第23話 マグカップ

 走り出して少ししたら、もう、学校のこととか、どうでもよくなった。


 学校を離れて反対方向に進むのが気持ちいい。

 離れれば離れるほど、心が軽くなる気がした。


 通勤の車で渋滞する道を、僕達のクロスカブは、郊外に向けて羽根が生えたようにスイスイ進む。


 懸念けねんされた柏原さんのスカートのめくれは、まったくと言っていいほど起きなかった。

 その原因はすぐに分かる。

 柏原さんがいつもスカートのポケットに忍ばせているスパナが、おもりの役割をしていたのだ。

 それがスカートを押さえていた。


 あのスパナに、そんな効果があったとは……


 女子のスカートの中には、僕が知らない秘密が、まだまだたくさんあるらしい。




 市街地を抜けると、そこに広がる一面の田んぼには水が張ってあって、代掻しろかきが始まっていた。

 トラクターが作るさざ波で、水面みなもがキラキラ輝いている。

 バイクが切って進む風に土の匂いが混じって、子供の頃の砂遊びを思い出した。


 どこに行くか聞いてないけど、柏原さんは郊外の小高い山を目指してるみたいだ。

 ピクニックか、遠足にでも行く気分になってわくわくする。

 ずっと走ってたら、柏原さんの腰に手を置いて寄り添うのにも慣れた。

 未だにドキドキしてて、僕の手から柏原さんに速い鼓動が伝わっちゃうんじゃないかって、気を使うけど。



 信号に止められることなく順調に走った僕達のバイクが、山の緩い坂を登り始めた。

 林の木漏こもれれ日の中、車一台がやっと通れるような道が、つづら折りに続いている。


 上り坂だから、後ろにひっくり返らないように、僕は柏原さんの背中にくっつく姿勢になった。

 柏原さんを、ぎゅって、抱きしめる感じになってしまう。

 だけど、柏原さんは文句を言わなかった。 



 木立を抜けて、山の中腹でバイクが停まる。


 柏原さんは、木の柵が巡らせてある公園のような場所にバイクを入れた。

 そこには、物置とトイレ、そして水飲み場があるだけの殺風景な公園がある。


「ここ、市が管理してる無料のキャンプ場なんだ。平日は誰もいないから、こうやって時々来るんだよ」

 柏原さんがそう言ってヘルメットを外した。


「時々、来るの?」

「ああ、なんか学校行きたくない時とかさ、煮詰まった時にな」

 柏原さんが口の端っこだけで笑う。


 柏原さんにも、学校行きたくない時とかあるんだって思った。

 スポーツ万能で、誰からも頼られて、背が高くてカッコ良くて、綺麗で。

 そんな柏原さんにも煮詰まることがあるんだって知って、びっくりする。


「なんだよ。僕は悩みなんてない単純な奴だって思ってたのか?」

 柏原さんがひじで僕の腕を突いた。

「ううん」

 僕がぶんぶん首を振ると、柏原さんが真っ白な歯を見せて笑う。


「グランドシートしか持ってこなかったけど、いいよな」

「うん」

 誰もいないキャンプ場の中で、目の前が川で景色が開けてる場所を選んで、シートを引いた。

 2メートル四方のシートに、二人並んで座る。

 柏原さんが長い足を投げ出すから、僕もまねをした。


 山を吹き抜ける涼しい風が頬をかすめる。

 周りには誰もいないし、聞こえるのは下を流れる川の音だけだった。


 何かしゃべらないと、とか思ってたけど、柏原さんは目をつぶって気持ちよさそうにしてるし、このままでもいいやって、僕も黙ったままでいた。

 柏原さんが風上にいるから、ココナツオイルの良い香りが僕の鼻に運ばれてくる。

 この香りは、本当に柏原さんに似合ってると思う。


 スマホが鳴ったけど、画面も確かめずに電源を切った。

 きっと、雅史か誰かが、教室に僕がいないのに気付いて連絡をとろうとしたんだろう。

 でも、そんなのどうでもよくなった。



 そんなふうに、一時間くらい、二人でボーっとしてただろうか。


「コーヒーでも飲む?」

 柏原さんが訊いて、半分眠っていた僕は我に返った。

「うん」

