第93話 名前

「それで、名前は何にするの?」

 千木良が訊く。


 「彼女」の名前と言われて、僕はすぐにそれを提案できなかった。

 不意を突かれたみたいに、なんの用意もない。

 こんな重要なことなのに、まるっきり考えてなかったのだ。


 「彼女」が出来たら、一緒にこんなことしたい、とか、こんな所に行きたいとか、そんなことはたくさん妄想してたのに、名前のことはすっかり抜け落ちていた。

 そこだけ、意図したみたいに考えが及んでなかった。


「さあ、部長はどんな名前がいいの?」

 綾駒さんが訊いて、他の部員とうらら子先生が僕の顔を覗き込む。


「えーと……」

 僕が答えられないでいると、ちゃぶ台を囲んだみんなが顔を近づけてプレッシャーをかけてきた。


「ミナモトアイ、じゃ、ダメなのかな?」

 僕は苦し紛れに言う。


「ミナモトアイは、配信する上での芸名みたいなものだろ?」

 柏原さんに鋭い突っ込みを入れられた。


「それもそうだね……」

 僕は情けない声で答えるしかない。



 登校時間になったから、まだ名前が決まらないまま、僕達は部室から校舎に登校した。

「ちゃんと放課後までに考えておきなさいよね」

 僕に鞄を持たせておいて、偉そうに千木良が言う。



 授業中も、僕は名前のことをずっと考えていた。

 授業なんて上の空だけど、この文化祭準備期間中はみんなが同じようなものだから、先生達も大目に見てくれる。


 だいたい僕は、ゲームのキャラメイクのときも、名前とか顔とか、職業とか悩んでしまって、中々始められないたちなのだ。

 散々悩んだ末に適当に名前をつけて、あとでなんでこんな名前つけちゃったんだって、後悔することも多い。


 でも、「彼女」の名前はそんなふうに適当につけるわけにはいかないし、ちゃんと立派な名前をつけてあげなければならない。

 両親が、僕や妹の野々の名前をつけるときもこんなに悩んだのか、とか、ふとそんなことを考えた。



 昼休みは図書室に行って、名前に関する本をひもといたり、古典を当たったりする。

 平安時代の姫の名前とか、歴史上の人物から使えそうな名前を見付けてはメモした。


 綺麗な名前はいくつか見つかったけど、いまいち、ピンと来るものはない。




 放課後、僕は飛ぶように部室に戻った。

 そこで「彼女」を見ていれば、なにか妙案みょうあんが浮かぶかもしれないって思ったのだ。



 部室に一番乗りしたのは僕だった。

 僕は、居間に荷物を放り投げて、「彼女」の前に正座する。


 物言わぬ「彼女」が、真っ直ぐ前を見て椅子に座っていた。

 隣に、汐留み冬さんの球体関節人形も座っている(部屋には人の形をしたモノが三体あるけど、人間は僕だけだ)。


 「彼女」には、うちの学校のブレザーの制服が着せてあった。

 顔は、朝比奈さんそっくりというか、そのままだ。

 正面から見ると吸い込まれそうな深い輝きを宿した瞳に、きゅっと閉じたくちびる

 うらら子先生の金色のウイッグをつけてるせいか、どこか日本人離れしてるように見えた。


 今にもしゃべり出しそうだけど、「彼女」は無言で身じろぎもしない。


 目の前のこの「彼女」をなんて呼んだらいいのか、考えてみる。

 なんて呼ぶのがふさわしいのか、本人? を前に考えた。


 部屋には西日が差していて、縁側の障子しょうじが、畳に格子こうし状の影を落としている。

 少し風が吹いていて木々の葉が擦れ合う音が聞こえた。

 外で、紅葉しかけた落ち葉が庭先を舞っているのが分かる。


 西日のオレンジは「彼女」の白磁のような肌にも届いた。

 陰影で、「彼女」のほほ笑窪えくぼが浮かんだように見える。


 「彼女」の隣の球体関節人形が、ヤレヤレみたいな顔で僕を見ていた。


  人形は白いシャツに、茶色い千鳥格子ちどりごうしのショートパンツをはいて、ベレー帽をかぶっている。

 足元は茶色いハイソックスで、襟元には同じ色のリボンをしていた。

 長いさらさらの髪と白く透き通るような肌で、少女にも少年にも見える。

 その唇には、薄いピンクでグロスの口紅がさしてあって、ぷるぷるだった。


 「彼女」と並ぶと、二人はお似合いのカップルだ。

 もし、ここに僕がいなかったら、二人で仲睦なかむつまじく会話を楽しんでるんじゃないかとか、そんなふうに思えた。




 結局、なにも思い浮かばないうちに、部員とうらら子先生が部室に帰ってくる。


「どうだ西脇、名前思い付いたか?」

 柏原さんが訊いた。

「私はどんな名前でもいいから、部長の提案に従うよ」

 綾駒さんが言う。

「もう、里緒奈にしちゃいましょうよ」

 千木良が言った。

「西脇君、ゆっくり考えていいんだよ」

 朝比奈さんが言ってくれる。

「西脇君、いつまでも優柔不断じゃダメだよ。なんだって、はっきりさせるときはさせないと。そうしないと、ねえ……」

 うらら子先生が言った。


 みんなが僕を囲む。


 柏原さんのココナツオイルの香り。

 綾駒さんのバニラビーンズの香り。

 千木良の苺シロップみたいな香り。

 朝比奈さんの桃の香り。

 うらら子先生のダージリンティーの香り。


 それらが混じって、僕の鼻から脳の奥を刺激した。


 みんなそれぞれ由来も方向性も違う香りが、奇跡的に調和している。

 これは、どんな調香師だって作れない、最高の香水だと思う。

 僕がみんなといると落ち着くのは、この香りも一役買ってるんじゃないだろうか。

 よく、嗅覚は五感の中でもっとも原始的で本能的っていうけど、確かにこの香りは、僕の本能を揺さぶっている。


 香り。


 それで、ふと思い付いた。


「『かおり』で、どうかな?」

 僕は言った。


「部長の名前が『かおる』で、彼女が『かおり』か。なんだか、双子みたいだな」

 柏原さんが頷く。


「馨と香って、ちょっとややこしいけど」

 綾駒さんが言った。


「当然、里緒奈の方がいいけど、まあ、それでもいいわ」

 千木良が言う。


「ぴったりの名前だと思うよ」

 朝比奈さんが微笑んだ。


「よし、決まりだね」

 うらら子先生先生も頷く。


「それじゃあ、『香』で登録するわよ」

 千木良が言って、「彼女」と繋がっているノートパソコンに入力する。


「あとは、起動するだけよ」



 起動ボタンは部員全員で押すことになった。

 千木良のノートパソコンのENTERキーに、みんなで指を置く。


「せーの」

 で、みんなでENTERキーに力を込めた。



「こんにちは」

 椅子に座った「彼女」改め「香」が、まばたきを始める。


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