59.不機嫌の象徴
初めてのお茶会の結果は、概ね良好と言えた。『ロザリア』の噂作りの為に開催したお茶会だったけれど、お兄様の楽しそうな顔を見ることができたことは幸いだった。
なにより私にとって、同じ年の頃の女の子とお茶会をするのは初めての経験だったのだ。次に皆と薔薇のケーキを口にする時は、ドレスを着ることができるのか。私は、今日のお兄様の姿を思い出した。
私はあんなに可愛らしく笑えるのかしら?
『ロザリア』に戻ったら大変だ。お兄様に、まずあの可愛い笑い方から伝授して貰わないといけない。すっかり『クリストファー』が根付いた身体に、うまく馴染むのか不安がつのる。
誰もいない部屋の中で、私はゆっくりとため息をついた。あとはもう寝るだけだというのに、なかなか睡魔は襲ってこない。今日一日で、沢山のことがあったせいだ。私の心はまだ興奮しているのかもしれない。
私はベッドの上で何度目かの寝返りをうった。
数日後には『ロザリア』の噂が流れることだろう。アンジェリカが帰り際に「任せて」と言った時の、物知り顔が脳裏に焼き付いて離れない。頼もしいような、恐いような。
不安で夜も眠れない。そんな気分だった。
レジーナの疑いが晴れた今、一つの悩みは消えた筈なのに。一人きりの時間は、色々なことを考えてしまう。明日のこと、未来のこと。『ロザリア』と『クリストファー』のこと。半分に欠けた月をカーテンの隙間から眺めながら、私は枕を握りしめた。
良いことを考えよう。
お茶会で出された薔薇のケーキ。お気に入りの、バターがたっぷり入ったクッキー。お兄様の笑顔。一つ一つ、頭に浮かべて、そして、私は布団の中で丸くなった。今日は一人きりだ。私の手を握りしめてくれる、暖かい手はない。
「明日は早いから、今日は一人で寝るよ」
いつもの様に、おやすみ。と、笑顔で頭を撫でて部屋を出た。けれど、お兄様は変に思ったかもしれない。気づいてしまったかもしれない。
お兄様には、嘘が通じない。どんなに巧妙に隠そうとしても、すぐにバレてしまう。だから、私の焦りも、不安もきっと全部お兄様には伝わっている。
お兄様の元気な姿を見て、確信したことがある。もうすぐ私が『クリストファー』でいる必要性が無くなってしまうだろうこと。その時私は、大好きな王子様の手を取ることができるのか。
こんな時に限って夜は長い。羊を何百も、何千も数えたけれど、なかなか朝はやってこなかった。
◇◇◇◇
お茶会はうまくいった。それは、側面的に見た結果と言えよう。なぜなら私は今、この不機嫌を大いに表している仏頂面と対面しているからだ。
すっかり忘れていた。
王太子殿下に与えられたそう大きくはない執務室。殿下は一番奥の大きな机の前で、眉に皺をしっかりと寄せて、私を待ち構えていた。不機嫌の象徴が深く刻まれた眉間を見て、私は思わず目を細めた。
なんてことはない。無言の圧力だ。紫水晶の瞳は、口よりも達者だ。何も言っていないのに、言いたいことが良くわかる。
「ああ、なんだかお腹が痛くなってきた。今日は帰ろうかな」
「クリストファー?」
逃げる様にお腹をさすって踵を返すと、地獄から這って来たような低い声で名前を呼ばれる。万事休す。本当にお腹が痛くなってきた気分にさえなる。
意を決して、笑顔で振り向けば、眉間の皺が一本増えた。
「アレク、ごきげんよう。良い天気ですね」
「ああ、クリス。こんな良い天気には、ゆっくりと話がしたい」
殿下は、奥の席からズカズカと歩いてきて、応接用の長椅子に腰かけた。視線だけで、正面の席に座るように促される。
これは相当お怒りだ。
まずは、この眉間に刻まれた不機嫌の象徴をどうにかしなければ。