 僕が答えると、柏原さんは自分のバッグから、カセットガスを使う折り畳み式のバーナーを出す。

 使い込まれた小さなケトルにペットボトルの水を入れた。

 それをバーナーの上に置いてお湯を沸かし始める。

 コーヒーって言うから缶コーヒーでもくれるのかと思ったのに、けっこう本格的だった。


「こうやって、いつもコーヒー沸かして飲んでるの?」

「ああ。でも、コーヒーはインスタントのスティックのやつだけどな」

 時々バイクで学校を抜け出して、一人、静かにコーヒーを入れて飲むとか、柏原さん、大人だ。

 前からカッコイイって思ってたけど、その思いがもっと強くなった。


 お湯が沸くと、それをマグカップに注ぐ柏原さん。

「カップが一つしかないけど、一緒でいいよな」

 柏原さんが訊いた。

「う、うん」

 柏原さんがいいなら、僕はそれでいいけど。


 湯気が上がるコーヒーを一口飲んで味を確かめる柏原さん。

「僕は、ここから飲んだから」

 柏原さんがマグカップの縁を指した。

「うん」

 僕はカップを受け取る。


 だけどこの場合、僕はどうすればいいんだろう?


 柏原さんと同じところから飲んだら間接キスになるし、だからといって、柏原さんが指した反対側から飲んだら、避けてるみたいでよそよそしい気がする。


 ちょっと考えすぎだろうか?


 結局僕は、柏原さんの唇が当たったところから、少しずらして、そこから飲んだ。

「おいしい」

 僕が言うと、柏原さんは柔らかく微笑む。

 柏原さんが入れてくれたコーヒーは、微糖って書いてあるのに、すごく甘い気がした。

 全然、苦くない。



 そんなふうにして、のんびり一杯のコーヒーを交互に飲んでたら、山道を車が上がってくる音が聞こえて、近くに停まった。


「誰か来たのかな?」

 僕はキャンプ場の入り口の方に目を凝らす。

 ここはキャンプ場だし、キャンプする人が来てもおかしくはない。


「せっかく、二人きりだったのにな」

 柏原さんが言った。

「えっ?」

 僕がびっくりしてたら、


「ちょっと、あなた達!」


 そんな声が聞こえて、背が高い、スーツ姿の女性が歩いてきた。

 その人は高いヒールで、土の上を歩きにくそうに向かって来る。


「こんなところで、何してるの!」

 僕達の前に現れたのは、うらら子先生だった。

 後れ毛が一本もなく髪をきっちりとまとめていて、ピシッとしたスーツだし、このうらら子先生は、厳格げんかくな教師バージョンのうらら子先生だ。


 僕達はシートから立ち上がった。

 別に僕と柏原さんには何もなかったけど、なんか慌ててしまう。


「あなた達のゴールデンウイークは、いつまで続いてるのかな?」

 先生が僕達の前に立って、腕組みした。


「なんで、ここが分かったんですか?」

 こうして見つかった理由が分からない。

 僕達どちらかの持ち物に、発信器でも付いてたんだろうか?

 それとも、スマホにいつのまにか位置が分かるアプリを仕掛けられてたとか。


「我が校の生徒がバイクで学校と反対方向に向かったって、見掛けた人から学校に連絡があったんだよ。それで、この辺りを探してみたわけ」

 なんだその、お節介せっかいな人は……


「ちょうど私が職員室にいて電話を取ったからいいようなものを、他の先生だったら大問題になってたよ」

 先生はそう言って破顔した。

 腕組みを解いて、僕と柏原さんの頭をくしゃくしゃってするうらら子先生。


「まあ、授業なんか受けてる陽気じゃないっていうのは、分かるんだけどね」

 先生が空を仰いで言った。

 五月の青空には、雲一つない。



「それじゃあ、先生にも一杯コーヒーご馳走してくれる?」

 先生がそう言ってシートに座った。

「はい」

 柏原さんがバーナーに火をつける。


「これ一杯飲んだら帰るよ」

 うらら子先生はそう言って、一杯のコーヒーを、一時間くらいかけてゆっくりと飲んだ。


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