136.月下の求婚

 殿下のエスコートの元、私は誰もいないダンスホールへと向かう。人の多い舞踏会の会場はダンスホールも広々としていた。


 そういえば、芸術祭でも最初のダンスを踊ったっけ。あの時よりも何倍も広い。


「ロザリー、顔に嫌だと書いてある」

「だって……」

「仕方ないか。最初のダンスはクリストファーのものなんだろ?」


 殿下の分かったような口振りに、私は目を見開いた。そんな話、殿下に一度でもしたかな? お兄様が?


「ロザリー、奥の扉が見えるか?」


 殿下が耳元で囁いた。


「奥? 庭園に抜ける扉?」

「ああ、そうだ。俺が三つ数えたら、全力であそこまで走れ」

「……え?」


 私は目を見開いた。殿下は口角を上げて笑うのみ。私が口を開こうとしたその時、ダンスの為の音楽がゆっくりと流れ始める。あと数歩で、ダンスホールの真ん中だ。


「一」


 トクンと胸が鳴る。そんなことをしたら、怒られない? 私の耳には音楽が入ってこない。心臓と、殿下の声だけが支配する。


「二」


 肩がふるりと震えた。王妃様を背にしている今、王妃様の顔を見なくて済むのは幸いかもしれない。


「三! 行くぞ!」


 殿下の合図と共に、私は無我夢中で走った。手を引かれながら、王妃様を背にしたまま、ダンスホールを抜け、扉へと向かう。長いドレスの裾を掴んで。これでは、まるで逃げるようだ。違う、逃げているんだった。


「アレクセイ!」


 王妃様の咎めるような声が会場に響く。軽やかに流れ出した音楽は、一度歩みを止めてしまった。


 殿下は扉に手を掛け、くるりと振り返る。私はそんな彼の横から恐る恐る振り返った。


「母上、ご自分のお勤めはご自分でどうぞ。私はラストを頂ければ充分です」


 彼は大きな声を張り上げた。会場中に響いた声は、遠くの国王陛下にも届いたのだろう。王妃様の声よりも早く、陛下の大きな笑い声が返ってきた。重厚な椅子にどっしりと座っていた陛下が、腰を上げる。皆が、首を垂れるのを手で制した。


「最後までには戻ってこい」

「ありがとうございます」


 殿下は国王陛下に頭を下げると、庭園に続く扉を開いた。



 月が照らす庭園には、冷たい風が走り抜ける。再び走り始めた音楽を背に浴びながら、私は白い息を吐いた。


 ふわりと肩に掛けられたのは、殿下のコート。仄かに彼の香りが漂う。彼に抱きしめられているような感覚に、胸が走り出す。


「風邪を引く」

「ありがとう」


 二人きりになると、何だか気恥ずかしくて、私は殿下から少し離れて庭園を見渡した。遅れて咲いた秋の花が根気強くまだ咲いている。


「後で……」

「ん?」


 結局殿下がすぐ隣に立って、逃げ場を奪っていく。月明かりに照らされた花が、冬の風に攫われて、ゆらゆらと揺れる姿を二人で見つめた。


「後で王妃様に、怒られないかな?」

「そうだな……その時は、付き合ってくれ」

「仕方ないなぁ」


 本当は私の為にこんなことしたのだと、言われそうなものだ。彼は、いつも自分自身のせいにするんだ。左半身で彼の熱を奪いながら、私は戯けて見せた。見上げると、紫水晶の瞳とぶつかって、優しく微笑みが返ってくる。


 ああ、やっぱり私はこの紫水晶が好きだ。


「母上の説教は長い」

「そうなの?」


 王妃様が怒ったところを見たことがない私には、全く想像もつかなかった。あの優しい顔から笑みが消えるのか。それとも、笑みが深まるのか。どちらにせよ、想像はしたくなかった。


