41.青薔薇の魔法1

 ふわりと、甘い薔薇が香る。冷たい彼の手が、優しく私の肩に触れたのがわかって、思わず肩を震わせてしまった。


 あの麗しい青薔薇の魔法使いが、私に掛けた恋の魔法を解く方法を、私は知らない。


 苦しくて甘い恋の魔法。


 物語をめくるように思い出す。私が初めて物語の中心に立った、あのミュラー家の夜会のことを。







「さあ、マリアンヌ。この馬車を出たら物語の始まりだよ」


 あの言葉が合図だった。いつも誰かの影に隠れた脇役の私が、初めて表舞台に立つ。


「はい、クリストファー様」


 彼の優しい笑顔に、私は強く頷いた。物語で語られる、強く優しいヒロインのように。


 隣で、飴色の柔らかい髪が揺れる。それはまるで風の精霊に祝福されているようで、彼の柔らかな雰囲気にとても良く似合っている。瑠璃色の瞳は、お母様が持っているどの宝石よりもキラキラと輝いている。


 陶器のように冷たい手は、グローブ越しでもわかってしまう。もしも、彼が実は人間ではないのだと言われても、私はきっと納得してしまう。


 それくらい、彼は女性よりも美しく、ガラス細工みたいに繊細で、砂糖菓子のように甘い。


 彼が近づく度にふわりと香る甘い薔薇は、私の心を優しく包み込むの。


 広いパーティ会場は、ミュラー家の大きさを物語っている。誕生日を祝う夜会に相応しい華やかな雰囲気、私の家とは比べるまでもない。


 談笑していた人々は、私達を見つけると、話をやめて視線を向けた。突き刺さる視線を物ともせずに、彼は歩いている。一歩進む毎に、彼は皆の視線を奪っていく。彼を見て頬を染め、隣の私に視線を移して目を見開く。それの繰り返し。


 普段なら萎縮してしまうような状況なのに、不思議と堂々と立っていられた。本当に、彼の魔法は、私を物語のヒロインにしてくれている。


 こんなにドキドキしているのに、不安ではない。きっと、魔法のお陰。


 周りでヒソヒソと何か話をしているけれど、気にはならない。私には魔法使いがついているんですもの。


「まずはお祝いの挨拶に行こうか」


 彼が私の耳元に顔を寄せ、そっと囁いた。かかる吐息、鼻をくすぐる甘い薔薇の香りに心音が速くなる。私は、どうにか頷くことで返事をした。


 会場の奥で、ミュラー侯爵様と夫人、そしてカロリーナ様とアンジェリカ様が迎えてくれた。


「ミュラー侯爵、夫人、本日はお招き頂きありがとうございます」

「クリストファー君、今日は娘の為に来てくれてありがとう。今日は楽しんでいってくれたまえ」


 クリストファー様がミュラー侯爵様と話している間、私はカロリーナ様から熱い視線を受けていた。思わず怖くなってクリストファー様の手をギュッと握ってしまう。


「まさか、こんなに早くご令嬢をエスコートする君を見ることになるとは思わなかったよ」


 ミュラー侯爵様は豪快に笑った。その声に、近くにいた人の視線が集まっている。


「侯爵、紹介させて頂いてもよろしいでしょうか?」

「ああ、是非君の見染めた姫君を紹介してくれたまえ」

「見染めただなんて。ただ、悪い狼から守る護衛を仰せつかったに過ぎません。彼女はマリアンヌ・ウェルザー男爵令嬢。うちの父がウェルザー男爵を離さないお陰で、彼女のエスコートという大役を仰せつかることができました」


 クリストファー様は、いつもの様ににっこりと笑っている。目を細めて、楽しそうに笑いながら、ミュラー侯爵様は、クリストファー様から私に視線を移した。


「ほう、ウェルザー男爵の所のお嬢さんだったのか」

「初めてお目にかかります。ミュラー侯爵様、侯爵夫人。マリアンヌ・ウェルザーと申します。本日は父の名代で参りました。カロリーナ様、お誕生日おめでとうございます」


 用意していた挨拶は、噛まずに言えた。クリストファー様から手を離して、いつも練習しているみたいに淑女らしく礼をする。失敗はしていない筈。カロリーナ様は、ジッと私だけを見つめている。痛いくらい強い視線に足が竦みそう。


「これはこれは丁寧にありがとう。マリアンヌ嬢、君も今日は楽しんでいってくれたまえ」

「ありがとうございます」


 私は、一番の難所を乗り越えたことにホッと胸を撫で下ろした。クリストファー様は、カロリーナ様に視線を移して、優しい微笑みを浮かべた。


「カロリーナ嬢、お誕生日おめでとう。あとで私とダンスを一曲踊っていただけますか?」


 カロリーナ様は雪の様に真っ白な頬を上気させて、潤んだ黒い瞳でクリストファー様を見つめた。


「はい、喜んで」


 彼女の顔は恋する乙女そのものだった。王太子殿下の婚約者候補であるにも関わらず、彼への気持ちを微塵も隠しもしていない。


「ありがとう。では、後ほど。失礼します」


 私の前に、自然な仕草で手が差し出される。私はそっと手を置いた。クリストファー様は私を見て優しく微笑むと、沢山の人が歓談する中へと誘った。


 クリストファー様は、それから沢山の人から挨拶を受ける。そして、私のことを自然に紹介してくれた。ダンスが始まるまでの間、ずっと隣に居てくれた。私が輪に入りやすいように、時折声をかけてくれる。


