LOST DAYS~It‘s a wonderful WORLD~④

 俺が何であっても、そこがどこであったとしても、また季節は彩を変えて巡っていく。

 

 ちょうど俺が『立神一』になってから、一年が過ぎようとしていた。

 

 この一年、生活にはさして特筆するべき波乱もなく、夕凪のように穏やかな日々が過ぎていったが、こと俺自身をかえりみれば、随分と変わったのだろうと思う。

 


 数センチ分だけ高くなった視界。

 読み書きができるようになった頭。

 こぼさず箸で煮豆をつまめるようになった指先。

 

 そして自分が『立神一』という人間だという確たる思い。


 振り返ってみれば365日などあっという間に過ぎ去ったようにも思える。

 

 だが、こうして自分自身の変化をあげてみると、やっぱり365日分の時間は確かに流れ、あるいは重々しく積み重なったんだろうなと実感ができた。


 俺は相変わらず自室の縁側に座り、ボンヤリとしていた。

 何を考えるでもなく、ただただボンヤリと。


 絵面的には、一年前と何も変わっていないようにも見えたかもしれない。


 しかし、違う。


 何も考えられずにただ呆けるのと、何も考ないようにして頭を休めるのでは根本的に違う。


 人並みの思考能力をようやく得られたばかりの俺の頭は、慣れていない分だけ人よりも数倍の負荷がかかって消耗をしてしまう。

 

 一年で随分と成長することはできたが、それに脳の処理機能が追い付いてこないのだ。

 

 だからこうやって時折、あえて自分からまた空っぽな状態になることで、頭の中の回路が焼き切れるのを防がなくてはならない。

 

 ただの『無』であったままなら決してできなかったであろう、『有』から『無』への切り替え。

 

 他人からすればその行いは怠惰であり、愚かな退行に思えたかもしれない。

 けれど、俺はそれが人間として割と贅沢な行為であるのを知っている。


 ほんの束の間。


 忙しのない毎日の中で、見上げる森の奥で人知れず沸き出でた泉の水面を揺蕩う名も無き枯葉のように、何にでもない存在へと還ることの尊さと危うさを、何でもなかった俺は誰よりも知っているのだ。


 「……ただいま、イっくん」

 

 声のする方に、俺は目線だけを向ける。

 

 立神マリネ。

 俺の義理の姉が静かに微笑みながらこちらを見つめている視線とかち合った。

 

 男児のように短かったものが、肩甲骨の辺りまで垂れるほどに長くなった金髪。

 この頃ではより一層、その深みと透明度を増したように思える青い瞳。

 手脚や身長がググんと伸び、胸のふくらみも目立ってきた。

 

 定かではないが、つい先日、十歳になったらしい俺。

 もう少ししたら確かに十二歳を迎えるマリネ。

 

 その年頃の男女の成長差は、こうした外見へと顕著にあらわれる。

 

 元から大人びていたマリネはこの一年で本当に女性らしくなり、さらにそれは現在進行形で磨かれ続けていた。

 

 早熟な内面にようやく体の方が追い付いてきた……という感じか。

 

 天真爛漫な彼女を可愛いと言っていた人たちも、その日本人離れした端正な容姿に、自然と『美しい』という形容を用いるようになっていた。

 

 ……まぁ、その頃の俺は、姿形の美醜を見定めるだけの目は持ち合わせていなかったので、何を聞いてもあまりピンとはこなかったわけだが。


 「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった」


 「……うん」


 「……イっくんは何をしてたの?」

 

 「……別に……」

 

 そうして俺は目線を戻した。

 戻したとは言ったが、別に何かを見ていたわけじゃない。

 

 気が触れたように鳴き続けるセミの声。

 大きく大きく膨れ上がった入道雲。

 容赦なく照り付ける日差しにも瑞々しさを失わない木々の葉。

 頬や髪を撫でていく生温い風。

 

 ただそういったモノたちに混じりあうように、自分という存在を溶かし込んでいただけだ。

 

 「……さすがはイっくん。その歳で、随分と風流な趣味をお持ちなんだよ」

 

