134.連携

「侯爵夫人は大きな耳を持っていると聞いていたが、その大きな耳にも入ってこなかったようだな。私が一人の令嬢に夢中だという話。噂くらいにはなっているんだろう?」


 空気を冷やす低い声。水底のように深くて冷たい声だ。だというのに、背中や肩に感じる熱は焼けるようで、冷え切った私の身体を溶かしていく。


 少しずつ、周りの状況が見えてくると、私はその安心感にホッと胸を撫で下ろした。


「傷が見たいというくらいだ。それ相応の代償は覚悟の上なのだろう」

「そ、その傷にそのような価値がございましょうか?」

「傷の価値を夫人が決めたと?」

「そのような事は……」


 殿下の苛立つ声色に、夫人は顔を青くした。


「では、価値がないと決めたのは誰だ?」


 声はこんなに冷たいのに、手のひらは焼けるように熱い。だというのに、抱きしめる腕は優しい。不思議な感覚だ。今の私は、守られているという安心感に、随分と甘えている。


「殿下のお怒りもごもっともですが、この娘は皆を欺き――」

「私の声が聞こえなかったのか? 『価値が無いと決めたのは誰だ』と聞いている。その大きな耳が突然詰まったのか?」


 殿下の言葉が夫人の言葉を遮る。苛立ちを露わにした彼に、夫人がビクリと肩を震わせた。


 いつも無口な殿下が怒るから、きっと皆驚いている筈だ。だって私も驚いている。妙に冷静でいられるのは、魔王の如く怒りを露わにしている彼の腕の中で、守られているからだろうか。


 それともどこかで、これは彼の言う『ごっこ遊び』というものではないかと思っているからかもしれない。


 あとで今日はどんな設定で現れたのか、聞いてみよう。そんなことを考える余裕も出てきた。


 すると、随分と体重を預けていたことに気づいて、慌てて体制を整える。けれど、殿下に抱きしめられた身体は、結局彼の腕の中にすっぽりと埋まったままだった。


 人の目があるし、離して欲しいと言いたいけれど、そんな雰囲気ではないのは、誰が見ても明らかだ。


 夫人は俯き、言葉を失っている。殿下の大きなため息が追い打ちをかけた。


「傷の有無を確かめるなら、他にだって方法はある。……クリス、お前が脱げ」

「えっ?!」


 思わず声をあげたのは私だ。ついで、周囲から黄色い悲鳴が上がる。あまりの大きな悲鳴に、肩を震わせて、辺りを見回す大人達。騒めきで会場が満ちた。殿下は私の顔を見て、何でもないとでもいうように首を傾げる。


「クリスならやってくれるさ。可愛い妹の為になら、ひと肌もふた肌も脱げる筈だ。なあ?」


 お兄様の方に顔を向けて、口角を上げる。すぐ近くにいたお兄様は、小さく息を吐いた。多分、近くにいた私や殿下しか聞こえないような小さなため息だ。


 息を飲む音が聞こえたような気がする。会場がずっとずっと静かになって、お兄様の様子を伺っていた。


「仕方ありません。あまり乗り気ではありませんが、妹の為なら」


 お兄様が、するりと上着を肩から外した。真っ白なシャツが露わになる。勿論素肌はまだ先だというのに、期待を帯びた悲鳴がまた湧き上がった。少しだけ困ったように、お兄様は辺りを見回したけれど、殿下は満足げだ。


 けれど、お兄様は上着を中途半端に脱いだ後、スカーフにやった手を、ピタリと止めた。そして、殿下を睨む。


「……するわけ無いでしょう? アレク、少し悪乗りしすぎです」

「なんだ。皆、期待していたのに」


 お兄様はスカーフを正すと、上着も元に戻す。殿下がぐるりと辺りを見回した。私もその視線を追いかける。すると、少し恥ずかしそうに令嬢達が顔を背けた。扇で顔を隠す者までいる。


 皆、期待していたんだ。


「乙女の柔肌でも無いんだから、少しくらい見せても減りはしないだろう?」

「減るとか減らないとかの問題ではありません」

「なら、何が問題なんだ?」

「この歴史ある舞踏会で、多くの者に肌を晒せなどと言うこと自体が問題です」

「……ああ、なるほど。そういうことか。夫人、どう思う?」


 お兄様も殿下も、とても悪い顔をしている。夫人は真っ青になって、目を泳がせた。意地が悪い。「問題だ」と答えても、「問題ない」と答えても夫人の立場は無くなるなのだから。


