、昨日残業でここに来られなかったことを気にしてたんだ」

 柏原さんが説明してくれた。

「それで、まだ西脇先輩が気持ちよさそうに寝てたんで、私達でどっきりをしかけたんです」

 滝頭さんが補足する。


「まったく、二人とも、どうかしてるわ!」

 なぜか千木良が真っ赤になっていた。


「まあ、そういうこと。残念ながら、昨日の夜はなんにもなかったの。さあ、西脇君、着替えて学校だよ」

 うらら子先生が僕を布団から追い立てた。


 ひどい、純情な男子高校生の心をもてあそぶなんて…………


 僕達は、うらら子先生のランドクルーザーで送ってもらって登校する。



 そのあとも、僕達は放課後になると柏原さんちの工場に通い詰めて、車の改造を手伝った。

 R32スカイラインを分解した柏原さんは、エンジンまでも分解してしまった。

 ピストンやコンロッド、クランクシャフトを交換して、2.6リッターのエンジンを2.8リッターまでボアアップする。

 さすがに、エンジンを組み立てるときは工場の従業員さんに手伝ってもらったけど、基本、柏原さんが中心になって組み上げた。

 僕達は、魔法でも見てるみたいに無数のパーツがエンジンに組み上がる様子を見ていた。

 組み上がったエンジンは、ターボのタービンを交換して、インタークーラーも交換する。

 エンジンの力を最大限に引き出すために、コンピューターを載せ替えた。

 載せ替えとプログラムを書き込むのは、千木良が担当する。


 他にも、足回りに吸排気系、ボディーの強化、やることはいっぱいあった。


 パーツ類は、工場裏に駐車してある部品取り用の車から取ったり、工場にストックしてある中古パーツを使った。

 柏原さんのお父さんは、それらを自由に使わせてくれる。

 敵に塩を送りまくるのは、気前がいいっていうか、それくらいしても負けない絶対的な自信が、お父さんにはあるんだろう。


 同じ工場にいるのに、作業しているあいだ、柏原さんとお父さんは、一度も目を合わせなかった。

 会話もしなかった。

 工場の設備を使う許可とか、部品を使う許可を得るのも、二人は他の従業員さんとか、お母さんを介してする。

 この親子、両方ともすごく頑固だ。


 そして、二人ともすごく似てると思った。



 こんなふうに柏原さんのスカイラインは完成に向けてどんどん組み上がっていくけど、この対決には車の他にもう一つ、重要な要素がある。


 それはもちろん、ドライバーの問題だ。


 出来上がったR32を運転することになるうらら子先生。


「先生、運転は大丈夫ですか?」

 って僕が訊いたら、


「大丈夫、今、頭○字イ○シャルD読んでるから」

 うらら子先生が言う。


 心配しかなかった…………

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