 マリネは楽しそうに笑いながら、俺の横に腰をかける。

 

 互いの体が触れ合うほどの距離。

 互いの息遣いすら感じ取れる至近距離。

 

 そしてマリネはそのまま俺の肩へと頭を預けて目をつぶる。

 

 彼女の体温が肩越しに伝わってくる。

 

 何度も言うが、季節は真夏の一番高いところ。

 地面から陽炎が立ち上るほど、気温は上昇しているはずだ。


 しかし、どれだけ彼女と密着しても、不思議と暑さは感じなかった。

 

 それは俺の感覚が鈍いのか、はたまた鋭すぎるのか、なんとも言えないところだった。


 「……ふぅ……」


 大きくマリネが息を吐く。


 「疲れてる?」


 「うん、疲れてる」

 

 「そうか……」

 

 「うん……そうなんだよ……」

 

 ずっと傍にいる……それは人が人らしく生きていこうとする限り、決して守られることのない約束だ。


 確かにマリネはずっと俺の傍にいた。

 

 一日のうちの二十四時間、それこそ片時も離れずに。

 

 ただ、俺が人として……一人の個人、一個の命としての自我に目覚めていくのに反比例して、そのマリネとの時間は削られていった。

 

 相変わらず同じ部屋で暮らしていたし、ことあるごとに一緒にいたのも変わらない。

 世間一般の姉と弟に比べても、共に過ごす時間の密度は濃かったことだろう。

 

 しかし、ずっとではなくなった。

 

 入浴や排せつは当然、一人でするようになった。

 

 食事は三食を大体二人で摂ったが、たまにそのうちの一食、あるいは二食続けてを俺一人で食べるような機会もしばしばあった。

 

 共に就寝する比重の方が多かったとはいえ、俺が寝入った真夜中、そっと音を忍ばせてマリネが寝床に潜り込んでくる気配を感じたことも一度や二度じゃない。

 

 そうして今回。

 とうとう昼間にも、マリネと俺はほんの数時間、別々の場所で別々のことをしていた。

 

 課題としてマリネが置いていった一般教養の問題集を終えてから、俺は俺でボンヤリと。

 

 マリネはマリネで、きっと爺さんがらみの用事で、きっとボンヤリする暇もなく気を張り続けていたのだろう。

 

 立神零厳の孫娘としてなのか。

 『龍神たつがみ』という組織の一構成員としてなのか。

 あるいはそのどちらも合わせた立場としてなのか……。

 

 なんにせよ、俺の横に座ることで、ようやく忙しなさから解放され、人心地ついたという感じ。

 

 俺が枯葉のようならば、彼女はただの立神マリネという、一人の十二歳の少女に還ることができたのだ。

 

 「……ねぇ、イっくん?」

 

 俺の小さな肩に頭をのせたまま、マリネはポツリと呟いた。

 

 「明後日ねぇ。山を下りたところにある村でさぁ、お祭りがあるんだって……」

 

 「……うん」

 

 「村って言ってもわかる?」

 

 「うん」

 

 「じゃぁ、お祭りは……」

 

 「……わからない……」

 

 「……わたしもねぇ、実際に行ったことはないんだぁ……」

 

 「…………」

 

 マリネは身をよじって腕を回し、密着した体を更に寄せてくる。

 首筋に、彼女の吐息と柔らかくて細い髪があたってこそばゆい。

 ささやかな胸のふくらみが、俺の腕に押し付けられて形を変える。

 

 「夜にねぇ、村の小さな神社の境内で開かれるんだよぉ……。わたあめとか焼きそばとかが売っててぇ、金魚すくいとか射的とかいっぱい遊ぶものがあるんだよぉ……」

 

 「…………」

 

 神社もわたあめも金魚すくいもわからない俺には彼女の言っていることがまるで理解できない。

 

