73.蚊帳の外

 私と殿下は、陽が沈ずむ前にアカデミーを後にした。レポートがまだ残っていたけれど、期限までにはまだ充分時間があったから、続きは明日ということになったのだ。


 『ロザリア宛』の手紙を渡された後の彼の集中力は凄まじく、あっという間にレポートを終わらせていった。「あの集中力が朝からあれば、すぐに終わっていたのでは?」と、言わざるを得ない。


 この薄い封筒の中身には、彼が気もそぞろになるようなことが書いてあるのか。


 私は、赤い薔薇が描かれていた封筒を内ポケットから取り出して目の前にかざした。馬車の揺れに合わせて、ゆらゆらと揺れる。


「そういえば、あの日から初めての手紙、か」


 あの日・・・、私とお兄様の入れ替わりの刻限が早まった。彼はそのことをとても気にしていたから、そのことが書かれているのかもしれない。


 中身が透けて見える訳もなく、開封の許されない私宛の手紙に、もどかしさを感じるだけだった。


 屋敷に着くと、本邸がいつもよりも騒ついている気がする。いつもと変わらない出迎えだと言うのに、なんだか空気が浮ついているような気がして、私は小首を傾げた。


「クリストファー様、おかえりなさいませ」

「ただいま、シシリー。何か有った? なんだか皆、楽しそうだ」


 私の帰りを迎えてくれた他の侍女達からも笑顔が溢れていたし、シシリーもいつもよりも嬉しそうだ。


「奥様のお誕生日をお祝いするパーティの開催が決まったから……でしょうか」


 シシリーは、目尻を下げて笑った。こぼれ落ちそうなくらい嬉しそうな笑顔に、私の頬も緩む。


「本当に? それはとても素敵な報告だ」

「はい。六年振りでございますから」

「そうか、六年振りに屋敷のホールが使われることになるのか。これから準備で大忙しだね」

「はい。大きな夜会は皆久しぶりですから」


 クスクスと、楽しそうにシシリーが笑う。その声色は全く大変そうではない。周りにいた侍女達もどこか楽しそうに微笑んでいた。庭園に花が咲くように、この屋敷にも色が戻ってきているような気がして、屋敷に満ちた幸福を私は胸一杯に吸い込んだ。


 別邸までの道のりも、お母様が招待状の準備を始めた話や、飾り付けに使う花の話なんかをしてくれた。


 なんだか屋敷が六年前に戻ったみたいでとても嬉しい。あの頃は、皆が忙しそうにしていてるのを邪魔してはいけないと言われ、とても寂しかったけれど、今なら少しは役に立てるかもしれないよね。


 けれど、別邸につくと一変してもの静かで、足音一つ聞こえない。いつかこの別邸にも元気が戻ると良いな。


「ロザリーは部屋?」

「多分まだ、サロンで読書中だと思いますわ」


 最近は、お兄様に部屋で迎えられることも減ってきたような気がする。何度か本邸で出迎えられたこともある。一度、お父様のお手伝いをし過ぎて、体調を崩してからは程々にしているそうだけれど。


 私は真っ直ぐサロンに向かった。扉を開くと、長椅子にゆったりと座り、手元に視線を落としていたお兄様が顔を上げた。ふわりと咲く笑顔の花。わざわざ本を閉じて、私を見上げてくれた。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 膝掛けを退かして立ち上がったお兄様は、少し早歩きで私の元に駆け寄った。ゆっくりと、お兄様の右手が私の頰を捉える。手の平の温もりがじんわりと頰に伝わってきた。


