81.小さな約束2

「暑いな。少し外の風を浴びてくる」

「今来たばかりでしょう?」

「今日の仕事はウィザー公爵夫人の元まで、母上を連れてくることだ。少しくらい離れても構わないだろう」


 今日は本当に、王妃様をエスコートする為だけに駆り出されたみたい。殿下は、楽しそうに話す王妃様とお母様の方を見た。王宮の舞踏会以外で殿下の顔を見ることになるとは、なんだか新鮮な気持ちだ。私は、もう少し彼の側に居たかった。


「ご一緒しましょうか?」

「クリスこそ、いいのか?」


 殿下がわざとらしく、何組かの輪に目をやる。先程から私達のことを気にかけている集団だ。話しかける機会を伺っているのがよくわかる。なかなか社交場に出てこない殿下と、今日少しでもお近づきになりたいのだろう。


「最初の仕事は終わりましたから、休憩を取っても怒られないでしょう?」


 まだ少し頬が引き立っている気がしてならない。それもその筈。今日のお客様とは殆ど挨拶したのだもの。私が何度か自身の頬を確かめる様に触っていると、殿下に苦笑を返された。


「……そうだな」


 殿下は、わざとらしく咳払いした。少なくとも近くの人の注目は、充分集めている。


「クリストファー、ここに来るのは久しぶりだ。是非、ウィザー邸の庭園を案内してくれ」


 殿下の大きな声が響いた。夜に案内できる庭園など無い。そのわざとらしい誘いに、私の口からは思わず笑いが漏れてしまったわ。


「ええ、ご案内いたしましょう。今日は夜空に咲く星の花が見頃ですよ」

「それは楽しみだ」


 私は笑顔で庭園に続く扉を開いた。殿下以外は誰も後には続かない。遠くから悲鳴の様な高い声が聞こえたけれど、きっと気にする程の事でもないのだろう。


 庭園に出ると、優しい風が迎えてくれた。こんな日は夜空を見上げるのが必然で、そこには見事な花が輝く様に咲いている。視界の端では、殿下も私と同じ様に空を見上げているのが見て取れた。


「見事だな」


 彼の横顔が空の花だけを見つめている。私は、見上げるのも忘れて横目で彼の横顔ばかりを見てしまった。もう少し横顔を見ていたかったけれど、すぐに彼に気づかれてしまったわ。


「どうした?」


 殿下は不思議そうに首を傾げながら私を見る。言い訳なんて用意していなかった私は、なかなか上手い言葉が紡げない。こんな時、どんな話を振れば良いのかしら?


「そうだ……明日からアカデミーには来ますか?」


 結局誤魔化すように明日の話を始めたけれど、彼はほんの少し眉を顰めただけだった。やはり、彼の中で演劇への出演に気がかりがあるのかもしれない。


「ああ。いつまでも放ってもおけないようだしな」


 殿下はアカデミーに来ていなかった割には、物知り顔だ。私は首を捻る。


 情報は入ってきているのかしら。


「私が主演を受ける他無いことはわかっている」

「そうですね。アンジェリカ嬢に聞いたところ、皆殿下に遠慮して断られているようです。このままいけば、殿下が引き受けざるを得ない状況になるかと」


 芸術祭の演劇の為に、アカデミーに入学する者も中にはいるらしいと聞いている。アンジェリカに声をかけられた何人かは、涙を呑んで断ったかもしれない。殿下の大きなため息が私の耳にまで届いた。殿下にとっても他に候補がいるのならば、譲りたいのは山々なのだろう。


「そうだろうな。父上……陛下が作った伝統は、形を少しずつ変えて、有志・・とは名ばかりのものになってしまった」

「名ばかり、ですか」

「貴族らしいと言えば貴族らしい。主演の相応しさを家名で選ぶ。この二十年で出来上がった伝統だ」


 芸術祭で、演劇を始めてから二十年、誰が主演を買って出たのかはわからない。けれど、殿下の口ぶりからするに家名で選ばれた者ばかりだったのか。最初の演劇の主演が国王陛下なら、それも頷ける。つまり、二年目以降も倣った結果、二十年でそういうものになってしまったのだろう。


