馬鹿な食人鬼が恋をした食べ物

もおち

第1話

 いっそ、なにも知らなければよかった。



 カリムはウサギを捕まえた。ふわふわと柔らかい茶色の毛が手のひらの下に潰れている。つぶらな黒い瞳が見開かれ、カリムの血走った目をはっきり映した。


「はっ……はっ……」


 荒い息が漏れる度に肩が上下する。ウサギを捕まえるために走りはした。けれど、それは数秒のこと。息を乱すほどではない。

 それでも喉は、渇き切っていた。


「はっ……はっ……ああっ!」


 カリムはウサギの喉笛に噛みついた。飛び散った血が、カリムの顔とウサギの体に赤いまだらを生み出す。

 顔を拭わずカリムは一心不乱にウサギの生き血を啜った。飲み下す度に、声もなく絶命したウサギの体が痙攣する。

 啜りきり終わってようやく、カリムはウサギから顔を上げた。


「はぁー……」


 潤った喉とわずかに満たされた空腹に安堵のため息が漏れる。


「はあ……」


 そしてすぐに罪悪感と自己嫌悪のため息が出た。

 自分の、食人鬼らしい行動と食人鬼らしからぬ心境がそれぞれ主張し、反発し合う。

 手に埋まったウサギを持ち上げれば、想像以上に軽くなっていた。足を持ち逆さにしても、首から血は流れ出てこない。

 当たり前と言えば当たり前だ。自分が、啜りきったのだから。

 改めてその事実を目の当たりにし、カリムはまたため息をつく。


「間隔が、短くなってるなあ……」


 口元と顔中についた血を袖で乱雑に拭う。袖についた赤に、小さいながらも興奮の波が襲ってくる。


「……」


 カリムは目を閉じた。

 舌先がじりじりと後悔と罪悪感でしびれる。

 今まで、こんな感情は抱かなかった。

 空腹になれば、満たすために手当たり次第、生き物を狩った。ウサギのような小動物はもちろんなこと、オオカミやクマのような大型動物も。

 そして、自分と同じ姿をした人間でさえも。

 食人鬼たる自分の、当たり前の行動。疑問に思ったこともなかった。ましてや苦悩するだなんて。


「帰ろう……ファイが、心配だ……」


 カリムは食物連鎖の敗者となったウサギを手みやげに、愛しい人が待つ家へ向かった。



 出会いは偶然だった。

 カリムが偶然獲物を見つけられず生き倒れて、偶然倒れたのがぽつんと一つの民家が建った場所で、偶然その民家の扉が開いたのだ。


「だ、大丈夫ですか?」


 声をかけられた瞬間、カリムは思った。

 ああ、これで満たされる。

 これはきっと神様 (信じてなんかいないが)が自分にくれた贈り物だ。ありがたく受け取ろう。

 にやける顔を押し隠し、カリムは生き絶え絶えを装って顔を上げた。


「……」


 目があったのは、一人の少女だった。

 日の光を浴びた胡桃色の長い髪。心配そうにカリムを見つめる大きな緑の瞳。

 ゆったりと着こなした白いワンピースが風に揺れている。体全体の線が細く、そのまま飛ばされてしまいそうな儚さを醸し出してる。

 カリムは自分の表情が抜け落ちるのを感じた。

 美味しそうだと思う前に、愛しいと思ってしまった。


「……」


 けれど体は、本能は正直で、すぐさま空腹を音で訴えた。

 酷く間抜けな音だった。そして、カリムを葛藤させるのに十分な音だった。


「おなか、空いてるの?」


 少女の問いかけに、カリムは曖昧に頷いた。

 確かに空いている。おそらく普通の人間である少女とは、違った尺度の空腹だ。


「待っていて!」

 

