82.小さな約束3
風に吹かれた木々が騒めいているのか、私の心が騒めていいるのか、よく分からない。何度も何度も殿下の言葉を心の中で反芻した。
いつ知られてしまったの? 私が『ロザリア』だと知っているの?
上手い返事が出ずに、私はただ風に揺れる殿下の前髪を呆然と見つめた。早く返事をしなければ、どんどん疑われてしまう。けれど、心臓の音がどんどん速さを増していくばかりで、いつものように言葉はスラスラと出なかった。
「……男の癖に、男に触れられないなんて、お前も難儀だな」
「……え?」
耳に入ってきた言葉を理解するのに、とても時間がかかった。もう、覚悟を決めなければならないと思っていたのだから。けれど、予想から外れた彼の言葉に私は目を丸くした。
「なんだ? おかしいこと言ったか?」
「いえ……」
殿下は不機嫌そうに眉を
この人は、私を『クリストファー』だと疑っていないのかしら? そんな都合の良い話があるのかしら。まだわからない。本当は『ロザリア』だと疑われているかもしれない。それを隠して、探りを入れている可能性だって有るのかもしれないのだ。
彼の瞳を覗いたけれど、紫水晶は何も教えてはくれなかった。
「だから、あれだ。その……そんなことを友、とは言え、私に悩みを知られいるというのは嫌だろうと思った。聞かずに上手くやれるのなら、それが一番だと思ったんだ。なのに、こんな形で言ってしまった。すまない」
目の前で、殿下が腰を折って頭を下げた。
「待って下さい。頭を上げて下さい」
王族が頭を下げるなんてこと、あってはならない。慌てて声を上げたけれど、なかなか殿下の頭は上がらなかった。無理矢理にでも上半身を起こしたいのに、私には彼の肩を掴むこともできないなんて。
「お願いします……」
力無く声を出すと、ようやく殿下は頭を上げてくれた。小さなため息が聞こえる。
「身分というやつは面倒だな。謝ることすら許されない」
「謝らなくていいんですよ。アレクは何も悪いことなどしていないではないですか」
「お前を守れなかった」
「自分の身くらい自分で守りますから」
私は笑って見せた。けれど、あまり効果は無かったようで、殿下は先程よりも大きなため息を吐いてしまった。
「……いつも身分が邪魔をする」
難しい顔をしながら、彼は夜空を見上げた。その言葉の真意を探すように、私も彼の見る空を一緒になって見上げる。キラキラと輝く星の花。光の庭園に探していた答えはない。
「この身分があれば、もっと上手くやれると思ったんだが、な」
星空から視線を外せば、殿下は自嘲気味に笑っていた。
「王太子殿下という身分が邪魔をしているのなら、ただの公爵の息子である私なら、力になれるかもしれませんよ」
「王太子殿下なんて、公爵子息に毛が生えたようなものだろ? 変わらない」
王族と貴族では充分に違いはあると思うのだけれど、彼の中では余り違いが無いらしい。公爵の息子では、彼の力になるには不十分なのか。もっと自由な身であれば、私ができることも沢山有ったのかもしれない。
「そうかもしれませんね。でも、私はこの身分に感謝しています」
「何故?」
「今貴方の隣にいられる」
私がにっこり笑うと、殿下は驚いたように大きく目を見開いた。そんなに驚かせるようなことを言ってしまったのか、少し首を傾げたけれど殿下は何も答えない。
今は『ロザリア』として側にいることは叶わなくても、友として隣にいることができる。その身分が有ることは、とても幸運なことだった。だからこそ、私は殿下の力になりたい。
「もう、一人で悩まないで下さい」
「あ、ああ」
殿下の言葉をどうにか得たけれど、何だかぎこちないし信用できない。また一人で背負い過ぎないか心配だった。私はじっと彼の瞳を覗き込んだ。
「今日からは、もう少し私を頼ってくれますか?」
「そうだな。どちらにせよ、クリスの力は必要だ」
「良かった」
ようやく、殿下の隣にいることが許されたような気がして、私の頰は自然と緩まる。それが何だか恥ずかしくて、私は思わず空を見上げた。ずっと変わらない星の花が輝いて見える。同じ様に殿下も空を見上げたのが、視界の隅で見て取れた。
