50.侯爵令嬢は真実を求める

 うまくいかない。


 素直に言えば、わたくしは焦燥感に苛まれていた。


 一日経つごとに、あの男――クリストファー・ウィザー――の立ち位置は盤石なものとなっていく。きっと、あの男が裏で手を引いている。そして、目障りなミュラー家の長女、アンジェリカも関わっているようだ。時々二人でいるところを目撃するのがその証拠。


 今、あの男の思惑通りにことが進んでいるのだろう。でければ、あの男にとって、転がるようにうまく事が進んでいくなどというのはおかしいのだから。


 あの男に心酔していまっているエレノアとクロエは、わたくしの言葉を話半分にしか聞かない。


「クリストファー様が女性だなんて。さすがに女性には見えませんわ」

「確かにクリストファー様は線の細い所はありますけれど、騎士団長のリーガン侯爵様と比べては可哀想ですわ。彼は文を司るウィザー家の方ですもの」


 最近では、逆にエレノアもクロエもわたくしを説得しようとしている節がある。けれど、わたくしは確信していた。


 あの肩には傷なんて無いのよ。


 彼は、「肩の傷を人に見せたくないから」などと尤もらしい理由をつけて、衣類を脱ぎ着するような、武術等の授業は全て取っていないらしい。


 本当は、傷の無い綺麗な肩を人に晒せないだけでしょう? ロザリア・ウィザーさん。


 わたくしは、楽しそうに女性達と会話するあの男を見た。あの男の周りが華やかになる度に、殿下の恋文の噂は簡単に掻き消えて行く。ついでと言わんばかりに、わたくしの失恋の噂だって小さくなっていった。


 こそこそと噂話をされる機会は殆ど無くなった代わりに、ダンスに誘われる回数は増えていった。つまり皆、わたくしが殿下の婚約者候補から外されたと思っているのだ。


 お父様と繋ぎを作るにはわたくしと仲良くなるのが一番簡単ですもの。


 気のある素振りを見せる目の前の男に、にこりと笑って見せれば、気を良くしたのか、わたくしの腰を強く引き寄せた。


 ああ、煩わしい。


 ダンスなど楽しくもない。それでも笑顔で手を取らなければ、リーガン家の顔に泥を塗ることになる。だから、今日も殿下の来ない夜会で笑顔を振りまく。深紅の勝負服を身に纏って。


 真冬とは言え、何人かとダンスを踊れば、身体は湯につかった様に温かくなる。私は七人目のダンスの申し込みを断ると、一人でバルコニーに出た。


 冷たい風が背をなぞる。汗が冷える感覚に、ふるりと肩が震えた。


 だからと言って、引き返してダンスに興じるのも、壁の花に徹するのも今は遠慮したかった。


 白い息を吐きながら進むと、人影が見えた。真っ黒の絵の具で塗られた男は、バルコニーの手摺に背を預け、星空を見上げている様だった。


 彼の視線を追って、わたくしも空を見上げれば、真っ黒な夜空には、宝石を零したような星屑が散らばって、輝いている。


 思わず時間も寒さも忘れて、この星空に魅入ってしまった。このまま溶けてしまいそうなくらい広大で美しい星空。


「あれ、レジーナ嬢。御機嫌よう」


 わたくしをバルコニーに引き戻したのは、図らずも、忌まわしいクリストファーだった。


 目を離した隙にバルコニーにいたなんて。


「あら、人気者がこんな所で油を売っていて良いのかしら」

「人気者だなんて。皆さん、デビューしたばかりのひよっこの私を気にかけて下さっているだけですよ。ありがたいものです」


 涼しい顔をして、心にもないことを言うものだ。


「そう……妹さんはお元気? 皆さん気にされているみたいだけれど」

「お気遣いありがとうございます」


 彼は困った様に笑った。まるで、これ以上その話を振らないでくれとでも言うかの様に。


 自分の話を振られても困るものね。本当は病気で療養しているのも全部嘘なんて、バレたら大変だわ。


 聞いたって教えてはもらえないだろう。ならば、如何にして彼が、いや、彼女が女であると暴けば良いのか。


 そうだわ。肩の傷が無いことを確認できればいいのよ。


 わたくしは、ジッと見つめた。その仕立ての良いジャケットと、ベスト、そしてシャツを脱がせなければならない。けれど、三枚の壁を破る方法をわたくしは知らない。


 クリストファーは、何も言わないわたくしに、困った様に首を傾げ、笑みを浮かべた。


「レジーナ嬢も、星空を見に来たのでしょう? 邪魔者は退散しますから、ゆっくりしていって下さい」

「ええ、そうさせて頂くわ」


 わたくしは、彼の横を通り過ぎ、バルコニーの手摺に近づいた。すると、嘲笑う様な冷たい風がヒューっと吹いた。踊ったせいで、うっすらとかいていた汗が、冷たい風によって冷やされていく。意図せず、小さなくしゃみが漏れた。


 寒さに身を震わすのは、二度目だったけれど、すぐに戻る気にもなれない。我慢しようと思った矢先、肩がぬくもりに包まれた。


 ふわりと香る、薔薇。


「その恰好では寒いでしょう? いらなくなったらその辺に捨て置いて下さい」


 振り向けば、シャツとベストだけの薄着になったクリストファーが微笑んでいた。今まで着ていたジャケットは、今はわたくしの肩を守っている。


 彼は、わたくしが口を開く前に、軽い足取りで夜会の会場に戻って行ってしまった。彼の香りに包まれながら、わたくしは呆然と星空を見上げた。


 わたくしなんて敵でもないってことかしら。


 無意識に噛み締めた奥歯がギリギリと悲鳴を上げる。


 夜会の会場では、今頃また女性達にちやほやされているのだろう。「上着はどうしたの?」と聞かれて、どんな返事をするのか興味深いところだけれど、きっと上手いこと話して「心優しいクリストファー様」の印象を皆に植え付ける筈だ。