「どうしました? そんなに怖い顔をして。良い男が台無しですよ」
何故機嫌が悪いのかわからない振りをして、私は自身の眉間をなぞりながら、ゆっくりと正面に座った。しかし、それくらいで彼の機嫌が良くなるわけがない。
「怖い顔なんかしていない。友が開いたお茶会の話でも聞きたい。と、思っているだけだ」
殿下は、口角を上げた。あれで笑っているというのなら驚きだ。頬がヒクヒクと痙攣している。目だって一切笑っていない。
しかしながら、私はうまい言い訳を考えていなかった。だからといって、謝るのは賢明な判断とは言い難い。
「アレクは、お茶会は苦手だと思っていました」
私は知っている。王妃様のお茶会をサボること三回。最後少しだけ顔を出すだけに留めること二回。お茶会というより、人と会話している所をあまり見ない。良かれと思って誘わなかったことにした。これは、仲間外れではなくて、優しさだ。ということにしよう。
「……ロザリーがいるなら別だ」
不貞腐れたように呟く殿下に、胸がそわりと震える。誤魔化すように笑顔を見せれば、折角和らいだ眉間がキュッと締まった。
今笑うのは失策だったようだ。
「あの中にアレクが居たら浮くと思いますけどね」
昨日の光景に殿下を入れてみた。それはもう、異質な存在だ。きっと皆俯き気味に、静かに薔薇のケーキを口に運ぶだろう。アンジェリカは例外だと思うけれど。私は、自分自身の想像に、肩を竦めることしかできなかった。
「次は三人でやれば良い」
「三人? ロザリーと私とアレク?」
「ああ」
殿下が大きく頷いた。昔みたいに三人で、遊ぶのか。それなら、楽しいかもしれない。幼い頃は何度か三人で小さなお茶会をして遊んだものだ。あの頃は王妃様やお母様が近くにいたけれど。
「では、ロザリーが元気になったら」
すぐに、とは約束できなくて、また誤魔化すように笑ってしまった。お兄様とはいえ、私ではない『ロザリア』に会わせたくなかった。今の私はすごくわがままだ。
「そうやってお前は昔から……」
「昔から、何ですか?」
苦虫を噛み潰したような顔で、殿下は私を見つめた。彼の言いたいことがわからなくて、続きを促すように、首を傾げてみたけれど、彼は何も言わなかった。
昔の話をこれ以上問い詰めても良いことはない。『昔の話』は、私が知らないこともあるかもしれないから。
「早く会いたい……」
殿下は、小さな声で呟いた。胸がドキリと跳ねる。多分、それは私に言った言葉ではない。誰にも聞かせるつもりのなかった独り言だったのだろう。バツの悪そうな顔で、部屋の奥へと向かって行ったのだから。
「『ロザリー』も、早く会いたがってますよ」
私も独り言を言うように、彼の背中に向かって小さく返してみた。その小さな声を拾った殿下は、驚いた様に振り返った。
今は『クリストファー』なのに、なんだか少しだけ恥ずかしくなって、もう一度笑顔で誤魔化すことにする。
「まだ、会わせる予定はありませんけどね」
殿下の眉間にじわりじわりと皺が寄っていく。折角無くなった皺を元に戻した罪は大きい。今日の彼は、ずっと不機嫌だろう。
でも不思議。彼の顔を見ていると、夜明けが訪れたような気がする。
私は溢れ出そうな欠伸を飲み込んで、山積みの書類が置かれた机に向かった。
「さあ、アレク。さっさと終わらせましょう」
私には、やらなければならないことが沢山ある。こんなところでずっと書類に埋もれているわけにはいかない。
腕まくりをすれば、気合いが入った気分になる。殿下をちらりと見れば、不機嫌の象徴を飼ったまま、書類に目を向けていた。今日は、ぐっすり眠れそうだ。
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