「今日、アカデミーで何か有ったの?」


 私を見つめる瞳が不安げに揺れている。何もかも見すかすような瞳に、胸が小さく跳ねた。


「そんなに顔に出てるかな?」

「大丈夫。誰も気づいていないと思う」


 お兄様は確認するように、シシリーに顔を向けると、シシリーは何度も無言で首を縦に振った。


「なら良かった」

「何が有ったのか聞かせてくれるでしょ?」


 お兄様は私の手を取り、長椅子へと促した。二人揃って長椅子に座れば、シシリーが新しく紅茶を入れてくれる。優しい香りが鼻腔をくすぐった。


 お兄様が私の目をしっかりと見て、「さあ早く」と訴えかける。私は仕方なく、内ポケットからくだんの手紙を取り出した。


「はい、これ」

「手紙?」


 お兄様は赤薔薇があしらわれた封筒をまじまじと見つめた。


「そう、アレクから預かってきたよ」

「この手紙と憂い顔は関係があるの?」

「どうかな? 渡された時の様子が少しおかしかったんだ。それがちょっと気になって。中身に関してはわからないかな」


 私は肩を竦めた。何だかいつもと違う様子の殿下が気になったのは確かだけれど、何故そんなに気になるのかうまく説明できない。


「お兄様の憂いを取る為にこの封筒を開けてみましょうか。シシリー、ペーパーナイフを持ってきて」


 お兄様はにっこりと笑った。シシリーから手渡されたペーパーナイフで封蝋を外すと、手紙を引き抜く。


 何となく後ろめたくて、私は見ないようにそっぽを向いた。隣からお兄様の笑い声が聞こえてくる。


「そういうところは真面目なのね。盗み見ようともしないなんて」

「アレクから『見るな』と念押しされているからね」

「それを『真面目』って言うのよ。もうこちらを向いても大丈夫」


 お兄様の許可を得て、私が視線を戻した頃には、手紙は封筒の中にしまわれていた。別段変わりないお兄様の様子に、私は少しだけ安堵した。けれどやはり中身は気になってしまう。


「どうだった?」

「お兄様が気に病む様なことは書いてなかったわ。『ロザリア』の病気を心配しているみたい」


 優しい笑顔を見せたお兄様は、また私の頬に触れた。私はお兄様の手の温もりを頬で感じ、ゆっくりと瞼を閉じた。


「なら、良かった」



 ◇◇◇◇



 次の日の朝、アカデミーの門をくぐった私は、久し振りに見る光景に、眉をひそめた。


「何だか、久し振りにこの光景を見ました」


 アカデミーの入り口を抜けると、殿下が腕を組んで待っていたのだ。生徒達は殿下の隣を通る度に、仰々ぎょうぎょうしい挨拶をしていく。殿下はそんな彼らに軽く手を上げて応えるだけだ。何だか私の方が申し訳なくなってくる。


「待っていただけだ」

「これを、ですか?」


 私は内ポケットから一通の封筒を取り出す。朝出かける間際にお兄様から手渡された手紙だ。殿下は目を見開くと、肯定する様に私の元まで歩いて来て、私の手から手紙を奪い取った。待ちきれない様子で封を開ける。


 そんなに病気の様子が気になるのかしら? やっぱり、あの日のことを気に病んでいただけ?


 そこまで長くは無いのか、何度か視線を左右に巡らせると、殿下は小さくため息をついた。


「知りたい情報は手に入りましたか?」

「……そうだな」


 私には聞けない様な内容だったのだろうか? 彼の横顔を見たところで答えは出ない。


「その割には浮かない顔をしていますね」

「そうか?」

「だって、病気のことを聞いたのでしょう?その割に余り嬉しそうではないから」


 お兄様の病気は良くなってきている。きっと、次のシーズンまでには外にだって出れるだろう。そう、書かれているのだとしたら、何故そんなに難しい顔をしているのか。久し振りに、彼の眉間の皺を見た気がした。


「あいつに、内容を聞いたのか?」

「手紙は見ていませんよ。ただ、アレクが病気の心配をしていると」

「そうか……いや、そうだな。当分会うのは難しいと聞いて、がっかりしただけだ」


 殿下は無造作に手紙を畳んで、内ポケットへ押し込めてしまった。言葉にできない違和感に胸が騒つく。


 先に歩き出した殿下の後ろ姿を見つめていると、胸が少し苦しくなった。何だか置いていかれたような気持ちで不安になったせいかもしれない。私はなかなか追いかけることができずに、少しずつ小さくなる背中を目で追う。その背中が見えなくなるまで動けないのではないかと不安になった。けれど、彼はすぐに足を止めて振り返ったのだ。


「行くぞ?」


 私に向かって真っ直ぐ手が伸ばされる。その姿は昔見た光景に似ていて、私は思わず笑みをこぼした。殿下も気づいたのだろう。彼は気まずそうに手を引っ込めると、何事もなかった様に歩き出した。


「また、ロザリーと間違えたんですか?」


 隣に駆け寄ると、彼はそっぽを向いて返事をしてはくれなかった。けれど、プラチナブロンドから覗く耳が少しだけ朱に染まっているのを見つけて、ほんの少し頬が緩んだ。『ロザリア』に間違えられるような失敗はしてはいけない筈なのに、嬉しいとさえ思ってしまった。


 しかし、そんな浮ついた気持ちは簡単に払拭される。アンジェリカがサロンの前で待っていたのだ。不気味な笑みを浮かべて、共に二人の令嬢まで連れている。


 アカデミーに君臨する女王様は私達の姿を捉えて微笑んだ。


「二人にお願いがあるの。少しお時間よろしいかしら?」

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