 わたくしが、あの男の、ウィザー家秘密を暴かなければ。皆があの男に心酔して、正しいことが見えなくなる前に。


 わたくしは、力一杯手を握りしめた。バルコニーに上着を置いておけば、あの男はいつの間にか上着を回収し、何食わぬ顔で会場を去っていった。



 ◇◇◇◇



 殿下とあの男がアカデミーに顔を出したのは、それから暫くした寒い冬の日だった。芯から冷える様な寒さに辟易していたけれど、わたくしは今日こそ絶好の好機だと確信していた。


 久しぶりの登校ということもあって、あっという間に女性達囲まれるのは、夜会とそう変わらない。殿下の恋の噂が真実味を帯びている今、クリストファーの隣を狙うのは、貴族の子女としては、当然とも思える。同じアカデミーの生徒という特権を最大限に活かした行動は、むしろ称賛に価するだろう。


 クリストファーが女性達に囲まれる時は、大概殿下も隣にいる。いつも面倒臭そうに黙っているのは、小さな頃のお茶会と変わらない。


 わたくしは、あの男が一人になる時をジッと待った。今日は剣術の授業のある日。殿下から離れ、彼が一人になる絶好の日だ。殿下が剣術の授業を受けている間、あの男は図書館に必ず行く。わたくしは、桶になみなみの水を入れ、図書館に続く廊下で待ち伏せた。


 女だとバレたら、どんな顔をするのかしら? 欺いていたことがバレれば、もう社交界には顔を出せないでしょうね。そして、殿下だって騙されていたことを知れば、百年の恋だって冷めてしまうわ。そうしたら、わたくしがそっと手を差し出すのよ。


 明るい未来を思えば胸が高鳴る。これが成功すれば、きっとお母様もわたくしを褒めてくれる筈。


 重い桶を手に持ち、待っていればあの男が廊下を一人で歩いて来た。まだ小さな姿を目に捉えた瞬間、胸の鼓動がドキドキと速くなる。


 何食わぬ顔で彼の横を通り過ぎれば良いのよ。


 わたくしは、ゆっくりとクリストファーに向かって歩いた。近づくと、わたくしに気づいてにっこりと微笑む。いつもの忌々しい笑顔に、桶を持つ手に力が入る。


「レジーナ嬢、ごきげ……」


 彼が言い終える前にわたくしは、手に持つ桶を勢い良く彼の方に放った。


 桶に入った水はゆっくりと弧を描き、クリストファーの顔に直撃した。勢い余ってわたくしの手を離れていった、桶が水の後を追った。クリストファーに当たると思った桶は、咄嗟に出した彼の手に寄って阻まれ、小気味良い音を立てて、床に転がった。


「クリストファー様、大丈夫かしら。ごめんあそばせ。手が滑ってしまいましたの」


 クリストファーの髪の毛からは、ポタリポタリと水滴が滴り落ち、額から流れた水は、長い睫毛とぶつかった。現状を把握しきれていないのか、クリストファーは、何度か瞬きを繰り返している。


 わたくしは、今しかないと、彼の上着に手を掛けた。


「さあ、上着を脱いで下さい。このままでは風邪を引いてしまいますわ」


 クリストファーは、呆然とわたくしに促されるままに上着を脱いだ。桶に入った水を全部被った彼の上着はぐっしょりと濡れていて、重たくなっている。わたくしは内心、ほくそ笑んだ。


「まあ! ベストまで酷く濡れていますわ」


 サッとベストのボタンに手を掛ける。瑠璃色の瞳が、大きく見開かれた。


「えっと、レジーナ、嬢?! 離して下さい。大丈夫ですから!」


 クリストファーが、一歩、二歩と後退ったけれど、わたくしはそれを追う。すぐに壁が彼の背を捉えた。


「いいえ、誤って桶を落としてしまったわたくしのせいですもの」


 濡れたシャツは、肌にぴったりと張り付き、引き締まった身体が顔を出している。困った様にしつつも、強くは跳ね除けないことを良いことに、シャツの第一ボタンに手を掛けた。


 すると、肩を力いっぱい押されて、後ろによろけてしまった。それでもシャツの襟を掴んでいた右手は、離すまいとしっかりと握っていたお陰で、シャツのは第二ボタンまであらぬ方向に飛んで行った。


 嘘……!


 わたくしが目を丸くしたと同時、わたくしの肩を押した手は引き戻され、彼はシャツの襟元を元の場所に引っ張り戻した。わたくしが床にへたり込むと、困った様な表情のクリストファーに見下ろされた。


「さすがに……これ以上は、女性には見せられません」


 ポタリ、ポタリと、彼の飴色の髪の毛の先から水が滴り落ちる。


「レジーナ嬢、アレク……殿下には、『雨に降られたので今日は帰ります』とお伝えいただけますか?」

「え、ええ……」


 クリストファーは、床に落ちた上着を拾うと、水浸しのまま廊下を戻っていった。小さくなる背中を見つめながら、わたくしは呆然とした。


「嘘よ……」


 ちらりとだったけれど、確かに見えた。無いはずの肩の傷が。


 彼は、彼は本当に『クリストファー』だと言うの?

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