47.侯爵令嬢の初恋

 セノーディア王国にも本格的な冬がやってきた。しんしんと雪が降っている中でも、この国の貴族は社交を休むという感覚はない。当のわたくしも、コートを脱ぎ、今流行りのデコルテが出た深紅のドレスを身に纏い、華奢だと言われる肩を限界まで出して戦場へと向かった。今日の戦場は、モンストン伯爵家が主催する夜会。


 リーガン侯爵家の令嬢であるこのわたくしが、壁の花に徹しているのには、きちんとした理由がある。


 わたくしは、忌々しい宿敵――クリストファー・ウィザーを睨みつける。けれど、彼はどこ吹く風。わたくしの視線を、微塵も感じていないという様子で、楽しそうにあまたの女性の手を取り、ダンスに興じている。


 どのお茶会に参加しても、どんな夜会に足を運んでも、話題はあの男のことばかり。こんなことを言われた、こんな物を見ていた。誰もが彼の情報を競うように手に入れている。しまいには、このわたくしにまで、「クリストファー様は、アカデミーではどんなご様子なの?」と聞いて来る始末。


 わたくしが、あんな男の行動を一々観察するわけがないじゃない。


「クリストファー様、最近より一層キラキラしておりませんこと?」

「ああ、私もあの美しい手を差し出されてみたいものだわ」


 近くでは、またあの男の話をしているらしい。口を開けば『クリストファー様』。あっちに行っても『クリストファー様』。


 ああ、もう。うざったいのよ!


 最近、あの男は毎晩のように社交に勤しんでいるようだ。前は必要最低限しか参加していなかったのにも関わらず。


 どういう風の吹き回しかしら?


 もう一度、少女の手を取って、優しげに微笑みながらダンスを楽しんでいるあの男を、睨み付けた。一度だって目を合わせて来なかったあの男は、クルリと回るたった一瞬の間に、わたくしと視線を絡めて、挑発的ににっこり微笑んだ。


 なんだって言うの? ああ、忌々しい。あの余裕の表情。私はこんなに苦悩しているのに。なぜあの男だけ。


 殿下が、ウィザー公爵家の深窓の令嬢、ロザリアに恋文を送ったという噂は、瞬く間に国中に広がった。それだけではない。わたくし、レジーナ・リーガン侯爵令嬢が、恋に破れたというオマケまでついて回ってしまった。


 今だって皆、嘲笑うようにわたくしを見ている。アカデミーに行っても、皆、わたくしを腫物の様に扱う。だからと言って、屋敷に籠ることも許されない。


 全ては、あの男と、双子の妹のせい。ああ、忌々しい。


 恋文の噂のオマケを聞いたお母様は、それはもう激怒した。いつも厳しいお母様だったけれど、あんな形相は初めて見た。


「婚約者候補で、今一番殿下に遠いウィザー家の娘に、何故負けるの?」


 殿下が皆の前で、あの男に恋文を手渡した次の日、お母様は喚き散らしながら言ったのだ。


「貴女が一番殿下に近かったのよ。何故その好機をものにできないの」

「ああ、本当に嘆かわしい」

「貴女はリーガン家の恥さらしだわ」


 これは全て、お母様にその日の内に言われた言葉。


 お母様はわたくしに、幼い頃から何度も何度も「貴女は王太子妃になるのよ」と寝物語に語った。殿下のお姿を拝見するまでは、「そうなのね」くらいの気持ちだった。


 殿下に初めてお会いしたのは、わたくしが九歳の頃。お母様に連れられて初めて行った王妃様のお茶会だった。


 彼は終始つまらなさそうに、花を見ていた。他の同じ年の頃の令嬢や令息とも、一切話をしようとはしなかった。


 緊張しながら挨拶をしたわたくしには、興味無さげな「ああ、よろしく」程度の短い返事が返ってきた。それだけの返事だったのにも関わらず、わたくしの胸は、大きく高鳴って仕方なかった。


 高貴な紫水晶の瞳も、サラサラのプラチナブロンドの髪も、キラキラと輝いていた。幼さは残っていたけれど、端正な顔立ち。切れ長の目。わたくしは、彼から目が離せなかった。


