プロローグ~POLICEMAN side②~

            ゴーン……ゴーン……ゴーン……


 俺があれこれと献上品を乗せたお盆を持ち、台所から出てきたタイミングで、そんな音がどこからか聞こえてきた。


            ゴーン……ゴーン……ゴーン……


 柱時計?……いや、違う。そんな軽い音じゃない。もっと重々しくて、もっと奥深い。


             ゴーン……ゴーン……ゴーン……


 そう、たとえば教会。

 

 それも日曜日のミサに市井の信者たちが集まるといった具合の街の小さな教会ではなく、歴史と伝統、ある種の霊験すらその身に備えた大教会。


 信仰の象徴にして中心。信仰の本質にして真理。 

 そういった大きな教会に備え付けられた、大きな大きな鐘の音だ。


 物理的な大きさだけじゃない。質量としての重さでもない。


 幾百年、幾千年の悠久を見守り。

 幾千人、幾万人の人々の耳や体、心にまで向けて己を震わせ響き渡ってきた。


 そんな包み込むような圧倒的な壮大さと、積み重ねてきた記憶の重みを感じさせる、荘厳な音。


 一体どこから?


 いつでも市民の皆様の生活に寄り添う交番でありたいとは思っているけれど、さすがにそこまでの設備は充実していない。


 そもそも極東の小さな島国のこんな小さな街に、そのような由緒正しき立派な大教会などあるはずもない。


           ゴーン……ゴーン……ゴーン……



 鐘が響く。一定の音量、一律のリズムを刻んで響き続ける。

 

 「どうして……」

 

 そんな鐘の音に魅せられ、しばし自失状態にいた俺は、そう呟く女の子の声を聞いて我に返った。


 「どうして……こんなところに……これが……」

 

 彼女がただでさえ大きな瞳をさらに大きくして見つめる視線の先を俺も追ってみた。


           ゴーン……ゴーン……ゴーン……


 いや、追うだなんて無駄な工程を挟む必要もなかった。


           ゴーン……ゴーン……ゴーン……

 

 わかっていた。

 最初から……最初に鐘の音が耳に届いた時からわかっていた。


           ゴーン……ゴーン……ゴーン……

 

 この鐘の音の発生源。

 

 彼女が驚いたように見つめている、中空に浮いた赤い発光体。

 俺にあてがわれているデスクの上にいつの間にか置かれ、持て余していた物体。

 

 地球儀だ。


 正確に言えば、地球儀風にデザインされた手のひらサイズの小さなオブジェだ。


 何故、『地球儀』と断言せずに、『地球儀風』と表現したか?

 あるいは他の天体をモチーフにした『天球儀』と言ってもよかったではないか?


 答えは簡単、本来、天体を丸々と縮尺したものが収まるべきその場所にあった球体は、やはり地球であるのだけれど、それが正確な地球の地形を再現していなかったということにつきる。

 

 先ほど暇を見つけて散々いじくりまわしていたからよくわかる。


 やはり球体の表面に刻み込まれた紋様、陸地や海を表しているようなデコボコとした模様は、地球のようで地球ではなかった。

 

 有るものは有るが無いものは無い。


 たとえば日本列島と思しきものはあったが、オーストラリアが無い。

 アメリカ大陸らしきものはあったが、南アメリカは無い。という具合だ。

 

 それに縮尺も滅茶苦茶で、日本列島の大きさがアメリカ大陸と同比くらいであったし、太平洋があまりにも狭く、逆に大西洋が球体の半分以上を占めるほどに広大だった。


 材質はわからない。


 ルビーかあるいはそれを模した他の何かなのか、生憎宝石の真贋を見極める目は持ち合わせてはいなかったので、なんとも言えない。

 

 とにかく全面が紅色で覆われた球体型の鉱物が、精緻な細工の施された台座や半円の支柱によって支えられて鎮座していた。


 そんな地球儀モドキのオブジェから鐘の音は聞こえる。


 そして、まるでその音色に共鳴するかのようなリズムで鉱物は内側から光を発し、交番内を紅く紅く染め上げている。


            ゴーン……ゴーン……ゴーン……


 「……ここにこれが……やっぱり……だから座標が……」

 

 女の子がまたブツブツと独り言を言っている。


 しかし、その声量はとても小さく、鳴り止まぬ鐘の音に容易くかき消されてしまって何を言っているのかはわからない。


 ただ、その横顔から。


 紅い光に照らされて色づく、凛とした横顔から。

 彼女が己の頭をフル回転させて何某かを真剣に思考していることだけはわかる。

 

 「…………」

 

 こんな不思議体験の只中にありながら、俺が動揺せずにいられるのは、そんな彼女の真摯な面持ちが実に頼もしく思えたからだろう。


 彼女に声をかけてはいけない。

 彼女の思考の邪魔をしてはいけない。

 彼女の放つ硬質な空気を乱してはいけない。


 そう感じ取った俺は、冷めはじめて渋みが出てきているであろう緑茶などを乗せたお盆を手に持ったまま、その場を一歩も動けなかった。


             ゴーン、ゴーン、ゴーン……

  

 「……ん?」

 

 そうやってどれだけの時間が過ぎただろう?


