自己嫌悪
どう帰ったのか、覚えていない。
ムジカが我に返った時には、自宅の玄関の壁を背に座り込んでいた。
あそこから出て行って正解だったと思う。
これ以上居たら、あの男を殴り飛ばしたくなっただろうから。
早鐘のような鼓動が収まらない。吐き気がする。思考がぐちゃぐちゃで叫び出したい衝動に駆られた。
自分の中で整理をして納得をして、しまい込んだと思っていたのに、ただ嫌なものをすべて箱の中に押し込んでいただけだったのだと気づいてしまった。
ましになったと思っていたのに。強くなったと思っていたのに。
「ムジカ」
アルトとテノールの中間。
あきれも、いたわりも、戸惑いも、一切含まれない平坦な呼びかけだった。
「荷物はムジカの分も運搬してきました。ほかに何をすれば良いですか」
この人形がついてきていることは知っていた。何も言わず、当然のようにただ後ろを歩いて。
それを、ありがたいと思う日がくるとは思わなかった。
下手に感情が含まれていれば、ムジカは無様に当たり散らしていただろう。ムジカの挟持が許さなかったとしても。
おかげでほんの少しましな気分になったムジカは、膝に埋めていた顔を上げて、目の前に立つ銀色と紫の瞳の美しい人形を見上げた。
「となりに、座れ。そんで、話を聞け」
「はい」
ラスが従順に膝を折り曲げてムジカの左隣に座った。
こいつは人形だ。ならばこれは、独り言だ。
そう自分に言い聞かせて、ムジカはゆっくり話し始めた。
いまこぼしておかなければ、動けなくなると思ったからだった。
「あたしの親父はな、
けして、同じとは言わない。
スカート地が厚いおかげで、10月の肌寒い季節でも床から寒さは上がってこない。
だが昔は違った。部屋の一番寒い物置に閉じ込められて、足下から忍び寄る寒さで凍えながら必死に泣くのをこらえた。
泣けば喉をつぶすなと余計に殴られるからだ。
「腕はそうでもなかった、と思う。同じ第5探掘坑に潜ってた連中から見れば、捜索方法も、
一時期は、父親の探掘に同行させられていたからわかる。今のムジカのほうがうまくやるだろう。
「だけど、親父は
ラスは何も言わなかった。当然だ、話を聞けと命じたのだから。
けれどちらりと隣を伺えば、紫の瞳が静かにこちらを向いて聞く姿勢を保っている。人形だが、人形だからこそ、ありがたいのかも知れないと思った。
だからムジカは先を続けた。スリアンも詳しくは知らない、ムジカの経験してきたことを。
「親父は先祖代々の言い伝えられた黄金期の遺産を探し続けてた。『遺産さえ掘り起こせば全部変わる』が口癖で、ちっさいころのあたしでもやべえと思うくらいにはのめりこんでた。なんでも親父のおやじも、そのまた親父もずっとそうだったらしい。それで親父は指揮歌だけを武器に第5探掘坑を潜っていた」
母親は知らない。おぼろげながら柔らかくて優しい手があったような記憶がある。だがはっきりものを考えるようになる頃には、くそみたいな父親の背中についてバーシェの薄暗い霧の中で暮らしていた。
どうやらバーシェの遺跡にある噂が今まで調べてきた先祖の言い伝えと合致したらしい。だが先祖代々同じ早合点を繰り返して空振りを繰り返してきたのだろうと想像がついたムジカは全く興味がなかった。
まさか本当にあるとは思わなかったが、とムジカは銀の人形を見やる。
「あたしは飲んだくれる親父が大嫌いだった。探掘がうまくいかなければ酒を飲んで当たり散らして、親父がオズワルドさんと別れてからは、あたしを探掘に連れて行って手伝いをさせたんだ」
12歳以下の探掘規制がないころだったから自由だったのだ。
そこでアルバから盗み見た探掘技術や歌い方が今の飯の種になっている。
だが酒場で働いているほうがずっとましだった。アルバには気に入らないことがあれば殴られ、稼ぎが良ければ取り上げられ、部屋に帰ってくることすら嫌になる親だった。
「親父はあたしが人前で歌うことを嫌った。てめえの歌は人に聴かせるもんじゃねえってていうのが口癖だった。親父の前以外で歌ったら火が付いたみてえに怒られたよ」
ムジカは一時期チップを稼ぐために酒場の舞台に立っていたことがある。
10にも満たない少女だったからか酔客はもちろん、わざわざ聴きにくる客までいてムジカの懐は温かかった。
にもかかわらず、それを知ったアルバは今までで一番怒り狂い、ムジカが動けなくなるほど殴った挙句、酒場をやめさせられた。
そのときに、アルバはムジカが歌うのが嫌いなのだと思った。命じられて唄った指揮歌ですら顔を背けたのだ。
「だから言われても歌わねえって思った。絶対親父みたいにはなるもんかと誓ってたのに」
ムジカはぐっと膝を抱える手に力を込める。
