51.お兄様の決意
私は、第二ボタンまで外れたシャツを見て、大きなため息をついた。手にはぐっしょりと濡れた上着、ベストはのボタンはすべて外れ、お愛想程度に肩からかかっている程度。シャツもベストもパンツも全部びしょびしょだ。
レジーナの
最初に私の姿を見た御者は、目を丸くさせた。この晴れの日に、大雨に濡れた様な男がいたら驚きもするだろう。それが仕える家の息子となれば尚更だ。
最初の一言までに時間が掛かったことを咎めるつもりはない。寧ろ、慌ててブランケットを用意してくれたことに感謝すらする程だ。
馬車の中に置いてあったブランケットを被せられ、今は帰路についている。しっとりと濡れた髪をいじりながら、私はただ、馬車に揺られていた。
なぜこんなことになったのかしら......?
一人で歩くレジーナの姿にも驚いたけれど、あんなに水の入った桶を、か弱い令嬢が持っていることにも驚きだった。
見られたかもしれない。
私は、はだけたシャツから顔を覗かせ肩の傷にそっと手を置いた。傷を見られた所で、問題はない。世間的には『王太子殿下を庇ってクリストファーが肩に傷をおった』ということになっている。肩に傷があることをレジーナが見たとすれば、彼女は私がクリストファーだと認めざるを得ない筈。
「うまくやっていると思ったんだけど......」
はあ、と二度目のため息が馬車を覆う。ゆっくりと馬車が止まり、暫くすると騒がしい声が聞こえたと思ったら、勢い良く扉が開いた。
「クリストファー様、大丈夫ですかっ?!」
扉の先には、慌てた様子のシシリーの顔が現れて、私は胸を撫で下ろした。
「大丈夫では……ないかも」
曖昧に笑って見せれば、シシリーは苦しそうに顔を歪ませる。
「ああ、なんて酷い......。何があったのですか?」
「大雨に降られたんだよ」
シシリーが空を見上げる。雲一つない空。どうやったら雨が降るのか。そう、言いたいのだろう。私はあまりの寒さに、思わず身震いした。晴れの日とは言え、今は冬真っ只中。水浸しの私の体は容易く冷やされていく。
「風邪を引いてしまいます。今すぐに湯の準備をいたしますから。中へ」
シシリーに支えられながら、別邸に戻ると、すぐさま着替えさせられて、暖炉の前に置かれた。大量のブランケットが身体中を覆う。
こうなると、パチパチと音を立てて、薪が燃える様をジッと見ることくらいしか、やることがない。
シシリーは急ぎ湯を準備している筈だ。私はもう一度ため息をついた。
酷い有様だわ。それにしても、どこで女と疑われてしまったのかしら?
完璧な王子様を目指していた筈なのに、どこかで綻びかできてしまったようだ。レジーナに疑われる程の綻びとは一体何なのか。
考えていても仕方ないわ。理由がわからないんですもの。今以上に、男らしく行動しましょう。
私は一度頷くと、暖炉の火を見つめた。絨毯の上とは言え、床に座るのなんて久しぶりだ。何だか悪いことをしているようで、ドキドキした。こんな所で座っていたら、怒られやしないか、と。何となく近くの長椅子まで移動しようとしたのだけれど、それよりもフワフワした感覚が勝った。
何だか、眠たいわ。
私は、瞼の重さに抗えず、ゆっくりと目を閉じた。パチパチと薪が燃える音が段々と小さくなっていく。誰かに呼ばれた気がしたけれど、指の一本も動かせそうになかった。
次に目が覚めた時には、目の前に暖炉は無かった。見たことのある天井に、私が部屋で眠っていることは理解できた。
寒さと体のダルさ。この状態を私は知っている。
熱があるのね。風邪を引いてしまったのかしら。
ボーッと天井の模様をなぞっていると、ひんやりとした手が、額に伸びた。
「まだ、熱いわ。お兄様、ここがわかる?」
「……ロザリー?」
お兄様の心配そうな声が降ってきた。ゆっくり頭を横に回せば、不安げな表情のお兄様が私を見つめる。
「ロザリーこそ、大丈夫?」
冬になってから、お兄様は良く熱を出していた。今日はとても寒かった。私よりもお兄様の方が心配。
「こんな時にも私の心配ばかりなのね。私は大丈夫。朝は調子が悪かったけれど、昼間は元気なの。お兄様はいつも体調が悪い時に帰ってくるから、心配させてしまったわ。ごめんなさい」
私の頭を撫でるお兄様の手が、くすぐったくて私は目を細めた。
「いつもと反対だ」
「そうね。病人は甘えれば良いのよ」
そうやって、お兄様は私を甘やかそうとする。いつだってそうだった。二人きりで引きこもっていたあの頃だって、病気で辛いはずなのに、私を甘やかすのだ。
「雨に降られるなんて災難ね」
「そうだね。予想外の雨だった。次からは気をつけるよ」
そう、次からはもっともっと男らしく行動して、疑惑なんて抱かれないようにするわ。
「お兄様は少し気を張りすぎなのよ。お兄様は充分、女の子の憧れ。理想の王子様だわ。今まで通りで良いのよ。そろそろ私の出番だってこと」
お兄様の優しい手が、肩を撫でる。聞きたいことは山ほどあるのに、私は次の日の朝まで、閉じた瞼を開けることはできなかった。
朝の日差しに起こされて、目を開けると、隣にはお兄様が眠っていた。規則正しい寝息が隣から聞こえてきた。
気づかなかったわ。
私の手を握って、静かに眠るお兄様の姿に笑みが溢れる。そっと、額を触ってみると、熱はないようで、ホッと胸を撫で下ろした。
私の冷たい手の平のせいで、お兄様の目を覚まさせてしまったようだ。何度か瞬きをした後、気怠そうに起き上がった。
「おはよう」
お兄様は、その真っ白な手で何度か目を擦ると、まだ開ききっていない目で、私を見つめた。伸ばされた右手は私の額の上で着地すると、満面の笑みが広がった。
「よかった。熱、下がっているわ」
「ロザリーも、今日は調子が良さそうだね」
私もにっこり笑うと、お兄様は目を丸くさせて、自らの右手で熱を確認している。
「本当だわ。お兄様のことが心配で熱も飛んでいってしまったのかしら?」
「そんなことで、ロザリーが元気になれるなら、毎日でも熱を出そうかな」
「駄目よ、次は心配で寝込んでしまうかもしれないもの」
お兄様が口を尖らせると、私達は目を合わせて笑い会った。
「お兄様、私お願いがあるの」
「何? ロザリーのお願いならなんでも叶えてあげるよ」
私もゆっくりと起き上がって、お兄様の頭 を優しく撫でる。一年で大分髪の毛が伸びた。もう、後ろで縛ることも可能だろう。目の前にいるのが、本当に『ロザリア』のような気がしてくるのたから不思議だ。
「あのね、お茶会を開いていただきたいの」
私だってしたことがないような上目遣いで私をみると、恥ずかしそうにはにかんだ。
「そう、小さくて良いのよ。女の子数人。私もお友達が欲しいわ」
にっこり笑うお兄様とは反対に、私は驚きのあまり目を見開いた。
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