 一分と言われれば一分、一時間と言われれば一時間経ったのだと納得してしまうほどに時間の感覚が怪しかった。

 

 それでも聴覚の方はどうやら正常であったようで、俺はその膠着した場面の変容を敏感に察知することが出来た。


             ゴーン、ゴーン、ゴーン……

 

 「音の間隔が……短くな……」


 「そういうことでしたのね!!」


 それまでの場の硬い空気を一閃してしまうような、美しい鈴のような声が響いた。


 そして。


 「っあんの性悪クソババァ!!なんて意地の悪い仕掛けをしやがりますの!!」


 綺麗に澄んだ声では決して言ってほしくない汚い言葉が響いてしまった。

 

 「ああ、もう!!時間がない!!」


 そうして女の子はポシェットの中に素早く手を入れ、そこから何か液体が入った小瓶を取り出すと、グイっと中の物を一息で飲み干す。


 途端に彼女の体は白い光に包まれ、足元には何事か文字の書かれた円環が表れた。


 魔法陣?というやつだろうか。


 その白い魔法陣が彼女の足元から体に沿うように登っていく。

 地球儀モドキの発する紅い光にも負けず、混じらず、染まらずの白い輝きだ。

 

 すると、長く黒いはずの髪の毛が毛先の方から白銀になっていく。

 漆黒なはずの大きな瞳から、黒が剥離するかのように白銀に輝いていく。


 そうか、これが本来、彼女が持つべき色なのか。

 白く輝く誉れ高き白銀。


 何にでも染まることはできるが、何人にも侵されない。


 全てを食らいつくして自己を顕示するのが黒ならば。


 全てを受け入れ、許し、包み込んでも決して芯が揺るがずそこに立つのが白い銀。


 やがて新たなる光は終息し、世界はまた元の紅く不吉な色に戻った。

 

 ああ、どおりで違和感があったはずだ。


 彼女には白が相応しい。

 汚れの無い、高潔な彼女にピッタリな色だ。

 

 

 ……どうしてだろう?


 会ってまだ間もないはずであるのに、彼女という人間の本質がその時の俺には手に取るようにわかった。


 などと考えているうちに、女の子はキッとこちらを睨み上げ、息つく間もなく一瞬で距離を詰めてきたかと思ったら、俺の腕をむんずと掴んだ。


 「もうあなたでいいですわ!!」


 「……なにがいいんだろう?」


 「四の五の言わずについてきなさい!!」


 「いや、だから……」


 「トールハンマァァァァァ!!!!!」


          バチバチバチバチバチ!!


 いつの間にそれを手に持っていたのか。


 出会ってから一番大きな声……というか奇声を張り上げた瞬間、首筋から俺の全身に痛みを伴った強い痺れが駆け巡った。


 「まったく、手間をかけさせないでくださいまし」


 「……なにを……」


 「あら、まだ意識があるんですの?これは予想以上にタフガイなようですわね」


 「……いや、だから……」


 「トールハンマーァァァァァァァァ(最大出力)!!!!!!」


           バチバチバチバチバチバチバチバチ!!!!


 再び俺の体を電流が襲った。それも先ほどよりも強く、長く。


 さすがのタフガイにもこれは結構効く。


 力の入らない手からお盆が滑り落ちて湯飲みや甘味の乗った皿が割れた。


 踏ん張ることも難しく、俺の体は目の前に立っていた女の子に覆いかぶさるように倒れ込んだ。


 「誇りなさい。このわたくし渾身の一作、『雷神の鎚』ことトールハンマーの力をここまで引き出させたのはあなたが初めてですわ」


 雷神の鎚・トールハンマー……。


 いや、それはただの魔改造したスタンガンだ。


 見た目も使い方も、ただのスタンガンだ。


 それっぽい名前を付けるなら、もう少し名前に寄せた造形にしようよ、君。


 ハンマー感が丸でないよ。


 スタンガン感が丸出しだよ。

 

 「もしこれでも気絶しないというのならば仕方がありません。遂に……遂にトールハンマー(アンリミテッド)の封印を解く時が来たということですわね……ふふふ……ふふふ」


 「…………」


 余計なツッコミを入れるとアンリミテッドな追い打ちをかけてきそうな雰囲気だったので、俺はとりあえず気絶したフリを決め込もう。


 そのマッドな笑顔はなんだ?