 けれど、そんな俺を置き去りにしたままポツポツと『お祭り』について語り続けるマリネの邪魔をしてはいけないような気がして、俺は黙って耳だけを傾ける。


 「村中の人たちが狭い境内に集まって……。神輿を担いだり盆踊りをしたりして……。提灯の灯りを反射したラムネの瓶や小物屋さんの安っぽい指輪とか髪飾りとかがキラキラ輝いていてとっても綺麗で……。花火だってあがるんだよ」


 「……花火?」


 一際、想像ができず、それでいて妙に惹きつけられる単語に、俺は思わず反応してしまった。


 「そう……花火……」


 マリネは俺の体に回した腕の力を少しだけ強める。

 爽やかさとほどよい甘さを含んだ柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。

 香水なのかシャンプーなのか、とにかくマリネの体からいつも漂ってくる、彼女の香りだ。


 「それは空の暗闇を切り裂くように高く高く昇っていくんだよ。何も恐れず、何にも縛られず、ヒューって思うがまま真っ直ぐに昇っていくんだよ。……そして、バーンって……ババーンって大きな音を立てながら、夜空に大きな大きな花を咲かせるの……」


 「……花……」


 「一発じゃないんだよ?それが次々と……何百、何千という花火が短い時間のうちにポンポンと打ち上がるの」


 「……そんなに……」


 「そんなに?」


 「そんなに花がいっぱい咲いたら……空が狭くなる」


 「ふふふ……そうだねぇ……」


 マリネがクスクスと可笑しそうに笑う。


 「花は確かにキレイだけれど、空にお花畑ができちゃたら、それはそれで困っちゃうよねぇ……」


 その笑いが首筋を撫でることで、また俺は見当違いなことを言ってしまったんだろうと眉をひそめてしまう。


 「好きだなぁ~イっくんのそういうところ……。うん、大好き」


 「…………」


 「でも、大丈夫なんだよ。……花火の花の煌めきはほんの一瞬だけ……。大きく咲き乱れた後は、すぐに燃えて散ってしまうんだよ。……跡形もなく……余韻とキレイだったという記憶だけを残して」


 「……燃えて……散る……」

 

 「儚いよねぇ……」

 

 「…………」


  咲いた傍から散っていく煌めく花……たかだか一年分の知識しかもたない俺には、やっぱり想像もできないものだった。

 

 ……だから余計に興味を持った。

 

 花火……か……。


 「……行ってみない、イっくん?」

 

 「……お祭りに?」

 

 「お祭りに」

 

 「花火……」

 

 「うん、花火を見に行こう」

 

 「……だけど……」

 

 そう、だけど。

 

 『龍神たつがみ』で暮らす上での幾つかのルール……その堅牢さと無慈悲さから『おきて』と呼んでもいいかもしれない。

 

 その掟の一つに、許可なく下山ないしコミュニティーの外に出てはいけないというものがある。

 

 要するに仕事や、自給でまかないきれない物資の調達などの特例を除き、いかなる事情があっても、この『殺し屋の里』から勝手に出てはいけないということだ。

 

 もちろん、祭りの見物など、その特例として認められるわけがない。


 何故そんな決まりがあるのかは知る由もなかったが、無知な俺にもそれくらいはわかる。

 ……その掟に反したものが、どんな顛末を迎えるかまでをも含めて。


 ことさらに壁や柵で囲われているわけではないので、物理的に里から出ることは簡単だ。

 

 しかし、目には見えない頑強な鎖や楔が、こんな俺ですらをも縛り付けて放さない。 

 

 「……ま……難しいかなぁ……」

 

 そう言って、マリネはフッと腕の力を緩め、俺の体から離れていく。

 

 いつかの夜……一瞬でも重なり合った額が離れた時に感じてしまったのと同じような冷たさが、真夏の太陽をも押しのけて、俺の胸を震わせる。

 

 「ごめんごめん、今の話は忘れて欲しいんだよ、イっくん」

 

 マリネは声色も表情も明るくして言う。

 

 違和感はない。

 取り繕ったような空元気ではなく、いつも通りの明るいマリネだ。

 

 「それに、どうせその日はお姉ちゃん、夜遅くまでまた用事があるんだよ。多分、ここからでも花火の音くらいは聞こえるかもしれないから、イっくんはまた縁側にでも座ってボケェーっとそれを聞いていればいいんだよ」