「なのに親父はあたしに歌を教え始めた。何かのたがが外れたみたいに」
前触れはなかったように思う。
ある日唐突にアルバは探掘に行かなくなり、ムジカに歌い方を教え始めた。
声楽の基礎から、今まで絶対に教えようとしなかった指揮歌の音程まで。
一音でも外せば何度でもやり直しをさせられ、与えられた課題が終わるまで食事を抜かれた。口答えをすれば拳と罵声が飛んできた。
指揮歌は特殊な発声法の上、音程を半音、息継ぎを一つでも間違えれば効力が大幅に半減することなんてどうでもいい。生きるために死にものぐるいで歌い方を覚えた。思い出したくもない日々だった。
今でもバイオリンの音を聞くと、心がすくむときがある。
歌がない時は、今までの探掘成果を教え込まれた。知らない歌を延々と繰り返し続けるうちに、日にちの感覚がなくなっていった。
その期間が1年ほど。
スリアンが現れなければ、ムジカは喉がつぶれるか餓死していただろう。
保護されてから間もなくアルバは死んだ。エーテル症によって骨すら残らず。
亡霊すら残らなかった。
執着していたのはムジカではなく、研究成果を受け継がせることだったのだと気づいた。
「親父が死んだ後、最悪だった。よくぞここまでって感じでいろんな場所から借金していたことがわかって。借金の形にあたしを女衒に売る算段がつけられてたんだ」
今でもどろりとした怒りが湧いてくる。
晩年、アルバは喉が衰えており、それを補うために
変声器は
それをアルバは借金で入手していたのだ。
スリアンが交渉し、借金の半分を肩代わりしてくれなければ、ムジカはすぐに下着のような衣装を着て街頭にたっていただろう。エーテルと薬にやられてぼろぼろになっていた。
それでも借金を返せることを証明するために、法外な金を用意しなければならなかった。だが、ムジカが朝から晩まで酒場で働いたとしても、一生かかっても用意することはできない。
しかも期日は迫っている。
「だからあたしは
無謀なのは重々承知していた。死ぬのならそれで良かった。
父親の思い通りになるのだけは嫌だったのだ。
案の定死にかけた挙句、
そしてムジカは無事に
ただ
「あたしは親父が大嫌いだ。親父があたしに押しつけた歌が嫌いだ。だから、あたしは誰かのためには歌わない。あたしのためだけに歌う」
探掘のために歌を利用することも嫌だったが、一人で生きるために目をつぶった。なにせ、借金はまだ半分残っているのだ。半分でも、普通の少女には払いきれない途方もない金額である。潜らなくてはならない。
それに、父親の執着した遺跡の果てをこの目で見て、そんなものなかった、あるいは大したことはなかったと鼻で笑って壊すつもりだった。
そういう意味では、ムジカも先祖の呪縛に囚われているのだろう。だがそれもムジカで終わりなのだ。
思い出し口に出して、怒りと共に指先に熱が戻ってくる。湧き上がってくる活力にムジカはほっとした。
いつだって怒りはムジカの原動力だった。怒れるのならまだ大丈夫だ。
たったあれだけの言葉で動揺するのは、ムジカとしても予想外だったのだ。
じくじくとした傷が未だに痛むことに、未だに父親の影を払拭できていないことを思い知ったが、はき出せたおかげですこしましな気分になれた。
それでも立ち上がるにはまだ足りなくて、ムジカは足を伸ばして壁に背中を預けてラスを振り仰ぐ。
「まあ、そういうわけだ。世話かけたな」
「……ムジカは、歌いたくないということでしょうか」
「端的に言えば、そうだ」
青年人形は、薄暗い部屋の中でも鮮やかな紫の瞳をゆるりと瞬かせた。
「俺はムジカのための
いつもの返答と違うような気がしたが、やはりいたわりの言葉も、変な同情もないことにムジカは安心した。
ムジカはそれしかなくとも自分でこの道を選んだ。だから後悔など何もない。
「あーあ挨拶もせずに帰ってきちまったから、ウォースターさんには悪いことしたなあ。明日にでも謝りに行くか。仕事は……うんだめだろう、けど」
少し、気が抜けたようだ。
たちまち押し寄せる睡魔に、ムジカはこっくりこっくりと船をこぎ始める。
肌寒さはあるものの、慣れないことをした疲れが一気に出たのだろう。酒が回ったのもあるのかも知れない。
「ムジカ、眠るのなら寝室へゆくのが最適です。ここは適切ではありません」
「うー、ちょっと寝て、から……。じぶんで、うごき、たくない」
「了解しました」
ラスの声が聞こえ、ムジカの体がふわりと浮く。
しっかりした腕に抱かれながら、ムジカの意識は眠りの底に滑り落ちていったのだった。
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