 むしろ俺が気絶してないことを期待してない?


 あれ?無垢で高潔な君はどこに行った?


 ……っていうか君、急いでたんじゃないの?


 「…………」


 「…………」


 「……えい」


     バヂィバヂィバヂィバヂィバヂィバヂィバヂィバヂィ!!!!!!!


 「……ぐっ」


 こいつ、気絶しているハズの人間に対して躊躇いもなくアンリミテッドしやがった。


 「やっぱり、意識がありましたのね」


 「……なん……で……」


 「…………」


 俺の訴えに耳を貸さず、彼女が俺の額に人差し指を添えながら、何か小さな声で言葉を発している。


 音は耳に入ってきてはいるけれど、どうにも上手く言語として脳が変換してくれない。


 ああ、色々と抗議してやりたい。


 けれど、封印指定された出力の電気ショックをくらってはやはり一溜りもなく、俺は自分の意識が遠ざかっていくのがわかった。


 相変わらず急かすような鐘の音。

 視界一面を染める紅色の輝き。


 ……鳴り響く銃声。

 ……絶望に打ちひしがれた慟哭。

 ……そこかしこで揺らめく炎の熱。

 ……血だまりに塗り固められた世界。


 いつか見た景色が蘇る。

 いつか居た場所の光景が甦る。


 忘れたいと思っているのに。

 逃れたいと思っているのに。


 ああ、やっぱり俺は……。

 いつまでたっても……。


 ―― 大丈夫 ――


 優しい声が聞こえる。

 

 ―― 大丈夫だから ――

 

 懐かしい声が聞こえる。


 ―― 守ってあげる ――

 

 紅色の世界を薙ぎ払う、白く優しい光。 

 

 ―― わたしが、守ってあげる ――

 

 鼻を埋めた彼女の首筋から香る柑橘系の爽やかな香り。

 

 全身を預けることで感じる彼女の温もりと柔らかさ。

 

 支えてくれる彼女の細腕の意外な力強さ。

 

 そんなもの達に包まれながら。

 意識がゆっくりと沈んでいく。


   ……大丈夫

        ……大丈夫

             ……大丈夫

 

 意識が完全に途切れる、その間際まで、そんな誰かの声が頭の中にずっと響いていた。

                                        


 

             @@@@@




 覚醒へ向かう長いトンネルを抜けても、そこが何処かはわからなかった。


 頬をかすめて吹き抜ける風。

 鼻腔をくすぐる草花の青臭さと仄かに混じる土の匂い。

 閉じた目蓋に差し込む、陽光とは違うふわりとした明り。


 どうやら屋外。


 何か柔らかく、程よい弾力を持った物を枕にして、俺は寝そべっているようだ。

 

 ふむ、皆目、状況が掴めない。

 情報量が圧倒的に不足している。

 

 何だか頭がフワフワとして直近の記憶もアヤフヤだ。

 何だかバチバチとされてバヂィバヂィときたような気もするけれど……。


             サァァァァ…………


 また一陣、強めの風が吹いた。

 

 雄大な大地の力。

 尊き生命の息吹。

 

 そんなもの達を身に纏った薫風にうながされるように、俺はゆっくりと目蓋を開いた。

 

 「あら……」

 

 少女がいた。

 

 「お目覚めですの?」

 

 白く輝く髪をなびかせ。

 銀に煌めく瞳を眩しそうに細め。

 静かな微笑みを口にたたえ。

 こちらの顔を覗き込むように屈みこんだ、少女がいた。


 美しい。

 

 その在り方が本当に美しい。

 

 ひらひら揺蕩う花吹雪。

 わずかに注ぐ月明り。

 白銀の少女がそこにいた。


 ……そして胸がいた。

 

 たわわに実った、胸がいた。

 

 圧巻だ。

 

 まさに圧巻の一言だ。

 

 視界いっぱいに広がる小高い双丘。

 女性を女性たらしめる魅惑の膨らみ。

 芳醇な大地の恵み。

 豊満な天からの授かりもの。

 尊ぶべき生命の神秘。

 崇拝すべき曲線。

 

 ああ、神よ。おお、神よ。

 

 あなたはどうしてこれ程までに素晴らしいものを創り給うことができたのか。

 

