53.三通の招待状2
アカデミーの長い長い廊下を私はひた走る。なぜこんなにも必死に走っているのか、正直に言うと私も良くわからない。ただ、朝一番から大勢の女性に追われて、思わず逃げた、と言うのが正解だ。
あんなに動きにくそうなドレスで、どうやったら早く走れるかしら。
「クリストファー様ぁっ! お待ちになってぇ!」
そんな声が後ろから聞こえてきて、私は焦らずにはいられない。
こんなことをしている場合ではないのに。
それでも、立ち止まって大勢の令嬢達の相手をするのは怖かった。凄い形相なのだ。しかし、このまま追い駆けっこをしていても埒があかない。
私は、廊下の窓を開けると、ひらりと飛び越え、外へと出た。一か八か、窓の下に身を隠してやり過ごそうと考えた。
「きゃっ」
小さな悲鳴に、冷や汗が出る。顔を上げると、本を手に持ち驚いた様子のマリアンヌと目があった。
「クリストファー様ぁ!」
「どこに行ったのかしら? こちらに来たと思ったのだけれど」
段々と声が近づいてくる。こうしている場合ではないと、私は窓の下に隠れたけれど、マリアンヌは状況が飲み込めないのか、呆然と立って瞬きをしている。
「あら、マリアンヌ様。クリストファー様を見かけませんでした?」
頭上すぐ近くから声がする。私は人差し指を口に当て、必死にマリアンヌに合図を送った。マリアンヌは、顔を強張らせながら、カフェテリアの方に顔を向ける。
「えっと……クリストファー様……でしたら、あちらに走って行かれました」
「あら、じゃあカフェテリアに行かれたのかしら? 皆さん、急ぎましょう!」
令嬢達の声と足音が、どんどん遠ざかっていく。
「あの、もう大丈夫です」
「ありがとう。助かったよ」
肩の力が抜ける。随分と強張っていたみたい。マリアンヌは、不思議そうに首を傾げていた。
「何が有ったのですか?」
「それが良くわからないんだ。朝から皆に追いかけられて、何となく逃げてしまった」
曖昧に笑うと、マリアンヌはまた目を瞬かせてた後、楽しそうに口元を押さえながら笑った。
「ごめんなさい……笑い事ではないですよね」
マリアンヌは、ひとしきり笑うと、ゆっくりと深呼吸をした。そして、わざわざ膝をつき、窓の下に座り込む私に視線を合わせる。
「きっと、これのせいかと」
マリアンヌはポケットから、一枚のハンカチーフを取り出した。真新しいハンカチーフには綺麗な刺繍が施されている。
私は良くわからず、首を傾げた。
「先日、刺繍の授業があったのです。先生が『大切な方のイニシャルを刺繍しなさい』と仰っていたので、その……皆様クリストファー様にご用意したのだと思います」
「なるほど、あの子達は私にハンカチーフを渡そうとして追いかけて来たのか。悪いことしたかな」
でも、ハンカチーフ一つに凄い形相だったわ。もっと穏やかに来てくれればいいものを。私はこっそりため息をつく。
「あの……良かったらこれ……」
マリアンヌは、手にあるハンカチーフをそのまま私に差し出した。C.Wと刺されたハンカチーフは、可愛らしい青い薔薇まで施されている。
「先日のお礼、です」
ハンカチーフを持つ手は少しだけ震えている。マリアンヌは、耳まで真っ赤にしていた。
「私に? ありがとう。とても上手だね」
ハンカチーフを受け取ると、まじまじと見てしまう。私はこんなに綺麗に刺せない。私は貰ったハンカチーフを上着の内ポケットにしまおうとした。すると、内ポケットには先客がいた。
そうだった。招待状。
私は今日の使命を思い出した。残り二通の招待状を、アカデミーで渡そうと思っていたのだ。誰に渡すか考える前に、追いかけっこが始まってしまった。
「マリアンヌ嬢、今度マリーに会いに来ない?」
マリーをダシに使ったことを心の中で謝りながら、私はにっこりと笑った。
「マリーちゃん、ですか?」
「そう、今度我が家でお茶会をしようと思ってるんだ。妹と、あと二人くらい呼ぶ程度の小規模なものなんだけど」
「妹さん、ご病気は……」
「最近調子が良いみたいでね。毎日ベッドの上で一人きりだと良くなるものも良くならないかなって」
マリアンヌの瞳が不安げに揺れる。やっぱり知らない人がいるお茶会は嫌かしら?