 後にこれが『恋』というものだと知ったのよ。


 殿下に初めてお会いした日から、私は王太子妃になるための勉強も、ダンスも、マナーも、死に物狂いで習得した。彼の隣に立つためなら何でもする。そう思って。


 何度目かのお茶会の折り、わたくしは初めて殿下の笑顔を見た。わたくしに微笑みかけたわけではない。相手は、あのロザリア・ウィザー。


 二人は他の人達から離れて、楽しそうに花を見ていた。以前参加したお茶会の際、殿下が何度も見ていた桃色の小さな花だ。


 私は、こっそり二人に近づいて、耳をそばだてた。


「ロザリーは、本当にこの花が好きだな」

「ええ、だって小さくて可愛いでしょう? それに、このお花はこの庭園でしか見られないのですもの」

「なら、またいつでも見においでよ」


 愛おしい人を見る様な、優しい瞳。わたくしはこんな紫水晶を知らない。


「ありがとうございます、アレクセイ様。次はお兄様も一緒に連れて来ますね」

「ああ。この庭園はとても広くて一回じゃ見て回れないし、季節によって咲く花も違うから、沢山おいで」

「はい。是非。我が家の庭園もここまでは広くないのですけれど、素敵な花が沢山咲くのよ」


 自慢気に話すロザリアの顔は楽しそうだった。狡い。わたくしは、挨拶しかしたことがないのに。彼女は花の話をする程に殿下に近い。


「なら、次はロザリーの家の庭園を案内してくれ」

「ええ、是非」


 わたくしは挨拶しかしたことがないのに、ロザリアは次の約束をしている。もうこれ以上聞いていられなかった。お母様は「王太子殿下とお話ししてきなさい」と何度も私の背中を押したけれど、あんなのを見せられた後で、そんなことできる筈がないじゃない。


 その日のお茶会を堺に、お母様の指導がより一層厳しくなった。今までお母様は、再三わたくしに、「殿下に見初められるように努力なさい」と言ってきた。けれど、その日から「ウィザー家の娘に負けることのないように」が追加された。


 ずっとずっと、お母様は誰よりも王太子妃に囚われている。わたくしよりもずっと。


 十一歳の春、転機は訪れた。ロザリアが殿下の前から消えたのだ。ロザリアの兄、クリストファーが殿下を守って負傷したという話は、すぐに国中を駆け抜けた。その日から、ウィザー家は殆どの社交場から姿を消した。王宮主催の夜会以外、ほぼ全て。王妃様のお茶会にも参加はしなくなった。それどころか、ウィザー家の双子は公爵領で療養しているらしい。王都から消えたのだ。


 お母様は、それを聞いてわたくしに言った。「今の内に殿下のお心を掴むのよ」と。


 その言葉に、わたくしも満更でも無かった。


 それはそうよ。だって、わたくしの殿下への恋心は、消えてなんていなかったのですもの。


 素直に、彼女がいなくなった今が好機だと思った。わたくしは挨拶以上の会話をすることを胸に誓い、次の茶会に参加した。


 しかし、殿下はお茶会に参加こそしていたけれど、決して人と話そうとはしなかった。離れた所でまたあの花を見ている。近づける雰囲気ではなかった。


 そんな姿を見て、「まだ傷は癒えていないのだろう」と、皆が口々に言う。そして、誰も近づこうとしなかった。


 それでも、お母様はわたくしを呼び出して、誰にも聞こえないような小さな声で言った。


「貴女が、殿下に寄り添わなくてどうするの? 貴女は未来の王太子妃なのよ?」


 わたくしは、決死の覚悟を持って、殿下にそろりと近づいた。そして、隣に座った。彼はわたくしを一瞥しただけで、何も言わなかった。


「あの……、その花がお好きなのですか?」


 ロザリアの好きな花。そんなことは知っている。殿下はジッと小さな桃色の花を見つめている。


「ああ」


 小さな声で、返事をしてくれた時、わたくしの胸は大きく弾んだ。内容なんてどうでも良い。挨拶以外の会話をすることができたことの喜び。羨ましいと思っていたロザリアの居場所に座っていることへの喜びで胸がいっぱいになった。


「そのお花。わたくしも好きなのです。隣で見ていても、よろしいでしょうか?」

「……好きにするといい」


 その日、わたくしは殿下の隣にはいたけれど、それ以上何の話もすることなく終わった。それでも、彼の隣に居られたことへの幸福感は何よりも大きかった。


 そして、お母様もその日、終始ご機嫌だった。


 わたくしは、愛しい殿下の側で、彼を支えたい。そう、強く願った。

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