 それじゃぁ、気のせいか……。

 

 なんとなく……。

 

 さっきは、なんだかマリネらしからぬ沈んだ声が聞こえたような気がしたのにな……。


 

 

 祭りの当日。

 事前の宣告通り、朝からマリネの姿は見えなかった。

 

 どこで何をしているのやら皆目見当がつかなかったが、俺は別段気にするでもなく、算数のドリルやイラストがついた読み書き練習帳を開き、普段通りに自分の内面の足りないところをせこせこと埋めることに没頭した。

 

 そして、日が暮れる。

 

 一膳だけ用意した夕食を済ませ、風呂に入り、縁側に座りながら火照った体を冷ます。

 すっかり慣れた、一人きりの夜の過ごし方だ。

 

 「……お祭り……神社……わたあめ……焼きそば……」

 

 マリネの口からこぼれた新しい言葉を何の気なしに列挙して、舌の上で転がしてみる。

 

 辞書を引くだとか、誰かに尋ねるだとかいうところまでは考えの至らない俺。

 

 マリネが傍にいてその意味を教えてくれなければ、単語は、言葉は、俺にとってただの音の響きにしかならない。

 

 「……金魚すくい……射的………………花火…………」

 

 だから、彼女が詳しく説明してくれた『花火』という単語だけが意味のある言葉になり、俺にとって唯一の武器である想像力を使って立ち向かうことが出来た。

 

 夜空を見上げる。

 

 この暗闇を真っすぐに切り裂く眩い閃光。

 何も恐れず、何ものにも縛られず、己の思うがままに突き進む光。

 そうやって天高く駆けていった先で、これまた誰に憚ることなく咲いた大輪の花。

 

 その煌めきは、その一生は、ほんの一瞬の儚いもの。

 美しく開いた後には跡形もなく消えていくばかり。

 

 残るのは余韻と記憶。

 

 確かにそこにいたのだという証しを、空気や人の心に焼き付け、そして死んでいく。

 

 「……花火……花火……」

 

 マリネは花火を見たかったんだろうか?

 

 「花火……花火……」

 

 それとも花火になりたかったのだろうか?

 

 「花火……花火……」

 

 儚くても、一瞬でも。

 

 自由に空を飛んで、煌めいて、咲いて。

 

 「花火……花……火……」

 

 そうやって、しがらみとか縛りとか、彼女を取り巻くありとあらゆるものから解き放たれて、潔く散っていきたいのだろうか?

 

 「……マリネ……」

 

 彼女の名前を呟いてみる。

 

 意味を教わったわけではない。

 詳しい説明をされたわけでもない。

 

 それなのに……どういうわけか単なる音にはとどまらない『マリネ』という響き。

 

 その名前を呼ぶだけで、彼女のあの爽やかな香りと笑顔が、俺の脳裏によぎってくる。

 

 傍にいてくれる時のようにほんのりと胸の奥が暖かくなって、けれど実際にはいないということに少しだけ寒くなって……。

 

 この気持ちはなんなのだろう?

 

 明日にでも、マリネに聞いてみよう。

 

 彼女ならきっと明確な答えを教えてくれるハズだ。

 

 そう、俺の姉は何だって知っているのだから……。


 「マリネ……マリネ……マリ……姉ちゃん……」

  

 ダン!ヒュン……。


 関節視野の端の方で微かに閃いた光をとらえた、ほんの刹那。


 無意識よりもまだ意識せず。

 反射よりももっと単純な本能で。

 俺は拳一つぶんくらい頭を傾げた。

 

 その横を何かが高速で横切り、体を預けていた柱に穴を穿った。

 

 縁側が張り出した広い中庭の茂み。

 さきほど一瞬だけそこから煌めいた光。

 

 もしかしてこれが花火?