「そういうことですか。だから、今回の主演は絶対に殿下でなければならない」

「そうだ。主要な役回りは全て家名で選ばれる。まるで国の縮図だな」


 殿下は自嘲気味に笑った。殿下はあまり納得いっていないような気がしてならない。


「アレクは、他にやりたい方がいれば、その方にやって欲しいと考えているわけですね」

「ああ、それが一番だろう? 何せ有志・・の演劇だ。本当に参加したい者が参加すべきだ。それが父上の願いであるようにも思える。だが、今のままでは難しいだろうな」


 彼の眉間に一筋の皺が寄る。いつもの不機嫌さとは違うみたい。


「そうですね。アレクが『良し』と言った所で、皆が納得するものでもないでしょう」

「アカデミーだけの問題ならまだいい。だが」

「これはそんな生易しい話ではないということですか」

「面倒な話だ」

「そうですね。そう思います」


 言い捨てられた彼の言葉に私は、静かに頷いた。


「仕方ありません。アレクは我慢して主演を。私は恋敵の役を演じれば丸く収まる話でしょう」


 さすがに女役を受ける勇気は全然なかった。ただ、家名で選ばれるというのなら、私も参加していれば問題ない筈なのだ。恋敵の役なら申し分ないのではないかな。


「そう、それが一番丸く収まると、私も思っていた」


 歪んだ彼の顔には大きく『苦悩』の文字が浮かび上がってくるようだった。アンジェリカも言っていた。私は違う役でもいいと。何が問題なのかしら? 私は小首を傾げる。私には、全く問題が無いように思えたのだから。


「何か問題があるのですか?」

「二十年前の台本をなぞるならば。だが、ヒロイン役は一枠しかない」

「はい。王妃陛下が演じた役ですね」

「その枠に誰が入る?」

「そう、ですね。今まで通り家名で選ぶなら、アンジェリカ嬢か、レジーナ嬢が妥当かと」

「そうだな。クリスならどちらを選ぶ?」


 私は二人の顔を思浮かべた。レジーナの父親であるリーガン侯爵は、騎士団長を務める重要人物だ。そして、アンジェリカ嬢の父親であるミュラー侯爵も、外務を纏める重要な役割を担っていた。


「つまり……」


 殿下は、私が同じ答えに行きついたことを、察したらしい。彼は肯定するように、大きく頷いた。


「どちらを選んでも問題が起きる。だからアンジェリカ嬢の後ろに隠れていたあの二人の令嬢は、何だかんだと理由を付けて、クリスをヒロイン役に押し出してきたんだろうな。わざわざアンジェリカ嬢を味方につけて」


 演劇の打診の際に、緊張で肩を震わせていた二人の令嬢を思い出す。そこまで考え、アンジェリカを味方につけて、『クリストファー』をヒロイン役に押し出したのならば、感心してしまう。良く周りを見ている証拠だ。


「そういうことですか」

「しかもミュラー侯爵とリーガン侯爵は、仲が悪い」


 殿下の大きなため息が風にさらわれていった。前髪が風に吹かれ、ふわりと舞い上がる。彼は踊り出した前髪を、面倒そうに押さえた。


「もしかして、そのせいでここ数日姿をくらましていた……とか?」


 まさか、そんなことは無いだろう。冗談のつもりで笑ってみたけれど、殿下の口からは否定の言葉が紡がれない。


「まさか、アレクは一人でこの問題を、どうこうしようとしていたわけですか?」

「仕方ないだろう」


 殿下の顔がくしゃりと歪む。怒りと言うよりは、苦悩に近い。眉の間に出来た皺は、いつもの威勢の良さは見てとれなかった。けれど、私も簡単に「はい、そうですか」とは言っていられない。だって、そうやって一歩引いた結果が現状なのだから。


「何が仕方無いのかわかりません。私にだってできることはあった筈です。相談してくれれば――」

「相談すれば、すぐにヒロイン役を引き受けただろう?」

「そうですね。多分、引き受けたと思います」


 それで丸く収まるならば。と、引き受けたに違いない。


「できれば、それは避けたかった」

「なぜそんなに、私の役に拘るのですか?」


 彼自身が主演を引き受けたくないのなら、その行動も良くわかる。けれど、全ては私の役の為だなんて。


「それは、今は言えない」

「言えない……? そんな……」


 突き放す様に言われ、私は呆然とした。けれど、突き放した方が酷い顔をしている。


「もしも、私に関わることならば、教えて下さい。私はただ、アレクと仲良しごっこをしていたいわけでは無い。友として、少しでも貴方の支えになりたい」


 私が『クリストファー』である間は、友という形で共にありたいと願った。けれど、彼は私のせいで一人で何かをしようとしている。それでは、本末転倒ではないか。


 殿下は何も答えてはくれない。噛み締められた唇が痛そうだった。


「私では、頼りないですか?」

「そんなことはない」

「なら、教えて下さい。貴方の友として隣に立つ資格があるなら。もしも、まだそれが許されないのであれば、何も言わずに会場へ戻って下さい」


 私は小さく息を吐いて、ゆっくりと目を閉じた。彼が去って行く後ろ姿を見る勇気が無かったから。


 風が吹いて、さわさわと草が揺れる音がする。虫の鳴き声が鮮明に聞こえた。殿下が動いた様子はない。けれど、殿下の声は耳には届いて来なかった。


 きっと、殿下の信頼はまだ得られていなかったのだろう。覚悟を決めた私が、ゆっくりと目を開けると、月に照らされた紫水晶が不安げに揺れていた。


「……クリス、お前は男に触れない。そうだろう?」


 殿下の声は小さかった。けれど、まるで耳元で叫ばれたような大きな音で、心臓にこだました。

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