第95話 秋刀魚と同じ

「香ちゃん、抱っこは、千木良ちゃんみたいな、もっと小さな子がしてもらうものだよ」

 僕に抱っこを求める香に、朝比奈さんがやさしく言った。


「抱っこは、小さい子」

 香が繰り返す。


「なによ! 私は小さい子じゃなくて、レディーなんですから……」

 ややこしくなるから、千木良の口は僕がふさいでおく。


「香は小さくない、抱っこはしない」


「そう、よく出来ました」

 朝比奈さんが、香に保育士さんみたいな笑顔を向けた。


「おっぱいませろ」

 けれども香は、そんな朝比奈さんの胸に、もう一度手を伸ばそうとする。


「香ちゃん、それもしちゃダメ」

 朝比奈さんが香の手を取って静かな口調で言い含めた。


「なんで?」

 香が不思議そうな顔で首をかしげる。


「おっぱいは、揉むためにあるんじゃないの。赤ちゃんのためにあるんだよ」

「おっぱいは、揉まないの?」


「えっと、その……揉むときは、揉むんだけど……」

 朝比奈さん、説明しながら顔を真っ赤にしていた。


「赤ちゃんって、なに?」

 香が質問を変える。

「生まれたばかりの人間だよ」


「生まれるって、なに? 人間って、なに?」

 香が朝比奈さんを質問攻めにした。



 香は、本当に赤ん坊みたいだ。

 変なこと言うけど、悪気がないから怒れない。

 香はただ無垢むくなだけなのだ。

 朝比奈さんは、そんな香の質問に丁寧に答えてあげた。

 ともすると、しつこいほどだけど、嫌な顔一つしないで全部答える。


 二人とも、髪の色以外まったく同じ容姿なのに、朝比奈さんのママ感がすごい。

 某大佐だったら、バブみを感じて完全にやられてるかもしれない。



「みんな、香さんの教育に悪いから、彼女の見本になるように、日頃の行いを改めなさいよ」

 うらら子先生が、急に教師の顔になった。

 スーツ姿で敏腕びんわん教師モードのうらら子先生に言われると、僕達は萎縮いしゅくしてしまう。


「まず、綾駒さん。可愛い女の子を見ると、よだれを垂らして抱きつこうとするのはおやめなさい。それから、すぐに薄い本を所望しょもうするのも禁止です」


「はぁい」

 綾駒さんが、渋い顔で返事をした。


「それから、柏原さん。何かあると、鉄パイプを手にして喧嘩腰になるのは止めなさい。それから、スカートのポケットの中に不必要な工具を隠し持たないように」


「はい、分かりました」

 柏原さんが不満げに言って、スカートの中からパイプカッターとラチェットメガネレンチを取り出す(そんな大きな物、どうやってスカートの中に入ってたんだ……)。


「そして、千木良さん。あなたは、すぐに西脇君に抱っこされようとするのをやめて自分で歩きなさい。それから、西脇君をパシリに使わないように」


「いやよ!」

 千木良がほっぺたを膨らませた。

 それには僕も反対だ。

 パシリの方はともかく、部室に来て千木良を抱っこしてないと、なんか、手持ちぶさたな気がする。

 千木良のぷにぷに感は、よくなじんだ枕みたいで、抱っこしてると落ち着くのだ。


 けど、この感触は捨てがたい。


「ほら、こいつも嫌がってないみたいだし!」

 千木良が僕をこいつ呼ばわりしたから、とりあえず脇腹をくすぐっておいた。


「千木良さん。私は、ご両親からあなたの教育について、全権を移譲いじょうされているのよ。私の言葉は、ご両親の言葉ってことを忘れてないわよね」

 先生がすごんだ。


「わ、分かったわよ…………分かりました」

 千木良が渋々言って、僕の腕から降りた。



「次、西脇君。あなたはにはいつも口を酸っぱくして言ってるけど、優柔不断ゆうじゅうふだんな態度を改めること。そして、女子達のおっぱいを物欲しそうな顔で見ないこと。それから、女子達からちょっとでもボディータッチされると、分かりやすく耳まで真っ赤にしてドギマギするのを止めて、いい加減れなさい。いいわね」