 

 ……いや、違うだろうな。

 

 一瞬の輝きではあったが、それは儚いというよりも単に刹那的なだけ。

 記憶にも心にも残らない、ただの光の閃きだ。

 

 俺はパラパラと木くずが落ちる柱を眺める。

 そこにポッカリと開いた穴に、飛来してきた何かがめり込んでいるのが見える。

 

 無骨で無個性で無機質な金属の塊。

 

 銃弾だ。

 

 どこからどう見ても銃弾だ。


 わざわざこんな面白みもない柱を狙ったわけではあるまい。

 それは確実に俺の命を散らすべく放たれた、まごうことなき凶弾だった。

 

 ダン!ヒュン……。ダン!ヒュン……。ダン!ヒュン……。


 第二射、第三射、第四射と続く。

 正確無比のヘッドショットの連続。

 一射目から寸分違わずに俺の脳髄に向かって空気を切り裂いていく。


 ダン!ヒュン……。ダン!ヒュン……。ダン!ヒュン……。


 ヒット&アウェイではなく、射手はその場から動かずに撃ち続ける。

 

 固執……なのだろう。

 

 愚直なまでにしつこく頭を狙ってくることも。

 射線の軌道が暴かれたその場から動かずに連射することも。

 ただの意地でしかなかった。


 本当なら、一撃で仕留められなかった時点で作戦をかえるべきなのだ。

 それが狙撃という不意をついてなんぼの暗殺手段における大前提。

 

 この正確な射撃からして相当腕は立つようだし、実践経験だってかなり積んでいるはず。

 そんな基本、わからないわけではないだろう。


 それ故に……なのかもしれない。

 

 こんな子供相手。


 それも少し知恵が遅れ気味である素人の子供相手に、狙撃としては超近距離と言ってもいい間合いで、百戦錬磨の射撃技術を持っているのだと自負している自分が仕留めそこなったという事実が、射手のプライドをいたく傷つけ、冷静さを失わせてしまった。


 おまけに。


 ダン!ヒュン……。ダン!ヒュン……。ダン!ヒュン……。


 それでも当たらない。


 ダン!ヒュン……。ダン!ヒュン……。ダン!ヒュン……。


 俺は次々と迫りくる銃弾を躱す、躱す、躱す。

 

 いくら撃たれても柱に穴が増えるだけ。

 

 相変わらず指定席である縁側から腰を上げもせず、ただわずかな首の動きだけで狙撃のことごとくを躱していく。


 相手の射撃の腕が見事であればあるほど。

 狙いが正確であればあるほど、弾道の予測は容易だった。


 そうして生まれる悪循環。

 そこから派生する最悪のドツボ。


 ダン!ダン!ダン!ダン!


 引き金を引く間隔が徐々に狭まってくる。

 同時に狙いが段々と甘くなってくる。

 怨嗟と焦燥が柱にさえ当たらなくなった銃弾からヒシヒシと伝わってくる。

 

 苛立っていた。焦っていた。

 

 なぜ当たらない?なぜ躱せる?

 

 不安が募る。目の前に繰り広がる異常な光景に恐怖が沸く。

 

 元から揺らいでいた心に今度は邪念が入り込み、手元を狂わせてしまう。

 

 もはや躱すまでもない。

 

 俺は射線の先、庭に据えられた池の傍にある茂みからこちらをスコープ越しに覗いているであろう射手の目をジッと見つめ返す。

 

 ダン!ダン!ダン!カチッ……カチッ……。


 そして弾切れ。

 

 二十発の弾丸は、結局俺にかすり傷一つつけることなく、無為に硝煙の匂いを辺りにバラまいただけだった。

 

 「なんだってんだよぉ!!!」

 

 そう毒づきながら、人影が茂みから飛び出してくる。

 

 闇夜に溶け込む頭からつま先まで黒づくめの人間。

 声と背格好からして成人の男性。

 

 彼は役目を全うしきれなかったアサルトライフルを苛立たし気に地面に叩きつける。

 ライフルの銃身が、ちょうど池の張り部分の岩にぶつかって割れる。

 

 銃の質の問題でもなければ、射撃の腕が悪かったわけではない。

 そんなことは百も承知。

 これは単なる八つ当たり。


 やり場のない憤りの矛先として、彼はそうやってライフルをぞんざいに扱うしかなかった。


 何が問題だったのだろう?