 いつもお父様の後ろに隠れていた引っ込み事案の私は、今はいない。笑顔で受け答えをしっかりできているの。これは、多分魔法のせい。ずっと、優しくて甘い薔薇の香りに包まれているせい。


 私は少しだけ、舞い上がっていた。今なら何でもできると思っていた。昨日までの私は過去私で、今日からは違うのだと、そう思っていた。


 軽やかな音楽が流れ、ミュラー侯爵様とカロリーナ様のダンスを皮切りに、沢山の招待客がダンスに興じる。


 クリストファー様も例外ではなく、私に手を差し出してくれた。


「マリアンヌ嬢、私と一曲踊っていただけますか?」

「はい、よろこ……」


 彼の差し出された手を取ろうとした時だった。クスクスと、近くから笑い声が上がった。思わず手も口も止まって、私は笑い声の方に視線を向けた。視線の先には、扇で口元を隠して嫌らしく笑う令嬢達の姿があった。


「あら、ごめんなさ〜い。王宮の舞踏会を思い出してしまって」

「わたくしもよ。あ〜んなに綺麗な転倒、なかなか見れませんもの」

「やだわ。あれは、そういうダンスだったのでしょう?」

「クリストファー様ぁ、気をつけて下さいね。その子と踊ると、転んでしまうかもしれませんわよ」


 彼女達の「オホホホ」という高笑いは、彼が折角掛けてくれた魔法を解いていく。


 私は舞い上がっていたの。この時まで。私はすっかり忘れていた。あの日の私の大失敗を。デビューの日、私は誘われるがままに踊った。そして、ダンスホールの真ん中で転んでしまったの。


 転んだ私を見て、皆がクスクスと笑った。ダンスに誘ってくれた男の子は、私を置いてどこかへ行ってしまった。私は一人、逃げるようにダンスホールを後にするしか無かったんだもの。


 私はとうとう、クリストファー様を見ることができなくなってしまった。魔法は解かれ、元の引っ込み事案の女の子に戻ってしまったんだもの。


「クリストファー様、……私はダンスは大丈夫ですから」


 どうにか顔を上げてクリストファー様に笑って見せた。とっても下手くそな笑顔だと思う。


 どうにか両目を開けて、クリストファー様を見ると、彼は曖昧に笑って、そっと私の頭を撫でた。また、ドキリと胸が高鳴る。どんどん近づいてくる彼の顔に混乱して、私はギュッと目を瞑った。


「駄目だよ。困ったら頼ってって、約束したじゃないか」


 耳元でクリストファー様の優しい声が広がった。思わず瞑った目を見開いたら、綺麗な瑠璃色の瞳が私を捕らえる。彼は怪しく笑った。いつもの優しい顔では無かったの。初めて見る表情にドキリとした。


「マリアンヌ嬢は、ダンスが苦手?」


 近くにいる人に聞こえるような大きな声で、クリストファー様は私に問いかけた。クスクスと嘲るような笑い声が聞こえてきて、私はすぐにでも逃げ出したかった。ギュッと手を握りしめてしまう。


「あの……はい」


 男の人と二人きりで踊るのは苦手。あの日も、何を話していいかわからなかったもの。それにまた転ぶかもしれない。また取り残されてしまったらと思うととても怖い。


「そう、じゃあ、私と今度二人で練習しようか?」


 優しく頭を撫でる彼に、私は驚いて目を丸くしてしまった。周りの笑い声が一瞬で止まってしまった。


「練習して、転ばなくなったら、今度こそ私と一曲踊ってくれる?」

「は、……はい」

「そう、じゃあ私とダンスをするまでは他の男とダンスをしては駄目だよ」


 にっこりと笑って、彼は私の右手を取り、そっと手の甲に口付けを落とした。周囲に騒めきと悲鳴が起こる。ああ、気が遠のきそう。むしろ、失神でもできたら楽だったのかもしれない。


 なかなか返事をしない私に痺れを切らしたのか、クリストファー様が首を傾げて催促してきた。


「……はい」

「楽しみにしているよ。じゃあ私は少し離れるから、困ったら声を掛けてね」


 ああ、なんて甘く微笑むのかしら。柔らかな飴色の髪の毛も、どんな宝石よりも高価な瑠璃色の瞳も、ふわりと香る薔薇の香りも。全部が甘美な、砂糖菓子のよう。


 彼は、皆の視線を奪って人混みの中に溶けて行った。 

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