 少女はカリムに背を向ける。

 小さな背中だった。乱暴に押せば、倒れてしまいそうなほど。

 華奢な肩だった。掴んでしまえば、砕けてしまいそうなほど。

 細いうなじだった。歯を立てれば、折れてしまいそうなほど。

 口いっぱいに満たされるだろう血に、喉が鳴りかけた。


「……っ!」


 カリムは衝動を押さえ込んだ。奥歯を噛みしめながら、両目を堅く閉じた。

 唾液が出ている。喉が渇いている。胃が求めている。

 生理的欲求をひたすら抗った。呼吸が荒くなる。空気と一緒に砂も吸い込み、咳込んだ。喉がざらざらした。


「水よ!」


 少女の声が再び聞こえたかと思えば、カリムの視界が反転する。青い空と白い雲とギラギラとした太陽が目に飛び込んできた。

 仰向けにされたのだと、頭が理解した。頭に感じる柔らかさの正体と、少女の顔の近さの理由はすぐには分からなかった。

 少女の両膝に、頭が預けられている。

 そのことに気づいたのもつかの間、カリムは唇を押し開けられた。柔らかい肉の感触ではなく、堅い陶器の感触だ。


「……っ」


 流れ込んできた水に、一瞬肩が揺れる。何日かぶりの水は、冷たく、少し甘く感じた。

 コップ一杯の水が喉の下へ降りると、唇の感触が離れていく。


「ああ、よかった。水が飲めるようなら大丈夫ね」


 少女が安心したように、ほうと息を吐いた。

 見下ろしてくる少女の長い髪が、カリムの頬を掠める。


「少ないけど、ご飯、食べない?」


 より近くにいる少女の申し出に、カリムはなにも考えずに頷いた。

 砂は、水と一緒に飲み込んだ。

 それでも、喉のざらざらは強く残っていた。



 あてがわれたスープをカリムはひとさじ掬って飲んだ。味の薄い、具の少ないスープだった。

 少女は、自分をファイと名乗った。両親を流行り病で死に、天涯孤独なのだと言った。


「どこにも行くところがないなら、一緒に暮らさない?」


 その問いかけに、カリムは悩んだ。願ったり叶ったりだと思う反面、逃げ出したいと思った。


「大丈夫よ」


 ファイがふんわりと微笑むと、続けた。


「私、もうすぐ死ぬもの」


 カリムのスプーンを持つ手が止まった。溝に溜まったスープが筋肉の僅かな振動に揺れる。


「……え?」


 酷く間抜けな声が出たと、カリムは思った。

 ファイはまるで、『太陽が沈んだら夜が来るもの』と当たり前のことを言っているように言ってきた。

 スプーンを持つ手をそのままに、カリムは曖昧に笑う。


「……ひ、比喩を言っているの?」


 カリムの問いに、ファイがクスリと笑った。開く寸前の花の蕾のような、柔らかそうな頬がさらに柔らかく見えた。


「いいえ、比喩ではないわ。私、もうすぐ死ぬもの」


 病気なの。見えないでしょ?

 笑ったまま、カリムにそう告げる。そしてすぐに、申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんなさい。初対面の人にこんなこと言われても困るわよね」

「え?! あ、そ、そ」


 カリムはあたふたと、しどろもどろになる。

 こんな感情は初めてだった。

 