 何が悪かったのだろう?

 

 ……強いて言えば、相手が悪かったとしか言いようがない。

 

 どこからどう見ても人畜無害にして純真無垢な子供。


 アサルトライフルなんて大仰なモノを持ち出すまでもなく、細くて柔らかそうな首を軽くひねるだけで簡単に命を刈り取れそうな無力な子供。


 だが、マガジン丸々一個分の銃弾を浴びても未だこうやってピンピンと……いや、ボンヤリとした目でこちらを見ていることが現実。


 信じられなくても、それが現実だ。


 「このクソガキぃ!!」


 バン!バン!バン!


 懐から取り出したハンドガンを構えながら、男が遮二無二、走り寄って来る。

 

 バン!バン!バン!バン!バン!バン!


 精彩を著しく欠いたヤケクソ気味のハンドガンの連射。

 まともに狙いを定めているわけではないが、それ故に予測は困難。

 

 俺は身を伏せ、縁側からゴロゴロと転がりながら部屋の中へと入る。

 池の傍からここまで辿り着くには、大人の脚力であれば数秒もあれば充分。


 バン!バン!バン!バン!バン!バン!


 その間もフルオートによる間断のない銃弾の雨が横なぐりに降り続く。

 

 俺は机代わりにしていた折り畳み式のテーブルを勢いよくひっくり返して盾にする。

 広げていたままの勉強道具一式が中空に舞い上がる。

 

 足し算や引き算の問題集。

 五十音と簡単な漢字を学ぶためのワークブック。

 カレンダーや何かの包装紙など様々な材質の紙を束ねて切りそろえたノート代わりのメモ帳。

 綺麗に尖れた五本の短い鉛筆と、一本の赤い色鉛筆、そして小さな消しゴム。

 

 こんな辺鄙なこんな村とも集落ともつかない場所に書店や文房具屋などあるわけがない。

 学校の体をとった施設はあるが、そこで教えるカリキュラムの中に一般教養などあるわけもない。

 

 すべてはマリネが揃えてくれた物。

 すべてにマリネの手が加わった物。


 バン!バン!バン!バン!バン!バン!


 それらが銃弾によって破壊されていく。


 文字の一つ一つ、数字の一つ一つが手書きで書かれた問題集たちが散り散りになっていく。


 手を添えられながら、まずは握り方、次に書き方を教えてくれた鉛筆がただの木片になっていく。


 決して使いやすい物ではなかったが、俺の成長の進歩が確かに刻まれていたメモ帳がバラバラになって部屋に撒き散らされていく。


 俺の一年間が壊されていく。

 俺とマリネが寄り添って歩いてきた道が無慈悲な銃弾によって蹂躙されていく。

 

 俺はその様をただ静かに眺めていた。

 

 俺のトンチンカンな回答を馬鹿にしたりせず、彼女が赤ペン片手に根気強く『計算』や『文字』という概念を教えてくれた問題集。

 

 鼻歌混じりに器用にナイフを滑らせて毎日、俺が使いやすいように彼女が削ってくれた鉛筆。

 

 ページの最初の方では、ただミミズがのたくったような線だけしか書かれていなかったが、ページが進むにつれて少しづつまともな文字や数字、中には絵のようなものが現れだし、それを彼女がめくる度、ニコニコと本当に嬉しそうに笑うメモ帳。

 

 そんな、どれもに俺たちの一年間が詰まった物たちが、目の前で壊れていく。

 

 「…………」

 

 「クソッ!なんだってガキ一人に、こんなに手間を取られなきゃならねーんだ!!」

 

男の声がすぐ近くで聞こえる。


男の重たいブーツに踏まれた縁側がギシィと音を立てる。

全弾を打ち尽くして捨てたマガジンが床板をガチャリと鳴らす。

 

侵入してくる。

 

俺でもなければマリネでもない。

 

他の誰かが、俺たちの部屋に入ってこようとしている。

 

「…………」

 

これといって何を思ったわけでもなかった。

 

マリネが時間と丹精を込めて作ってくれた物たちが壊れていくことも。

他の誰かが俺たちの部屋を土足で踏み荒らすことも。

 

特に感慨深くはなかった。

 

「…………」

 

「さすがにこの距離からならはずさねー。……覚悟しな、坊主」

 

ただ、なんとなく。

 

本当に、感情でも感覚でもない心のどこかが、なんとなく……。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

ブオン。

 

「ッシ!!」

 

バン!バン!バン!


