84.赤薔薇の蕾2
紺色のドレスを身に纏う目の前の男は、ニコリと笑った。花が咲いたような笑顔は、俺の知っている少女そのもので、正体を知らなければ完全にロザリーと見間違えていたであろう。俺は彼の様子に顔を歪めた。目に映るのは『ロザリア』そのものだったのだから。
片側で括られている髪の毛がふわりと風に舞う。飴色の髪も、瑠璃色の瞳もどこもかしこも彼女とそっくりで、俺は不思議な感覚にとらわれていた。
まるで夢でも見ているような感覚だ。目の前にいるのは決して本物ではないと、わかっているのに。
「殿下、あとどの位待ってさしあげればよろしいでしょうか?」
彼は腕を組み、面倒そうにため息を吐いた。よく見てみれば、姿形は『ロザリア』でも、中身はまるで別人だ。同じ瑠璃色に輝く瞳ではあるが、こちらの方が幾分冷ややかだ。天使と悪魔程には大きな差だと思う。それは、まるで正体を隠そうとしない不遜な態度を目の当たりにして、今まで『クリストファー』の正体に気づかなかった己を叱咤した程だ。こんなにも違うものなのか。それでも外見はそっくりなのだから、騙されてもおかしくはない。
「久方ぶりだな、
ドレス姿の少女を前にして、何度も男の名前を呼ぶことは
「今は『ロザリア』なので、そう呼んで欲しいのですけれど。まあ、良いでしょう」
冷ややかな声だ。ロザリーよりも冷たさを感じる声に、俺は小さく眉を寄せた。それでもクリストファーは気にした様子も無く、俺を真っ直ぐに見ている。時折吹く風が、柔らかそうな前髪を乱す。その度に見上げながら、前髪を直す姿はロザリーの仕草にどこか似ていた。
「何故こんな所に居る?」
別邸にいることは聞き及んでいたが、まさか外に出ているとは思わなかったのだ。本邸からはそれなりに距離があるとは言え、不用心にも感じた。もしも、『ロザリア』の姿を別の者が見ていたら、どうなるだろうか。俺は、悪いことばかり考えてしまう。
「来るなら今日だと思っておりましたので」
クリストファーは、俺の不安など余所にあっさりと答えた。勘だとでも言わんばかりの一言のせいで眉間に力が入る。冗談なのか本気なのか、何とも思っていなさそうな冷たい表情からも、瑠璃色の瞳からは見て取れない。
「勘だけで屋敷の前に立っているとは、お前らしくない」
「そうかもしれませんね」
クリストファーは、小さく笑い肩を竦めた。含みのある笑いは、まるで手の内で転がされているようで気味が悪い。俺がここに来ることを本当に知っていた様な気さえする。クリストファーの元を訪れることを決意したのはつい今しがただと言うのに。
「こんな所で話していては、人に見られるかもしれません。こちらへどうぞ」
クリストファーは、くるりと回り背を向けた。飴色の髪の毛がふわりと舞う。その後ろ姿は、やはりロザリーを彷彿とさせる。俺がその背中に目を奪われていると、クリストファーは入り口の前で立ち止まり、二度目のため息をついた。
誤魔化すように咳払いをすると、彼のもの言いた気な視線が向けられる。しかし、クリストファーは何か言うわけでもなく、別邸の扉を開いて俺の入室を促すだけだ。居心地が悪い。そう感じながら、俺は別邸の中へと入った。
クリストファーに案内されるがままに進んだ先は、小さなサロン。ランプが部屋を優しく照らす。テーブルにはやりかけのチェスが置かれていた。
サロンの中はクリストファーの他には、一人の侍女が控えているのみだった。他に人の気配は感じられない。他は全て夜会に駆り出されているのだろう。
クリストファーに促され、長椅子に腰かける。彼は俺の向かい側に座って微笑んだ。毒でも抜いた様な笑顔に、俺は一瞬顔を
「さあ、殿下。ただ遊びに来たわけではないのでしょう。ご用件をお聞きしましょう」
クリストファーはニコリと笑った。この笑顔を俺は知っている。ロザリーが良く見せる笑顔だ。舞踏会でも、アカデミーでも良く見かける。似ている笑顔に大いに感心していると、クリストファーが眉を寄せた。「何?」とでも言いたげな瞳が突き刺さる。
屋敷の前で待っていた程だ。きっとクリストファーは、今日の用件も察しているのだろう。俺は改めて背筋を伸ばす。そして、目の前の男を巻き込む決心をつけた。
「お前の知恵を借りに来た。クリストファー、知恵を貸せ。……ロザリーの為に」
クリストファーの肩眉がピクリと動いた。踏んだ通りだ。その変化に俺は、思わず口角を上げた。誤魔化す様に頬に力を入れたが、クリストファーには小さくため息をつかれてしまった。
「詳しく話を聞きましょうか。シシリー、紅茶の準備を」
彼の言葉を受けて、たった一人の控えていた侍女が動き出す。俺の訪れを予見しておきながら、テーブルの上にはチェスが無造作に置かれているのみ。歓迎されている雰囲気は一切ない。それどころか、今の今まですぐにでも追い返すつもりだったと言いたげな所が憎らしい。紅茶が目の前に運ばれた時、ようやく俺は客として迎え入れられたような気がした。
俺はここ数日のことを掻い摘んで説明を始める。芸術祭のことも、演劇でロザリーがヒロイン役を引き受けることも、全て。
このままでは、芸術祭で『クリストファー』が目立ってしまう。公爵令息という肩書や、今まで夜会で付けた『クリストファー』のイメージだけでも周囲は注目するだろう。その上、異性を演じることになれば、それ以上に注目を浴びることになる。それだけは避けたかった。目立てば目立つほど、危険は増える。
俺の説明にクリストファーの顔が次第に険しくなると想定していたが、予想に反して彼の顔に変化は無かった。これが『演技』というやつなのか、はたまた俺の話が予想の範疇だったのかは、残念ながら分からない。眉間の皺の一本でも増えれば可愛げがあると言うのに。
俺の話を一通り聞いたクリストファーは、小さく頷いた。
「つまり、殿下は伝統を守りながらロザリーを守る手段が欲しい訳ですか」
「ああ、そうだ。お前ならどうする?」
俺の問いに、クリストファーの返事無い。長い沈黙が続いた。クリストファーは難しい顔をして、考えている様だった。俺はただ、その様子を固唾を呑んで見守ることしかできない。
「ようは『クリストファー』と同じ位、周りも目立たせれば良いとは思いませんか?」
クリストファーの口角が上がった。その笑みは悪巧みでも考えている様で、背筋が凍る。俺は肩が震えるのをどうにか堪えた。引き
クリストファーの瑠璃色の瞳が怪しく光る。その瞳にはどこまで見えているのか。彼は楽しそうに、口角を釣り上げた。口を開けば「チェックメイト」とでも言いそうな表情は、仲間にしてしまえば頼もしくも感じる。
「詳しく聞こう」
クリストファーは静かに頷いた。そして、テーブルに置かれたクイーンを摘まみ上げる。
「ええ、まず一つは配役から。これはミュラー家の令嬢に頑張って貰いましょう」
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