 あなたはどうしてこの様に男心を惑わす美しき造形物を人に与え給うたのか。

 

 ああ、神よ。おお、神よ。

 

 あなたはホント、神ってる。

 

 「……なんだか汚らわしい視線を感じますわ」

 

 「そうか、ここは天国か」

 

 「このタイミングでその発言はセクハラ以外の何物でもないですの!」

 

 頭を支える枕が居心地悪そうにモゾモゾと揺れる。

 目覚めたばかりの脳にその振動は随分と堪える。

 

 恥ずかしくて照れくさくて今すぐ振り落としてやりたいと思う反面で、色々と俺に対する罪悪感みたいなものを感じている手前雑にも扱いきれず、おまけに実はこの体勢を続けるうちに母性本能をくすぐられて、認めたくはないのにちょっと気持ちよくなり始めちゃってどうしましょうという感じに葛藤している。

 

 そんな揺れ方だ。


 やれやれ、世話がかかる。

 

 「……ごめん、足、辛いだろ?今、どくから」

 

 「……どうということもありませんわ」

 

 「恥ずかしいんだったら無理しなくてもいいんだよ」

 

 「無、無理だなんて!と、殿方に膝枕するくらい、日常茶飯事ですわ!!」

 

 「なにそのリア充感?そんな幸せな日常を送ってる殿方が心底妬ましいんだけれど」

 

 「ハッ!い、いいえ、いいえ。嘘です、嘘。今のなし」

 

 「何故に見栄を張った」

 

 「か、勘違いなさらないでくださいまし!そのように毎日イチャコラ乳繰り合っているような殿方などおりませんわ!それどころかお父様以外の男性に触れたことなど、武術の組み手で殴り飛ばす他はあなたが初めてで……ハッ!」

 

 「……光栄なことだけれど、なおさら悪いだろ、それ」

 

 どう見ても男慣れしていないオボコ娘にとって、大して知りもしない、互いに名前さえ知らない野郎を膝枕するという行為にどれだけの勇気がいることか。


 現に、見上げる彼女の顔は真っ赤になり、目にはうっすらと涙すら溜めている。肩だって震えている。

 

 羞恥心とは別に恐怖心だって少なからずあるだろうに。


 もしも俺が逆の立場にあったとしたら。

 幾ら負い目を感じていたところで、そもそも最初から膝枕なんてしないだろう。

 

 こんな恥ずかしくて怖くて、まるで善人みたいなことなんて……絶対に。


 そう思って俺は体を起こそうとした。

 

 異様に重たく、万遍なく気怠い体だったけれど、起き上がるくらいはどうにかなる。

 

 「いいんですの!」


 そんな俺の体を彼女は押さえ込んだ。


 ガバリという擬音を当てるのが相応しい勢いで顔に覆いかぶさり。


 ムニュリという音が実際に聞こえたような気がする柔らかな感触に視界が塞がれた。


 甘く、清潔そうな女の子の香りが鼻腔と口腔内に入り込んでくる。

 

 「ただでさえ元々魔素を纏わない現人あらびとのあなたが、魔素の塊たる≪次元接続コネクション≫のゲートをくぐり抜けてきたんですの。わたくしの補助があったとはいえ、相当ダメージが有るはず。……思うように力が入らないのではなくて?」

 

 マソ?アラビト?


 意識高過ぎて何を言っているのかさっぱりわからない。

 

 「……いや、大丈夫。どうにか動けるから」


 「キャ!しゃ、喋らないでくださいまし。……くすぐったいですわ……」


 そう言いつつも、彼女はより一層力を強め、俺の頭をギュギュっと抱え込む。

 

 視界が豊かな胸に奪われているので確かなことは言えない。


 けれど、彼女が先ほど見た時よりも尚、顔を紅潮させ、口を固く結んで恥ずかしさを堪えているであろう様子がありありと想像できる。

 

 やれやれ。

 本当に、この娘は。


 どうしてこんなことで、そこまで一生懸命なんだ。

 

 「すべてはわたくしの未熟が招いた結果。すべてはわたくしの過失。……それに時間も差し迫り焦っていたとはいえ、あなたの了承も得ずに勢い任せで連れてきてしまい、このように体を壊させてしまったわたくしには、あなたに対する責任がございます……」

 

 いや、勢い任せでスタンガンを振りかざしちゃいけない。


 記憶はあいまいだけれど、そもそも了承するしない以前に選択肢なんてなかっただろ。


 「事情はキチンと説明させていただきます。もしもあなたが望むのであれば然るべきうちに然るべき罰をわたくしにお与えください。わたくしにできることであるのならば、何でもいたします。誠心誠意、あなたのご希望に沿いさせていただきたいと思います……」

 

 そういうところが本当にオボコい。

 いや、世間知らず、世間ずれしていないと言った方が正しいのかもしれない。


 若い娘が男相手に簡単に何でもすると言ってはいけないと誰かに習わなかったのか?