「僕! 君が好きになった!」


 こんなことを、口走ってしまうくらい。

 早々にカリムは混乱した。言ってしまったという羞恥心と否定されるだろうという安堵感が混ざり合う。


「……ふふ」


 キョトンとした顔をしたファイが笑う。口元に手を当て、目を細めた。

 その姿に、カリムは見惚れてしまった。


「なら、一緒に暮らしましょう」


 ね? と言われてしまえば、カリムはしぶしぶ、おずおずと頷くしかなかった。

 それを誤魔化すように、満たされないスープをあおった。

 けれど、あおっても空腹は満たされることはなく、じわじわとカリムの喉を渇かせた。  



「……」


 カリムはファイの家にたどり着いた。木製の扉に申し訳程度に付けられたノブを握る。

 すぐには開けず、目を閉じ、自分の状況を客観視する。

 胃に綿が詰まっているような感覚だ。膨らんではいるものの、堅さがまるでない。押せば簡単に沈み込み、手のひらの痕を残すだろう。

 初めて会った日のことを考える。

 もし、目が合わなかったら。もし、ファイが自分好みじゃなかったら。今のような状態にならなかっただろう。

 もし、自分が普通の人間だったら。もし、ファイが自分と同じ食人鬼だったら。ましどころか、理想的だ。

 けれど、理想は理想でしかない。 

 あるのは、残酷な現実ばかりだ。


「……」


 息を一つ、吐く。ゆっくりと目を開け、ノブを捻った。


「ただい――」


 眼前の光景に、乱暴に扉を開け放った。


「ファイ?!」


 ドタドタと、カリムは倒れているファイに走り寄った。ファイの目は閉じられ、薄い唇には血の気がなかった。


「ファイ! ファイ!!」


 ファイの肩を抱き、体を揺する。小さなその体がピクリと反応しだす。


「……あ」


 ファイの目が開き、唇が薄く開いた。

 ファイが微笑む。


「もう……駄目みたい」


 ファイの言葉にカリムは無言で唇を噛んだ。

 

「あのね……、最後にお願いがあるの」


 最後なんて、言わないでほしい。

 そう言えるほど、カリムはファイに縋れなかった。覚悟していた。ファイの体調が、このところ悪いことを知っていた。

 終着の決まっていた生活が、ついに終わってしまう。


「私を……食べて」


 ファイの肩を抱く、カリムの腕が震えた。

 食べて。ファイは確かにそう言った。一言一句、拾い損ねていないはずだ。 


「私ね、知ってたのよ」

「……何を?」


 問いかけた喉が、震えていた。

 悲しいと歓びで、震えていた。


「カリムが、ほんとは私を食べたいってこと」


 動物の血を飲んでいるの見ちゃったんだと、ファイは申し訳なさそうに言う。


「噂の食人鬼なんだってすぐに分かったわ」


 私が指を切った時、すごい顔してたの、知らないでしょ。

 ファイが語る、カリムが食人鬼だという確たるエピソード。一つ、二つ、三つ四つ。


「知ってたんなら……なんで一緒にいたの?」


 震える喉を締め付けたい衝動に堪えながら、カリムは訊ねた。

 ファイの手が、カリムの頬に伸びた。


「寂しいかったの。お父さんもお母さんも死んじゃって、ずうっと一人で暮らして」


 頬を撫でるファイの指先は、冷たかった。


「病気になったのを知って、ああ私はひとりぼっちで死んじゃうんだなあ思ってたとき、カリムが来てくれたの」


 カリムはファイの手に触れ、頬に押し当てた。温かさが移るように。

 唇に触れた指に噛み付いてしまいそうになるのを、必死で堪えた。


「ねえ、カリム」


 ファイの大きな瞳が細められる。


「私を、食べて」


 最後の言葉を言う時さえ、ファイは微笑んでいた。



 生気のない顔をしているファイを、カリムは力の限り抱きしめた。骨が軋む音がしても、ファイは身を捩ったりはしなかった。されるがまま。カリムに身を委ねていた。


「……」


 視線をずらせば、床に転がっているウサギと目があった。光のない目が、カリムを嘲笑っているようにどろっと見つめている。

 さっさと食えばよかったんだ。情欲なんか抱かずに。後悔も何もしなくて済んだのに。

 食物連鎖の頂点に君臨している者が、馬鹿げてる。

 そう言われている気がした。 


「ねえ、ファイ」


 カリムはファイに呼びかける。 

 ああ、そうだ。馬鹿げている。

 馬鹿げているのなら。自分が馬鹿なのだから。


「言っていなかったことがあるんだ」


 馬鹿なことを、してやろう。

 

「食べるなら、健康な人間が一番なんだ。 病気持ちや死体を食べると、調子が悪くなったり、最悪死んだりするんだ」


 まだ柔らかいファイの頬を撫でる。


「知らなかったでしょ。だって僕たちは自分からそんなことしたりしないもの」


 舌の上に、唾液が乗ってくる。


「でもさファイ。僕は君を食べるよ。だってさ」


 馬鹿な食人鬼は笑う。悲しみと喜びが混じった笑顔で。


「好きな人と一つになれるって、これ以上ない幸せだと思うんだ」


 温もりの残る首筋に、愛おしみながら歯を立てた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

馬鹿な食人鬼が恋をした食べ物 もおち @Sakaki_Akira

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る