96.再会

 夢を見た。それは、ずっとずっと昔の物語。私と紫水晶の瞳を持った王子様の、幼い恋の物語だ。


 お兄様と私は生まれた時からずっと一緒で、幼い私はこの先もそれが永遠に続くのだと思っていた。私達はいつだって二人一緒。水面に映る私と同じ顔をしたお兄様は、私の世界の殆どを占めていた。


 いつからかしら。私の世界の半分に、王子様が住むようになったのは。


 彼と初めて会った日、私は酷く緊張していた。いつもと違う所に出かける日は、いつだって怖いもの。けれど、宝石みたいに透き通った瞳を見た時、とてもびっくりしたの。太陽の光に照らされた髪の毛もキラキラしていて、輝いて見えたわ。それは、彼が本の中から出てきた王子様なのだと信じたくらいには。


 その感情が恋だと気づくには幼過ぎて、恋を知る頃に私は世界を閉ざしてしまった。


 小さな恋の物語は、長い髪の毛を切った時に結び終える予定だったの。けれど、私の王子様はその続きを書いてしまった。女の子の快復を待つ王子様と、王子様に触れない女の子の恋物語。


 決めていたことがあるの。もしも、もう一度貴方の手を取ることが出来たら、書きかけの物語の真相を話そうって。


 夢の中でも彼は、狭い馬車の中でずっと私に手を差し出していた。いつもと同じ様に、何も言わずに。私よりも苦しそうな顔をして。


「もう大丈夫だよ」って伝えたくて、私は彼の手をぎゅっと握った。そうしたら、彼の笑顔が溶けそうな程柔らかくなって、私も笑顔を返したの。


 彼の温もりが、右手から伝わってくる。生き物みたいにゆっくりと腕の中を通って、胸の奥まで優しく包まれた。


 優しい光を目の奥に感じる。目が醒めるのが惜しくて、ぎゅっと目を瞑ったけれど、夢の中の彼は霞のように消えてしまったわ。


 重たい瞼をゆっくりと上げると、一番初めに紫水晶の綺麗な瞳が目に入った。不安げに揺れる宝石が、 ランプの灯りに照らされて、キラキラと輝いている。あまりに不安そうに揺れるものだから、私の胸はぎゅっと押し潰されそうだった。


「ロザリー、大丈夫?」


 左側から聞き慣れた声が聞こえて、視線をゆっくり巡らせる。私の周りには、殿下やお父様やお母様、お医者とお兄様が心配そうに立っていた。


 見慣れた景色は、別邸の寝室。広いベッドの上で眠っていたらしい。


 そんな風に名前を呼ばれたのは久しぶり。


 私はお兄様を見上げて、首を傾げた。


「取り替えっこは終わり?」

「違うよ。今は特別」


 お兄様の優しい手がゆっくりと、私の頭を撫でた。お兄様の瞳まで、不安そうに揺れている。殿下とお揃いだ。


「覚えている?」

「覚えているよ」


 私はお兄様に笑顔を返すと、反対側にいる殿下を見た。私は目覚める前から、ずっと彼の手を握ったままだったみたい。


 私が手元に視線を移すと、彼の腕が小さく震えている。私の手はしっかりと彼の手を握っているのに、彼は手に握り返してはくれなかった。私は「大丈夫だよ」って伝えたくて、握る手に力を込めた。けれど、彼に絡まる糸はまだ雁字搦がんじがらめのままだ。


 私は殿下に絡まった糸をすぐに解きたかったけれど、かなわなかった。突然、糸が切れたようにお母様が涙を流したのだもの。またお母様を泣かせてしまって、私の心は罪悪感でいっぱいになった。すがるようにお兄様を見たけれど、お兄様は肩を竦めて首を振っただけ。お母様の肩を支えるお父様も、瞳を潤ませている。泣き虫のお母様ならいざ知らず、お父様まで泣かせてしまった。


 アカデミーで油絵の下敷きになった私は、殿下の手で運ばれたらしい。幸い怪我自体は、頭のたんこぶ以外は、肩や腕に痣を作った程度。この怪我で済んだのは、ひとえに飾り立てたカツラが緩衝材として働いたからだとお医者様は笑った。


 痣はいずれ消えるだろうと、お医者様は優しい笑顔を見せてくれる。お医者様の一言に、私はホッと胸を撫で下ろした。


「ロザリー。まだ疲れているだろう? 今日はこのままおやすみ」


 お兄様は私を諭すように、優しく微笑んだ。そして、殿下の手をしっかりと握る私の手に、優しく触れた。きっと、素直に頷くべきでしょうね。けれど、私はどうしても頷くことができなかった。その代わりに、私は小さく左右に首を振る。


「ロザリア、貴女が手を離さないから殿下はずっと待っていてくれたのよ。このまま拘束するのご迷惑だわ」


 お母様が、目を腫らしながらも、私をたしなめる。それでも私は、首を横に振った。また、お母様を泣かせてしまうかもしれない。


「ごめんなさい。お兄様、お母様。少しだけ、少しだけで良いから、二人で話しがしたい」


 時間が止まってしまったようだ。お兄様もお母様も、首を縦にも横にも振らなければ、瞬きもしないで、私見つめている。困ってしまって、私はお父様に助けを求めた。お父様は、コホンと咳払いを一つすると、にっこりと笑った。


「困ったね。……少しだけだよ。良いかい、婚約前の男女が寝室で二人きりなんて、考えられないことなのだから」


 お母様が何か言いたそうに、お父様を睨む。けれど、お父様は肩を竦めるだけだった。お兄様は、小さくため息を吐くと、私の頭をポンポンと撫でる。


「良い? 何かあったら、大きな声で叫ぶんだよ」


 私は意味がわからなくて、首を傾げた。けれど、お兄様はそれ以上何も言わい。殿下が視界の端で眉をひそめたのが見て取れた。彼はもしかして、具合が悪いのだろうか。もしも具合が悪いのに、引き止めてしまったのなら、悪いことをしたと、私の胸はチクリと痛んだ。


 殿下と私を残して、皆が寝室から出て言った。まるで誰も居ないみたいに、私達は見つめ合う。私は握っていた手をようやっと離した。


 私の右手は、いつもよりもぽかぽかと暖かい。なんだか嬉しくなって、頬が緩んだ。


 殿下と話をする為に、私はゆっくりと起き上がった。怪我のせいか、体が悲鳴をあげた。私が顔を歪めたのを見てか、殿下は驚いたように私に腕を伸ばしたけれど、すんでのところでピタリと止める。思わず私は笑ってしまった。


 悲鳴を上げる身体に鞭を打てば、一人でも起き上がることができた。まだ私の好きな紫水晶は不安に揺れている。強く握りしめた手、強張る肩。きっと、これの半分は私の責任だ。


 私は彼の手を引くと、ゆっくりと私の頬まで導いた。暖かな彼の手が、不器用な程弱々しく、私の頬に触れる。


 私が『ロザリア』に戻ったら、伝えたいことが沢山あった。一番に何て言おうか悩んだ日もある。



 騙していて、ごめんなさい。



 待っていてくれて、ありがとう。



 私も、貴方のことが好き。



 紫水晶に映る私の顔が、幸せいっぱいに咲いた。


「お久しぶりです、アレクセイ様」

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