65.アレクセイ・セノーディア2

「このお花は何て名前なの?」


 キラキラした瞳が向けられる度に、俺の胸が高鳴った。しかし、俺はその花の名前を知らない。答えを待つ瑠璃色に染まった期待を裏切ってしまうことに、チクリと胸が痛んだ。


「ごめん……」

「そっか。ざんねん」


 ロザリアは、少し落胆した様子で花を見下ろした。ロザリアに倣うように、一緒になって水色に染まる小さな花を見つめた。この小さな花の名前を知っていたならば、彼女の笑顔は俺に向けられたのだろうか。


 庭園の散策は、常にロザリアを中心に、右にクリストファー、左に俺が並んだ。ロザリアのお眼鏡に叶った花は、彼女の祝福と賛辞を受ける。


 今は、背の低い小さな花が選ばれていた。名もわからない花を前に、俺達は並んで屈みながら眺めること数分。とうとうロザリアは、青々とした芝の上に、ペタンとお尻をつけて座り込んでしまった。


 驚いてロザリアを見れば、「えへへ」とはにかみながら、ペロリと舌を出す。この時ばかりは心臓が止まるかと思った程だ。


 しかし、ほんの少しだけ、クリストファーとロザリアの距離の方が近いことに歯がゆさを感じて、俺は一人唇を噛み締めた。


 花に夢中だった筈のロザリアは、いつの間にかジッと俺を見つめている。彼女の綺麗な瑠璃に吸い込まれそうになって、俺は体を強張らせた。彼女は、優しく俺の右手の上に両手を重ねて見上げてくる。母た同じように冷たい手だった。


 そして、彼女は目を細めてにっこりと笑う。困ったことに俺の心臓は、一々彼女の行動に反応するようだ。


「お花のなまえ。次までにおうちで調べてくる……きますね。あのね、おうちには、たっくさん本があるのよ」


 彼女は両腕を広げると、頭の上で大きく円を描きながら、まだ生え揃っていない、真っ白な歯を見せて笑った。


「次……」


 俺にとって見れば、花の名前なんてどうでもよかった。その花がどんな名を持っていたとしても気にならない。しかし、花の名前を理由に彼女ともう一度会えるのならば話は別だ。


 次があるの? 君は次を知っている? それはいつ?


 何と聞けば良いのかわからなかった。目の前で笑う女の子は、まるで『次』が訪れることを疑っていない。「次はあるの?」なんて聞くことで水を差すのではないかと不安だった。


「うふふ。あのね、お母様と王妃様はとっても仲が良いの。だからよく一緒に遊ぶのよ。もし、殿下が一緒に遊んでくれるなら、きっとまた今日みたいに連れてきて貰えるわ。また、一緒に遊んでくれる?」


 彼女は首をこてりと傾ける。飴色の髪の毛がフワリと揺れた。


 まるで世界に俺とロザリア、たった二人だけみたいなのだ。瑠璃色の瞳に映った自分の姿は、少し惚けて格好悪かった。


「……勿論」


 無理やり出した声は、微かに震えていたけれど、ロザリアがそれを気にした様子はなかった。


「約束よ」


 俺は強く頷くことしかできなかった。ロザリアは、俺の返事に満足したのか、嬉しそうに笑って、くるりと背を向けてしまった。


「ね、お兄様。殿下とのお約束だから、お母様も駄目って言わないでしょ?」


 クリストファーの両腕をしっかりと掴み、彼女は見上げている。俺は呆然とロザリアの楽しそうに揺れる背中を見つめた。


「そうだね。きっとまた連れてきて貰えるよ」

「嬉しいっ」


 弾んだ声は空を昇る。フワリとドレスが広がると、ロザリアはクリストファーに抱きついた。


「また三人で遊びたかったの!」


 今、彼女はどんな笑顔をクリストファーに見せているのか。クリストファーの得意げな顔だけが俺の目には飛び込んできた。



 ◇◇◇◇



 楽しい時はそう長くは続かない。日も暮れる頃には、母が庭園に迎えに来たのだ。母の姿を見つけた時、ロザリアとの時間が終わってしまうことにどれ程落胆したことか。


 それでもまだ一緒に居たいと言わなかったのは、一重に『次は』の約束があったからだ。


 帰路に向かうロザリアは、別れを悲しむわけでもなく終始にこやかだった。隣に立つクリストファーに何かを語りかけている横顔に、悲しみの色は一切ない。それどころか、話に夢中にで一度だってこちらを振り返りはしなかった。


 馬車まで見送りたいという我儘は許されず、母に手を引かれ仕方なく王宮の長い廊下を歩く。


「次はいつ会えますか?」

「あら、二人のこと気に入ったの?」


 にこやかな母に、取り敢えず頷いた。二人を気に入ったわけではない。ロザリアだけだ。なんなら、クリストファーはいらないのだが、それを言うとロザリアにまで会えなくなるような気がした。


「そうね……。貴方がもっとお勉強を頑張ったら、かしら?」

「勉強を頑張ったら、ロザリアに会える?」

「あら、貴方のお目当はロザリアなのね。このくらいの歳の頃って、男の子同士で遊ぶ方が楽しいと思ったのだけれど」


 コロコロと笑う母の言いたいことがわからなくて、俺は頰を膨らませた。


「貴方に恋はまだ早いと思ったのよ。許して頂戴ね」


 母が俺の頭をクシャクシャと撫でた。優しい手つきに、俺は黙ってそれを受け入れる。こんな風に撫でられるのは久方ぶりだ。


 母が膝を折り、視線を合わせてくれた。俺と同じ目線になった母は、ほんのりと笑い、しっかりと見つめてくる。


 紫色の瞳に映った自分の姿は、いつも鏡で見るよりも、どこか腑抜けているような気がした。


「ロザリアのことが好き?」

「……はい」

「結婚したい?」

「けっこん?」

「そうね、……ロザリアと、ずっと一緒にいたいかしら?」


『けっこん』というものをすれば、ロザリアとずっとずっと一緒にいられるのかと、俺は目を見開いた。


 そうしたら、『次』を待たなくていいのだろうか? 明日も明後日も隣にいるということか。


 俺は何度も頷いた。母は手で口元を覆いながら、楽しいそうに笑っている。先程から、母は笑ってばかりだ。何がそんなに楽しいのか、俺にはよくわからない。


「そう。じゃあ、ロザリアが貴方と結婚したいって思ってくれるように、いい男にならなくては駄目よ」

「いい男って?」


 俺は小首を傾げる。どのようなことをすれば、ロザリアと『けっこん』をすることができるのか、俺にとってはとても重要なことだ。


 俺の問いに母は形の良い眉を少しだけ寄せて、考えるように宙を向いた。


「そうね、勉強が嫌いでは良い男とは言えないわね」

「もう、逃げ出しません」

「ふふふ、そうね。あとは、強くなくては駄目よ」

「剣術も体術も頑張ります」

「ええ、そうね。大切だわ。か弱い女の子を守ってあげられるように強くならなくては駄目よ」

「はい、ロザリアを守れるようになります!」


 勉強を頑張れば、強くなれば、彼女の笑顔を側で見ていることができるのか。あの男と同じように笑顔を向けてくれるのか。


「俺は……ううん、私は、勉強も、マナーも、全部頑張ります」

「そう、じゃあ今夜はゆっくり休んで、明日から頑張りなさい」


 母は嬉しそうに頷いたのを見て、俺はしっかりと頷き返した。


 その日の夜、ベッドの上で転がりながら、俺は満月に誓った。次に会ったら必ずロザリアに「けっこんしてくれ」と、言おうと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る