第33話 タワーマンション

 千木良の車センチュリーの中は、なんだか落ち着かなかった。


 運転手さんが無言でハンドルを握って、後席の左側に千木良、右側に僕が座っている。

 エンジンの音が聞こえないくらい静かで、夕暮れ間近の雑踏ざっとうの中、ここだけ別の空間みたいだった。

 車内はエアコンが効いて涼しいし、ほのかに千木良と同じ、苺シロップの香りがする。

 ほどよい堅さの白い本革シートが、優しく体を包んで座り心地が良かった。



 千木良は、車窓の方に顔を向けて、漠然ばくぜんと外を見ている。

 オレンジ色に染まる千木良の顔が、ちょっとだけうれいをびているように見えた。


 意思が強そうな目に、ほっぺたがぷっくりとしたあどけない千木良の横顔。

 長い髪を、いつものように赤いリボンでツインテールにしている。


「なによ!」

 僕が横目で見てるのに気付いたのか、千木良がにらみ返してきた。


 これがなければホント可愛いのに……




 学校から30分くらい走った車が、やがて、マンションの地下駐車場に続くスロープに入った。

 見上げるばかりの高層マンションは、五十階くらいあるのかもしれない。

 この建物だけ、周囲の町並みから突き出ている。

 いわゆる、タワーマンションってやつだ。


「ここが、千木良の家?」

 僕は訊いた。

「ええ、本当の家は田舎の山奥にあるのだけれど、私が学校に通ったり、パパとママが仕事に行くのに不便だから、ウイークデーはここで過ごすの。だけど、パパもママも、仕事でほとんど帰ってこないんだけどね」

 千木良が肩をすくめて言う。


 本当の家のほかに、こんなマンションに部屋を持ってるなんて、やっぱり千木良の家は資産家なのだ。



 車がスロープを下って地下駐車場に入った。

 駐車場には、フェラーリとかマセラッティとか、高そうな車がずらりと並んでいる。


 僕達が乗った車が駐車場の奥まで入っていくと、赤い絨毯じゅうたんいてあって、それがエレベーターホールまで続いていた。

 10人くらいの黒服の女性が、絨毯の両脇に控えている。


 車は、後部座席のドアが絨毯にぴったりと合うように停まった。


「お帰りなさいませ、お嬢様」

 並んでいた女性達が、車を降りた千木良に頭を下げる。


 これが、千木良の家のお手伝いさんなんだろうか?

 それがわざわざマンションの共有スペースまで降りて来て挨拶するなんて、千木良の家、ちょと変わっている。


 ところが、エレベーターに乗った僕は、大きな間違いをしていることに気付いた。


 乗り込んだエレベーターの操作パネルには、最上階付近のボタンしかない。


「このエレベーターって、もしかして、千木良の家専用のエレベーターなの?」

「ええそうよ。専用エレベーターっていうか、このマンション全体が私の家だから、専用と言えば専用ね」

 千木良がとんでもないことを言う。


「ん? このマンションに部屋があるんじゃなくて、マンション丸ごと千木良の家なの?」

「ええそうよ」

 千木良が、当たり前じゃない、って感じで、面倒くさそうに言った。


「このマンションを建ててる最中に、不動産会社が倒産して、私の両親がそれを買ったらしいの。相当、お買い得だったみたい」

 お買い得って、スーパーの特売じゃないんだから、マンション丸ごとかうとか……


「千木良のご両親って、何やってる人?」

 僕は、恐る恐る訊く。

「ママは大学の教授で、パパは会社をやってるわ」

「お父さんの会社って……」

 僕の質問に、千木良は世界的に有名なIT企業の名前を出した。


 その会社の、日本人CEOのことなら、何度かテレビのニュースとかで見たことあるし、名前も有名だけど、「千木良」っていう名前じゃなかった気がする。


「パパは、仕事では旧姓を名乗ってるからね」

 千木良が言った。


 それじゃあ、やっぱり、その人で間違いないらしい。


 千木良って、あの、世界的な企業の令嬢だった。


 そんな令嬢の脇腹をくすぐったり、抱きしめたり、ほっぺたムニムニしてるけど、マズかっただろうか。

 うらら子先生、なんで教えてくれなかったんだ!



