60.冬の終わりを告げる花

 セノーディア王国の冬の始まりが王宮の舞踏会であるならば、その終わり告げるのもまた王宮の舞踏会だ。冬は舞踏会に始まって、舞踏会に終わる。これは、この国の貴族の中では常識も常識だった。


 そして、その連絡は毎年突然告げられる。


 王宮の庭園、その手前に植えられたスノードロップが雪の下から顔を出した日。それが、セノーディア王国の冬の終わり。そのちょうど二週間後に春の訪れを祝う王宮の舞踏会が開催されるのだ。


 私は、王宮の庭師と共に真っ白な雫を見つめていた。殿下も隣で、その小さな花を見ているのだから面白い。早めに執務を終えた私は、何気なく「スノードロップを見に行く」と伝えた。そうしたら、殿下も「ならば」と着いてきた。


 花なんて興味もなさそうな顔をしているけれど、意外と好きなのかも。


「話には聞いていましたが、初めて見ました」


 私とお兄様が別邸に引き篭もる前、お母様に連れられて参加した王妃様のお茶会では、度々このスノードロップの話題が出ていた。


「可愛らしい白い雫の花が咲くのよ」


 王妃様が教えてくれたスノードロップに目を輝かせ、何度も見たいと言って、お母様にせがんだ思い出がある。けれど、スノードロップが咲く時期の王宮はいつも忙しくて、私は見ることが叶わなかった。


 お母様にお願いしても見せて貰えないことがわかった私は、殿下にこっそりお願いしたことがある。


「見せてあげる」


 頷いてくれたことが嬉しくて、手を握って喜んだ。結局、そのお願いが叶えて貰うことがないまま、別邸にと引き篭もってしまった。


 今思えば、王妃様が忙しいのだから、幼い子供が自由に友人を招き入れることなんてできるわけがない。殿下が願いを叶えて貰えないことは、道理だった。


 けれど、あの頃はお願いを叶えてくれない王子様にやきもきしたものだ。


 その花を、こんな形で二人で見ることになるとは思わなかったけれど。


 冬の寒さに負けずに咲く、白くて可愛らしい勇敢な花を見ていると、顔が綻ぶ。


 お兄様にも見せてあげたい。


 ベッドの上で、二人で植物図鑑を広げてスノードロップを見たことがある。「本物が見たいね」と良く話していた。


 お兄様が元気になったら、絶対に連れてこよう。


 私は固く手を握り、頷いた。


 しかしながら、殿下がいるせいか、近くに控える庭師の表情は固い。私がふらりと立ち寄ると、いうもニコニコと迎えてくれるのに、殿下が一緒にいるだけで、顔の筋肉が強張っているのがわかる。


 どこでもこの仏頂面を引っさげて歩いているからだろうか。殿下が来ると、空気がピーンッと張るのだ。


 もっと笑えば良いのに。


 誰にも懐かない怪我をした野良猫のようで、どこか放っておけない。『クリストファー』を友だと言ってくれているけれど、線を引かれているのはわかる。


 殿下は寡黙な方だ。それに慣れている私は、そこまで気にならないのだけれど、このままずっと無言でいると、庭師が窒息して死にそうだ。


「アレクがこの花を見せてくれると言っていたのに、いつも時期を逃してやきもきしたのを思い出します」


 明るい調子で殿下に声をかければ、視界の端では、庭師が分かりやすく安心している。彼の窒息は免れたようだ。


「……そんなことお前に言ったことがあったか?」


 しかし、殿下は不審げに眉をひそめた。確かに言っていた筈だ。しかし、相当昔のことだから、殿下も忘れたのだろう。


「昔のことですから、忘れても仕方ありません」


 肩を竦めて見せれば、一旦寄った眉間の皺も、ゆるゆると解かれていく。それから暫く、私達は静かに冬の終わりを感じていた。


 少しだけ暖かくなった風が吹く。首筋をかすめる風はまだ冷たい。私は身を震わせた。


 明日中には、王家からの招待状が届くだろう。



 ◇◇◇◇



 お兄様が本邸に現れてからと言うもの、ウィザー家は華やかになった。お兄様はまるで生まれた頃から女の子だったかの様に振る舞い、ロザリアを演じきっている。


 年若い料理人が、お兄様の笑顔を見て、頬を染めていたという話をシシリーから聞いた時は、笑ってしまった程だ。


「笑っていらっしゃいますけど、クリストファー様も似たり寄ったりですよ」


 笑った私に対して、シシリーは嗜めるように言っていた。


 最初の頃は、お兄様の女性の格好を複雑そうに見ていたお母様も、少しずつ元気になっていくお兄様の姿を見て、とても嬉しそうだ。いつも泣いてばかりのお母様の笑顔が、戻ってくるのはとても嬉しい。


 驚いたことと言えば、お兄様が少しずつ領地の管理や運営を手伝っているらしいことだ。勿論体調の良い日に限ったことのようだけれど、毎日忙しいお父様が「息子が二人できたみたいだ」と最近ホクホクしている。


 王宮でも、機嫌の良いお父様を何度か見かけた。その姿は、数人の部下が首を傾げている程だった。


 目まぐるしく変わっていく環境に、不安がないとは言い難い。けれど、ウィザー家にとっても、私達にとっても、上り調子であると言って良い。


 だからこそ、私は焦っていた。


 私にはまだまだ克服しなければならない問題がある。このままだと、私は男の人を触れることができないまま『ロザリア』に戻ることになってしまう。


 それでは、意味がないから。


 どの位の時間、こうしているだろう?


 閉ざされた別邸のサロンで私達は幾ばくかの間、静寂を保っていた。目の前には困ったように手を差し出して、ただ静かに佇んでいるクロードの姿がある。


 私の両隣には、お兄様とシシリーが心配そうに私を見つめていた。


 手に汗がにじむ。額から流れた汗が、頬を伝う。「今日は止めろ」と言っているようだった。


 意を決して、手を伸ばそうとしたところで、暖かいお兄様の手によって、それは阻まれてしまった。クロードの手に触れるよりずっと前で、お兄様の両手が私の右手を包み込む。私の右手は、震えていた。


 左を向けば、お兄様が無言で首を横に振る。何故か、私よりもお兄様の方が辛そうだった。


「顔色が悪いわ」

「そうですよ。まだ時間はあります。ですから、ゆっくり克服しましょう?」


 右からシシリーが、畳み掛けるように言った。クロードも差し出していた右手を体の横に戻して、大きく頷いている。


 私は、仕方なしに頷いた。冷や汗が止まらない。きっとこれ以上やっても成果は上がらないことは、目に見えている。


「お兄様、焦らなくて良いのよ」


 まだ小刻みに震える手を、お兄様は優しく包んでくれている。いつもより暑く感じるのは、お兄様が熱を出しているわけではなく、私の手がいつもより冷たいからだろう。


「ありがとう」

「猶予はあと一年半もあるのだから、今日駄目だったからって落ち込まないで」


 冬は終わりを告げているというのに、前途多難だ。


 溢れそうになったため息を飲み込み、私は笑顔を見せた。不安そうな三人の顔から、あまりうまく笑えていなかったのがわかる。


「さあ、クリストファー様。明日の衣装の試着を致しましょう。久しぶりの王宮の舞踏会ですもの」


 シシリーの弾んだ声が、室内に響いた。

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