「アレク、私の大切な妹に肌を晒せと仰った方が居たようですが、ご存知ですか?」

「なんだって? クリス。この歴史ある舞踏会でそのようなことを言う者がいる筈がないだろう? もし言ったとしても、私のように冗談だろう」


 どこかの劇場にでも来ているみたいに、お兄様も殿下も良く喋る。この二人がいれば、この場も劇場に早変わり。


 まるで物語の世界に引き込まれるようだ。


 突然、背中に感じていた殿下の熱がすっと離れた。熱に慣れた背中は、少し肌寒さを感じる。殿下は私の隣を通って、夫人の元へと歩いた。


 殿下の代わりに、お兄様が私の肩をそっと抱く。お兄様を見ると、「大丈夫?」と声を出さずに尋ねられた。小さく頷いて応えると、ふわりと優しい笑みを返される。


「リーガン侯爵夫人。貴女が言ったように、七年前、幼い私を守ったのはクリストファーではなく、ロザリー……いや、ロザリア嬢だ」


 殿下の落ち着いた声が会場に広がる。殿下の声に騒めきが広がる。事前に噂が流れていたにも関わらず、半信半疑だったということだろう。


 私は殿下の言葉に、周りの騒めきに、耐えきれなくて目を閉じた。私は皆の言葉を受け止めきれるだろうか。


「夫人は彼女の為だけにこの事実をクリストファーに隠したと思っているようだが、それは間違いだ」

「では……何故、ウィザー家と王家がこの傷を隠したのです? 婚約者がその時既に決まっていたのなら、隠す必要も無かった筈でございましょう?」

「一つ、夫人の思い違いがある。私とロザリア嬢との婚約はまだ成立していない。あわよくば、傷を理由に婚約を押し進めようとしたこともあったが、ウィザー公爵にあっさりと断られた。『本人が望まない限りは、その婚約は受けられない』と」


 私はその事を知らなくて、思わず目を見開いて殿下を見る。私の視線に気がついたのか、殿下は振り返ったけれど、肩を竦めただけだった。お兄様も知らなかったみたい。お兄様も驚いた顔をしていた。どうやら、お父様と殿下だけの話だったみたいだ。


「まあ、そのことは今はどうでも良い。傷の事を隠した理由なんて簡単さ。王太子とは言え、男が女の子に守られたとあっては、聞こえが悪い。つまり、私を守る為の嘘だ。私は今日のこの日まで、二人に守られてきた」

「全ては殿下を守る為の嘘と仰られるのでしょうか?」

「ああ、そうだ」


 下手な嘘。私を守る為についた尊い嘘だ。男ならば名誉の傷になっても、女だとその意味あいも大きく変わる。私は沢山の偽りに守られてきた。


 そして、また殿下のついた嘘で守られている。


「夫人、貴女は随分と肩の傷に執着しているようだが、諦めて頂きたい。これ以上貴女の醜い姿を見せないでくれ」


 夫人は、言葉を失って呆然と殿下を見つめた。そして、夫人は力無くその場にへたり込む。殿下はそっと夫人の肩に手を置いた後、踵を返した。


 周囲を囲む人々は、ひそひそと囁き始めた。冷たい視線が夫人に集まっていく。


 今まで味方していた人まで、手のひらを返している。彼女は舞台の真ん中に取り残されてしまった。


「これで、リーガン侯爵家は終わったな」

「この良き日に、こんな騒ぎまで起こして……」

「どうせ、自分の娘を婚約者につけたかったのでしょう。地に落ちたものね」


 小さな声は次第に大きくなり、私の耳にも聞こえる程になった。夫人の耳にも届いている筈だ。彼女はただ呆然と、床の一点を見つめるばかり。


 殿下は厳しい顔付きのまま、私の方へと足を向ける。


 このままで良いのだろうか。彼女は自業自得?もしも、この状況を放って置いたらどうなる?私はどうすれば良い?


 私のやるべき事は何だろう。


 このまま、王子様に守られるお姫様でいて良いの?


 舞台に取り残された夫人と、終演を待つ殿下を交互に見る。


「ロザリー。大丈夫か?」


 心配そうに殿下が私の肩に優しく触れた。顔を上げると、私の耳元で紫水晶が揺らめく。


「ふふふ……」


 声を殺すように笑った。


「ロザリー?」


 訝しげに私の顔を覗き見る。殿下の言葉に周囲が視線を私達に戻す。舞台の真ん中がここに変わったのがわかる。


 肩を揺らして笑った後は、我慢しきれなくなったが如く笑い声を漏らす。口元に手を添えるのは忘れない。淑女の法則というやつだ。


 一頻り笑い終えた私は、息を整えながら殿下に笑いかけた。


「ごめんなさい。皆の演技がとても上手だから、我慢できなくって」


 賽は投げられた――

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