「ああ、でも対処法があるから安心しろ」

「どんな?」

「歴代の国王を頭の中で暗唱する」

「何それ」


 殿下は今までそうやって乗り切ってきたのだろうか。そんな姿を想像すると少しだけ面白い。


「父上の名前を唱える頃にようやく半分だ」

「あと半分はどうするの?」

「気合いで乗り切る」


 真顔で答えた殿下の対処法は、全く対処法にもなっていない。これは、諦めて素直に叱られるべきなのかも。


「でも、これは俺のせいじゃない。元はと言えば、家庭教師が悪い」


 悪びれもせず、殿下は言ってのけた。子供のような言い分に、私は笑いを堪えながら、首を傾げる。


「どうして?」

「……段階を踏めと言われた。最初のダンスは王族としての役割だ。つまり、母上は君を王家に迎え入れたと宣言したかったんだろう」

「じゃあ、悪いことしてしまったかな」


 素直に受け入れておくべきだったかと後悔する。王妃様の好意を踏みにじったしまった。


「いや、別に構わない。母上は、王家に君を迎え入れると宣言したかったみたいだが、俺はやり残したことがある」


 肩に手が添えられて、気づけば左半身は熱を失う。その熱を酷く欲していることに気づいて、少しだけ恥ずかしい。誤魔化すように彼を真正面から見上げると、私は首を傾げた。


「やり残したこと?」

「ああ、先日、好きだと伝えた」

「うん、遠くまで来てくれてありがとう。とても、嬉しかった」

「贈り物を贈った」

「このドレス、ありがとう。似合ってるかな?」

「ああ、青い薔薇が咲いたようだ。すぐに声を掛けたかったのに、邪魔ばかり入ってしまった」


 そういえば、挨拶の際最後まで王妃様に阻まれて、殿下とは言葉一つ交わせなかった。あれはわざとだったのか。


「ロザリー。いや、ロザリア・ウィザー嬢」

「はい」

「初めて会った日。瑠璃色の瞳に恋をした。あれからずっと、君のことを想い続けている」

「私もあの日見た二つの紫水晶は、忘れられないよ」


 宝石よりもキラキラした瞳は、今も変わらない。この瞳に魅せられて、私の胸は今も高鳴っている。


「これから先、私の隣で同じ物を見て、共に歩んで行って欲しい」

「うん……」

「言葉を飾るのは苦手なんだ」


 殿下が、膝をついて私を私を見上げる。差し出された手は、求婚プロポーズを意味していた。


「私の妃になって下さい」


 込み上げて来た熱が、涙となって頬を滑り落ちた。こんな時は笑顔で応えなくてはいけないのに、何故か涙が落ちてくるの。


「はい」


 私は涙を流しながら笑顔で、彼の手の上に手を重ねた。


 変なの。いつもはずっとずっと冷たい手が、彼のものみたいに熱を持っている。殆ど変わらない体温が混ざるように重なった。


 彼は立ち上がると、少し控えめに私のことを抱きしめる。


「また泣かせてしまった」

「また?」

「ああ、二度目の求婚は、泣かせないと決めていたのに」


 まだ、幼い頃のことを気にしている。そんな彼に笑いが込み上げてきた。だって、もうずっと昔の話だ。


「大丈夫。今日のは、嬉しい時の涙だから」


 頬に伝う涙を、彼の手が拭う。彼は安心したように微笑んだ。そして、強く強く抱きしめる。息苦しくなる程だというのに嬉しくて、私は彼の背に手を回した。


「……これが段階?」

「そう。段階を踏んでいないのに、勝手に王家に入れられては困る」

「じゃあ、あとはダンスをするだけだ」

「いや、もう一つ残っている」


 私を強く抱きしめていた腕が緩まって、私達の間に風が通るだけの隙間ができた。


 甘い紫水晶から目が離せない。それは、甘美な砂糖でできたお菓子のよう。


「ロザリー」


 彼の手が、私の頬に触れた。


「愛してる」


 答える代わりに、ゆっくりと瞳を閉じれば、私達の影が重なった。


 私も。


 私の声は、彼の熱に溶けていった。

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