「は、はい……」

 僕は返事をしたけど、彼女いない歴=年齢の僕が、女子達からのボディータッチで平常心を保つなんて、土台、無理な話だ。

 それに、おっぱいを見るなとか、男子高校生に出来るわけがなかった。



「さて、朝比奈さん」

 先生が朝比奈さんを向く。

「朝比奈さんは、そのままでいいわ」


「はい」

 朝比奈さんが笑顔で答えた。

 その笑顔に釣られて、香も屈託くったくのない笑顔を見せる。


「ずるい」

 千木良が言った。



「あのう」

 柏原さんが手を挙げる。

「はい、柏原さん」

「それなら先生も、日頃の行いを改めた方がいいと思うんですけど」

 柏原さんが言うのに、僕達部員は心から納得して頷いた。


「先生、脱いだ服を散らかしてそのままにするのは止めてください」

 綾駒さんが言う。

「お風呂上がりに半裸で部室をうろつくのも、よくないと思います」

 朝比奈さんが言った。

「過度な露出のコスプレも、控えた方がいいと思います」

 柏原さんが言う。

「お酒も、ほどほどにしたほうがいいんじゃないかしら」

 千木良が、ここぞとばかりに先生に言い返した。


「お酒を飲むと西脇君の首に手を回してキスしようとするのも、止めたほうがいいと思います!」

 女子達全員がたたみかける。


「ううう……」


 先生、やぶから蛇を100匹くらい出してるし……


「ま、まあ、お互い、香さんのお手本になるためにも、なるべく規則正しい生活をしましょうってことで、ねっ」

 先生が一気にトーンダウンした。


 僕達のやり取りが面白かったのか、香がケラケラと無邪気に笑っている。


「ねえ、そろそろお茶の時間なんだけど」

 千木良が朝比奈さんに催促さいそくした。


「そうだね。お茶入れるね。香ちゃん、お茶入れるところ、見る?」

 朝比奈さんが訊く。


「香、お茶入れるところ、見る。お茶。お茶は飲み物。ビールと同じ。人間は、ビールを飲むために働く。ビールのために生きている」

 香が言った。


 嗚呼ああ、先生の悪影響がこんなに色濃く出るなんて……


「なんか、ゴメン」

 うらら子先生が縮こまった。




 お茶のあとは、香を庭に連れ出してみんなで部室の周りを歩いたり、林を散策さんさくしたりした。

 木々の下でどんぐりを拾ったり、たわわに実った柿を収穫する。

 香は生後一日目だから、こんなゆるい感じで過ごすのもいいと思った。

 それに、ただこうして林を歩いてるだけで、香はスポンジが水を吸うみたいに、いろんなことを学習している。

 千木良が手に持ってるタブレット端末の画面には、活動している香のニューロンが光るように3DCGが表示されていて、脳全体がピカピカに光っていた。



「ねえ、これなに?」

 香は、目にするものなんにでも興味を持つ。

「炭でいろんな物を焼く道具だよ」

 香が指したのは、庭に置いてあった七輪しちりんだ。


「今日は、夕飯に秋刀魚さんまを焼こうと思ってるの」

 朝比奈さんが言った。


「秋刀魚かぁ、僕、大好物だ」

 柏原さんが言う。


「柏原、秋刀魚、好き」

 香が繰り返した。


「そう、僕は秋刀魚が好きだ。同じくらい、西脇のことも好きだぞ」

 柏原さんがふざけて笑いながら言う。


「柏原、西脇、好き」

 香が繰り返した。


「花圃、西脇、好きか?」

 香が訊く。


「うん、好きだよ」

 朝比奈さんが答えた。

 でもそれは、Loveじゃなくて、Likeの方だと思う。


「綾駒、西脇、好きか?」

「うん、大好き」

 綾駒さんが答える。


「千木良、西脇、好きか?」

 香が千木良に訊いた。

「大っ嫌いよ!」

 千木良が言い捨てる。


「千木良、嘘、よくない」

 なぜか香がそこだけ反論した。


「うらら子、西脇、好きか?」

 香が先生にまで訊く。


「ええ、大好きよ。食べちゃいたいくらい」

 先生、無垢な香に変なこと吹き込んだらダメです。


「西脇は食べ物、秋刀魚と同じ」

 ほら、香が誤解してるし。



 そんな香が、僕を向いた。


「西脇、誰が好きだ?」

 香がそんなことを訊く。


「この中で一番、誰が好きだ?」

 みんな大好きって答えて逃げようとした僕を先回りするように、香が重ねて訊いた。

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