「な!?座布団!?」

 

「…………」

 

なんとなく、嫌な気がしたんだ。

 

 

「…………」

 

俺がテーブルの陰から放り投げた座布団。

 

こんな単純なフェイクに男は見事に引っかかり、座布団に向かってマガジンを入れ替えたばかりのハンドガンを連射した。

 

中綿が飛び散って重たい雪のように部屋の中に白く舞う。


俺は囮とは反対の方向から転がりながら飛び出し、男に肉薄する。

 

そして手近に落ちていた、半分に粉砕されて先端が刺々しく尖ったマリネ専用の赤鉛筆を手に取る。

 

「なめた真似を!!」

 

男はすぐさま銃口をこちらに向け直す。

 

何度となく子供にいいようにあしらわれて、男の憤慨は頂点に達していた。

目出し帽からのぞいた瞳は、赤く血走っているようだ。

 

そう、真っ赤な目。

 

月明りと行灯だけの乏しい灯りしかない、今は夜。


それを目視できるだけの至近距離に、すでに俺は入っていたのだった。

 

 「な!?」

 

 「…………」

 

 ズブリ……。


 「ぎゃぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 僅かな抵抗があったのち、何か柔らかい物を静かに貫いた感触があった。

 それどころか、男の悲痛な叫び声が、耳だけではなく振動として俺の手にダイレクトに伝わってくる。

 

 男は思わず体をのけぞらせる。

 

 どれだけ痛みや各種拷問に耐性を作るように訓練された暗殺者でも、さすがに不格好に割れた鉛筆で眼球を抉られる痛みを我慢することはできなかったようだ。

 

 それでも、やはりプロフェッショナル。

 

 反射的な反応が過ぎたあとにはすぐさま、これまた反射的に抗戦の構えに移ろうとする。

 

 「…………」

 

 だが、半手遅い。

 

 男が苦悶したその一瞬の間に、俺は男が銃を構える右腕の関節を無理なく内側にたたむ。

 静かに、さりげなく、そして何よりも素早く。

  

 パァァンン!!


 「ぐはぁぁぁぁぁ……」

 

 男は自らの銃で、自らの胸を撃ち抜いてしまう。

 

 反撃に転じるために引き金を引いていたところに呼吸を合わせ、俺が腕を折り曲げて男の胸に銃口が向くように誘導したわけだ。

 

 男の胸を貫通した銃弾はちょうどよく、既にコボコになっていた縁側の柱に新たな穴が穿たれる。

 

 「ぐっ!!がはぁぁ!!」

 

 男は口から大量に血を吐き出す。

 

 即死はさけられたらしいが、どこか大きな血管、もしくは主要な内臓に深刻なダメージが入ったことは確かだ。


 さすがに力の入らなくなった体は膝から折れ、指先からはボトリとハンドガンが畳の上に重たげにこぼれ落ちる。


 俺はそのまがまがしく黒光りする殺戮の道具を拾い上げ、ちょうど膝立ちになって目線の高さになった男の眉間へと銃口を突き付けた。

 

 「……くぅぅはぁぁ……くぅぅはぁぁ……」

 

 「…………」

 

 「……なんて目をしやがるんだ……坊主……」

 

 「…………」

 

 「……お前……これから人が死ぬんだぜ?……それも……自分が手にかけて……だ……」

 

 「…………」


 「よく……そんな感情の無い目をできる……」


 「…………」

 