 僕達が乗ったエレーベーターは、階数表示じゃなくて、「里緒奈」ってフロアに止まる。

 当然、そのフロア全体が千木良の部屋ってことみたいだ。


 エレベーターの扉がゆっくり開くと、外では、白髪の紳士が頭を下げて待っていた。


「お帰りなさいませ。お嬢様」

 この人が、千木良の執事らしい。


「ええ、ただいま」

 千木良が答えて、鞄を渡す。

 60代の執事さんは、優しい笑顔で鞄を受け取った。

 パリッとした紺のスーツにグレーのベスト、臙脂えんじ色のネクタイを絞めている。


「お友達ですか?」

 執事さんは僕にも優しい笑顔を向けてくれたけど、一瞬、僕のこと、上から下まで素早く視線を走らせた。


「ええ、大きなお友達よ」

 千木良が答える。


 千木良、それ、ちょっと意味が違うと思うんだけど。


「お嬢様、夕食はどういたしましょう?」

「あなた、食べていく?」

 千木良が僕に訊いた。


「ううん、そこまでお世話になれないし」

 まだ遅くなるとか言ってないから、家では母がご飯を用意してると思う。


「そう、それじゃあ、これから彼と2時間ほど一緒に勉強をするわ。勉強部屋まで、飲み物と、なにかまめるものを二人分、用意してちょうだい」


「かしこまりました」

 老紳士は深く頭を下げる。



「さあ、こっちよ」

 千木良がフロアの廊下をつかつかと歩いて行く。

 廊下の床は大理石で、ピカピカに輝いていた。


 フロア全体が、パステルピンクで統一されている。

 大理石までピンクだ。

 そしてやっぱり、全体が苺シロップみたいな香りがした。



 千木良の勉強部屋という部屋に入ると、正面が天井から床までの窓になっていて、外が見渡せる。

 このフロアは、最上階か、それに近い高さなんだと思う。

 そこから街の全景が見えた。


 空はすっかり暗くなっていて、街の灯りが綺麗だ。

 見下ろす人も車も小さくて、ジオラマみたいだった。


 どこかの王家の末裔まつえいふうに言うなら、人がゴミのようだ。



「ここって、千木良の家の人だけだと、ほとんどの部屋が空いてるんじゃない?」

「そうね。家族の他に、使用人とその家族も住んでるし、ママの研究資料の倉庫になってる部屋もあるけど、ほとんど空いてるわ」

 こんな一等地に、もったいない。


「よかったら、二部屋でも三部屋でも、あげるわよ」

 千木良が言う。

 そんな、遊び終わった玩具をあげるみたいに気軽に言わないでほしい。


「それじゃあ、勉強始めるわ。そこに座りなさい」

 千木良が指すところには、勉強机と椅子があった。

 三十畳くらいある部屋の壁際に、ロココ調の飾り彫刻が施された可愛い机が置いてある。


 千木良は、椅子に座っている大きな熊のぬいぐるみをどかした。

 茶色い熊の縫いぐるみは、千木良よりも大きい。


 僕が椅子に座ると、千木良はいつものように、僕の膝の上に座った。


 なるほど、千木良はいつも僕の膝の上に座るけど、僕は、この熊の縫いぐるみの代わりだったのか……



 教科書を開いて、千木良を抱っこしながら勉強してたら(正確に言うと、一方的に僕が教えられてたら)、部屋のドアがノックされた。

 さっきの執事さんが顔を出す。


「お嬢様、お友達と、担任の先生という方達が、エントランスの方にいらっしゃってますが」

 執事さんが笑顔で言った。


「あっ」

 僕と千木良が、顔を見合わせる。

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