 

 ……ん?

 ……ああ、そうか。

 

 「ですがもう少し……せめてあなたの体力がもう少し回復するまで、わたくしの膝の上でお休みください。ゲートの濃縮された魔素に毒されたあなたの体は魔術での治療はできず、時間をかけて自然に魔素が抜けきるのを待つしかないのです。先刻、無礼を承知でその魔素の放出をうながす薬を服用させていただきましたので、差ほどにはお時間をおかけすることはないでしょう……」


 ……そういうことだったのか。 


 「……せめてこれくらいは……させてください。……これくらいのことしか……今のわたくしには思いつきません……」

 

 そうやって声を震わせないでくれ。

 『ですの』口調も忘れてるじゃないか。

 

 もしも望みを聞いてくれるというのならば。


 見当違いの罪悪感で自分を責めないでくれ。

 勝手な罪の意識で自分を安売りしないでくれ。


 ……さっきから首筋にポツポツ落ちてくる涙を止めてくれ。


 俺は自由の利く方の腕を伸ばし、彼女の頭と思しきところにポンと手を置いた。


 あまり感覚がなく、力の調節が難しかったけれど、どうにか痛がらせずに済んだ。


 「……ふぇ?」


 間の抜けた声とともに、彼女の拘束が緩んだ。

 

 「ぷぁ……本当に昇天するところだった」


 「……ハッ!」」


 「乳圧による窒息死か……。はた目から見たなら羨ましい限りだけれど、いざ当事者となって自分の死因と言われたらなんとも切ない逝き方だ」


 「わ、わたくしったら……申し訳ありません!」


 「案外、積極的なんだね、君?」


 「っな!ち、違います!そ、そんないかがわしいつもりなんて全くありませんわ!」


 「お、喋り方戻ったね。そっちの方が君らしくていい」


 「……ふぇ?」


 「……ま、ありがとう」


 俺は彼女の頭を軽くポンポンとし、そのままクシャクシャと撫でた。


 「……あ……」


 「本当はすごくダルいんだ。だからもう少しだけ、膝を貸してもらえるかな?」


 「……ええ、もちろんですわ」


 そこで俺は彼女の頭から手を放し、腕をダラリと降ろした。


 正直、限界だった。


 強がってはいたものの、体も頭もかつてないほどの疲労感を覚え、今にもまた意識が飛んでいきそうだった。


 「色々と聞きたいことはあるし、言いたいことだってたくさんあるけれど……とりあえず全部後回しだ」


 「……はい……」


 「でも聞きたいこと、言いたいこと、それぞれ一個ずつだけ先にいいかな?」


 「はい、どうぞ……」


 「君の名前は?」


 「わたくしは、アルル。ラ・ウール王国国王、ラ・ウール十三世の息女にしてラ・ウール王国第一王女・アルル=シルヴァリナ=ラ・ウールですわ」


 「俺の名前はイチジ。立神一たちがみいちじ。しがない交番勤務の巡査長だ」


 「イチジ……良い名前ですわね」


 「アルル……可愛い名前だ」


             サァァァァ…………


 また風が吹き抜ける。

 穏やかで、たおやかで。

 吹かれるもの全ての心持を軽くする、優しい風だ。

 

 「……アルル」


 「なんですの?」


 「もう一つ、言いたいことが出来た」


 「ええ、どうぞ」


 「君の髪と瞳は……とても綺麗だ、アルル」


 「……ありがとう……ですの……」


 俺は、彼女……アルルが潤んだ瞳もそのままにニコリと笑うのを見届け、目を閉じた。


 眠りは直ぐに訪れ、何を考える暇もなく意識は再び途切れていった。


 もう少し。

 あともう少しだけ。


 彼女の笑顔を、目蓋の中で転がしていたかったんだけどな。





 このようにして。

 俺の異世界生活は幕を開ける。


 転生したわけではなく。

 召喚されたわけでもなく。


 とあるうららかな春の夜。


 スタンガンを振り回す、ゴスロリ少女によって有無も言わせず拉致されて。


 強くて弱くて、でもやっぱり強くて高潔な心を持つ白銀の王女の膝の上から。


 俺の異世界生活が……始まろうとしている。

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