 そうして男は、ゆっくりとこちらに腕をのばす。

 身長差や年齢差から言って、大人が子供の頭を撫でようとする仕草にも似ている。


 しかし、俺と彼とはそのような親密に心を交わすような関係では決してない。


 男がのばした手は、そのまま俺の首へと回される。

 その大きな手の平一つだけで全体を覆い隠せそうなほど細い俺の首。

 

 力は入っていない。

 というよりも力が入らないというのが正しい。

 

 こんな死の際にあっても当初の目的通り、俺を亡き者にしようとする男の行為は、実直と呼ぶべきか愚直と呼ぶべきか……。


 「こ……これでも……俺は……この仕事で二十年近く飯を食ってきた。……その前からも……お前とあまりかわらない歳の頃からもう……毎日……毎日……人を殺してきた。……たくさん……殺してきた……。殺されないためには、殺さなくちゃならなかった……そんな毎日だった……」

 

 「…………」

 

 「別に誇れることでも……ましてや、褒められることでもないわな。……だけどな……だけど……。一度だって、お前みたいな空っぽな目で殺したことは俺にはない。……段々と人を殺すっていう行為が当たり前の日常になっていって……いろんな大事なもんをなくして……鈍って……。まともな人間にはなれなくても……いっぱしの殺し屋にはなれたつもりだった……」

 

 「…………」

 

 「けど……やっぱり俺は根っこのところでは人間だったみたいだな……。こんな死ぬ寸前だが……だからこそ、気づけてよかった。……お前と比べれば……俺もまだまともな方だったんだなって安心してるよ、ホント……」


 「…………」


 「お前のことが哀れだよ、坊主。……ああ……本当に……心から同情しちまう……。お前は……お前はこの先、幾らあがいてみたところで……どれだけまともに生きようともがいてみたってなぁ、立神零厳の秘蔵っ子?……」


 片目を抉られ、目出し帽の口元を血糊で染める男。

 残った方の目をゆっくりと走らせ、床に散らばった問題集やメモ帳、部屋全体をぐるりと眺めまわすと、また俺の方へ向き直る。


 そして、本当に同情したような声色でつぶやく。


 「絶対に、人間にはなれねーよ……このバケモノ」


 「…………」


 「……そしていつか必ず……お前はねーちゃんを悲しませることになる……」


 バァァンン!


 俺はハンドガンの引き金を引く。

 

 ゼロ距離から放たれた銃弾が外れるようなことはなく、男の皮膚、肉、頭蓋、そして脳しょうを貫いていく。

 

 返り血が頬に飛ぶ。

 引き金を引いた強い反動によって肩がはずれる。

 

 「…………」

 

 男の体がエビ反りに傾ぎ、後ろへと倒れていく。

 縁側から頭だけを庭に突き出し、ピクピクと痙攣を繰り返す。

 胸や頭部から血がドクドクと垂れ流れる。

 敷石が瞬く間に赤黒く染まっていく。


 「…………」


 月が曇に隠れ、またすぐに顔を出す。

 火薬と死の匂いが辺りに漂う。

 何かの鳥の鳴き声が、短く鋭く一つだけ響く。

 硬い銃声と男が最後に言い残した言葉がいつまでも耳の奥に残っている。

 

 何も感じなかった。

 何も思わなかった。

 

 どうして自分の命が狙われたのか?

 どうして俺はあんな動きが出来て、結果、こうして生き残ることが出来たのか?

 

 色々と考えなくてはならないことがあったはずだ。


 しかし、俺はただボンヤリと佇んでいるだけ。

 

 こうして回想をしている中だからこそ、疑問点やらおかしいなというところに目を向けることができるが、当時の俺は、この出来事の最初から最後までを、まるで自身のどこかに組み込まれたプログラムがはじき出した最適解へと導かれるがごとく、ただ機械的に、ただ自動的に動いたに過ぎなかった。

 

 どこまでも他人事。

 どこまでも無感傷。

 

 そんな過去の俺をこうやって眺めてみると、なるほど、的確な言葉は既に何度か登場しているではないか。

 

 「……バケモノ……」

 

 そう、そこに立っていたのは、紛れもなくバケモノだ。

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