問題は山積みだ。まだ何も解決してはいない。私は未だに男の人には触れられないし、ヒロイン役から逃れる方法も思いついてはいなかった。
どうしたら、この問題を解決できるのか。お兄様が『クリストファー』ならどうしていたのかしら。お兄様は私と違って、男の人を触れるのだから、女役を容易く引き受けたのかもしれない。今だって、毎日『ロザリア』の格好をしているわけだし、余り変わらないと言えば変わらないのだし。
どうにかヒロイン役から逃れた先に、解決の糸口はあるのか。私はゆっくりと息を吸い込んだ。胸一杯に広がる春の温もり。不安を混ぜ込んで、全部吐き出せばうじうじしているのも馬鹿らしく感じる。
「アレク、私はヒロイン役を引き受けようと思います」
星空から視線を戻すと、眉間に皺を寄せる殿下と目が合った。私の決定を非難するような皺に、私は肩を竦めた。
「いつまでも、触れられないでは、この先不便ですから」
逃げてばかりでは、解決にはならない。逃げれば、他の問題も解決はしないだろう。なら、進むべき道は一つしかない。私が笑えば、殿下の眉間の皺が増えた。
「大丈夫なのか?」
「ええ、何とかやってみましょう。最初は迷惑をかけるかもしれませんが、家の者と少しずつ練習して――」
「待て、誰と練習する気だ?」
遮った殿下の言葉に、私は数度目を瞬かせた。もしかして、何か大きな問題でもあるのかしら?
「使用人の中に事情を知っている者が数人いますからその人――」
「私が付き合う」
「え?」
「だから、私が練習に付き合う」
「いえ、さすがにそれはご迷惑では?」
確かに最終的には殿下の手を取らなくてはならないのだけれど、それまでに何度迷惑をかけるかわからないもの。まずは、家で練習を重ねてからの方が良いと思ったのだ。
「クリス、私達は、
「ええ、そうですね」
「私は友の力になりたいと思っている。お前と同じように」
紫水晶の瞳が真っ直ぐに向けられる。つまり、殿下は私が歯痒い思いをしていた時と同じ気持ちだと言いたいのか。なら、無理に断るのも何だか気が引ける。私は大きく頷いた。
「……わかりました。お願いします」
「ああ」
殿下は心底嬉しそうに笑った。今まで見たこともない様な笑顔に、私は思わず目を見開いてしまう。そんなに嬉しいことなのかしら。
突然、屋敷の中の音楽が一層大きくなった。私は、屋敷の方に目を向ける。殿下も同じように屋敷の方を見た。そろそろ戻る頃合いかもしれない。さすがにずっと姿を眩ましていたら、誰かが探しにくるかもしれないもの。
「そろそろ戻りましょうか」
殿下の方に顔を向けると、彼は少し難しい顔をしていた。
「いや、クリスは先に戻っていてくれ。お前が長時間居ないと、皆が寂しがる。私はもう少し一人で考えたい」
殿下は片手を上げて、私を制した。そして、屋敷から離れるように歩き出してしまう。この後に及んでまだ一人で考える気なのか。まだ、私は信用に足らない? 思わず私の足が、一歩前に出る。
「なら、私も一緒に考えます」
ついて行こうと、二歩目を出したけれど、立ち止まった殿下にまたもや手で制されてしまった。
「クリス、安心しろ。私は別にもう一人でどうこうするつもりはない。全部お前にお前に相談するつもりだ。その前に少し考えを
そんな風に言われてしまっては、私も頭を縦にしか振れない。今の殿下の様子からで真意は読み取れなかった。本当のところはまた一人で頭を抱えてしまうのかもしれないし、本当に言葉の通り考えを纏めたいだけなのかもしれない。けれど、疑い過ぎるのも良くないのだろう。私は彼の言葉を信じることにして頷いた。
「わかりました。皆には適当に理由を付けておきます。庭園は広いですから、フラフラ歩いて遠くまで行かないで下さいね」
「ああ、後は頼んだ」
彼はその手を広げて、ヒラヒラと振って歩いて庭園の中に消えて行った。
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