「無理にとは言わないよ」
「いえ、行かせて下さい……!」
マリアンヌは、両手を強く握りしめて、大きく首を振っていた。私は彼女の言葉に、ホッと胸を撫で下ろした。これで、二人の参加者を確保できた。
気づけば、マリアンヌは私の視線に合わせ、ずっと地面に膝をついたままだ。私は内心慌てて立ち上がり、手を差し出した。
「ごめんね、膝を汚してしまったね」
彼女は俯きながら、私の手を取り、首を横に振った。立ち上がったけれど、マリアンヌは恥ずかしそうに下を向いたままだ。
内ポケットから一通の招待状を取り出す。マリアンヌの目の前に差し出すと、彼女はしずしずとそれを受け取ってくれた。
「そうだ。お茶会のことは、始まるまで秘密にしておいてくれないかな?」
マリアンヌが誰彼構わず言うような子には見えないけれど、万が一という場合がある。殿下に伝わったら大変なことになるのは予想できるもの。
「はい……大丈夫です」
マリアンヌが、瞳を潤ませながら見上げて来たので、後押しとばかりににっこりと微笑んだ。けれど、遠くから不穏な声が聞こえてくる。
「クリストファー様ぁ!」
令嬢達がカフェテリアまで行った足で、戻って来たのかもしれない。
「ああ、まずい。それじゃあ、私は行くよ」
そっと、マリアンヌの頭をポンポンと撫でて、図書館の方に向かって走り出した。ハンカチーフを受け取って終わらせれば良いものを、何故かそれだけでは終わらないような気がして、私は必死に図書館に向かった。
誰からも呼び止められることもなく、書庫の奥、特等席までたどり着く。ゆったりとした長椅子に腰を下ろすと、大きなため息をついた。
ここに来ると邪魔が入らない。何故か誰もこの特等席には近づかないのだ。ある二人を除いては。
「あら、無事にあの集団から逃げおおせたのね」
クスクスと笑う声を辿れば、楽しそうに笑うアンジェリカの姿があった。この特等席に近いてくるのはたった二人、殿下とアンジェリカだ。
「なんだってハンカチーフで、あんなに必死になるんだろう?」
「恋する乙女はいつだって真剣なのよ」
アンジェリカは、他人事のように楽しそうだ。本当に他人事なのだから仕方ないけれど。
「それで? アンジェリカ嬢もハンカチーフを渡すためにここに来たの?」
そんなわけはないのだと、わかっていながら、笑顔を向ければ、フンッと鼻で笑われた。令嬢とは思えない顔で私を見下ろしてくる。腕まで組んで、完全に女王様だ。
「あら、私のお手製が欲しいの?」
「いや、遠慮しておこう。アンジェリカ嬢を狙っている男達に刺されそうだ」
肩を竦めて笑らって見せれば、アンジェリカの片眉がピクリと動いた。
「それで、何か用があったんだよね?」
アンジェリカが何の用も無しに、ここまで会いに来るとは思えない。彼女も彼女で忙しいのだから。
「ええ、そうよ。面白いことを始めるみたいだから、仲間に入れて貰おうと思って」
カツカツカツと音を立てて、アンジェリカは私の元まで歩いてきた。私の座る長椅子の前で、立ち止まると、にっこりと笑いながら見下ろしてくる。
見上げるアンジェリカの笑顔は、何かを含んでいるようで凄く不気味だ。背中に冷や汗がつたう。完全に逃げ場を失ったというのに、私は後ずさった。
「あら、逃げなくてもいいじゃない」
笑顔のまま、私の太腿の横にある僅かな空間に手をつくと、触れそうなくらい顔を寄せてきた。長椅子の背もたれが邪魔をしてこれ以上後ろには行けない。
慌てる気持ちを抑えて、彼女を見返せば、僅かに口角を上げた。何をされるのか、と思わず目を瞑ったけれど、すぐにアンジェリカの気配は離れていった。
楽しそうな笑い声が聞こえてきて、ゆっくり瞼を上げれば、アンジェリカは手に一通の封筒を持って笑っている。
「これは、いただいて行くわね」
思わず目を見開いた。内ポケットを確かめたけれど、マリアンヌから貰ったハンカチーフしか入っていない。
「なんで……!」
「あら、私の情報網を侮ってはいけないわよ。楽しみにしているわ。お茶会」
アンジェリカは、招待状をヒラヒラと左右に振りながら、去っていった。
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