三月のさくらんぼ
楓 双葉
1
小学三年生の夏休みに家族が増えた。
一人は産まれたばかりの弟。もう一人は新しい父親。家族が増えて家の中が賑やかになったのに、友美は今までよりも孤独を感じていた。母と二人で暮らしていた古びた木造のアパートに戻りたいと毎日のように願った。
母は産まれたばかりの弟の世話で忙しく、友美に構ってくれなくなった。泣き止まない弟をあやす母におやつを食べていいか聞いただけで怒鳴られ、いつでも母の顔色を伺うようになる。
新しい父親は優しい。学校の行事には有休を取って必ず参加し、絵やテストの点を褒めてくれる。一緒にお風呂に入るのは嫌で嫌で心がちぎれそうに痛かったが友美は我慢した。父親の股間を見ないように細心の注意を払い、鳥肌がたつほどの気持ち悪さを堪えて湯船に一緒につかった。今日学校であったことを話すと新しい父親は喜んだ。自分は新しい父親と仲良くしなければならない、自分と父親が仲良くさえすれば本物の家族になれると、三年生の友美は思っていた。母や新しい父に心配をかけないよう頑張っているうちに友美の顔には笑顔が貼り付いて取れなくなった。笑いたくなくても顔が笑う。怒られても、誉められても、名前を呼ばれるだけでも、笑顔になってしまう。なんにも面白くないのに笑ってしまうことが、この時の友美は悪いことだとは思っていなかった。
夏休みが終わり新しい名字で学校に行くと転校生が紹介された。陽子ちゃんだった。兵庫県から来た陽子ちゃんの、おかっぱ頭の前髪が寝癖で跳ねていた。朝早く起きられなかったのかなと友美は思った。
陽子ちゃんの席は友美の隣で、席に着くなり「なんて名前?」と聞いてきた。
「友美」新しい名字を名乗りたくなかった友美は下の名前だけを答える。
「わたし陽子。よろしくな、友美ちゃん」
陽子ちゃんのほっぺはむちむちと弾力の良さそうな艶があった。
「よろしく」友美が言うと陽子ちゃんは他の歯に比べてずいぶん大きな前歯を見せて、にかっと笑った。
陽子ちゃんをクラスの子達は良く思っていなかった。関西弁は馴染みがなく、力強い声量がよけいに威圧感を与えるようで、「なんかえらそう」「うるさい」「汚い」とみんなが言う陰口が、終わりの会の頃には友美の耳にも入っていた。
「一緒に帰ろう」
陽子ちゃんに誘われて友美は一緒に帰った。「好きな食べ物は?」「好きなアニメは?」「好きな教科は?」陽子ちゃんは次々に質問をしてくる。そのどれもが好きな何かについてだった。友美は答えるのが楽しかった。自分が何を好きか考えるのは心が明るくなる。
「じゃあ好きな場所は?」
陽子ちゃんに訊かれて友美は口ごもる。母と二人で暮らしていた古いアパートが浮かぶ。
「あけぼの荘」
「なにそれ、どこ? 今から行こうや」
陽子ちゃんは目を真ん丸くして秘密の基地を目指すような期待に満ちた顔で言う。
「もう行けないんだ」
「なんで?」
「引っ越したから」
「そうなん。遠いん?」
「遠くはないけど……」
「ほんなら行こうや、友美ちゃんの好きな場所なんやろ?」
友美は迷った。でも陽子ちゃんとなら行っても良いような気がして、「いいよ」と答えた。
引っ越して以来初めて、あけぼの荘へ向かう。懐かしい道の途中で自動販売機を陽子ちゃんに紹介する。
「ここの自動販売機は全部100円なんだよ。お母さんと一緒によく買いに来たんだ。ジャンケンして、勝った方が選んだ一個だけを買って、交代で飲むんだ」
言い終わって友美は泣きそうになったので慌てて息を止めた。泣きそうになった自分にびっくりした。
陽子ちゃんが何か言ったけど友美は振り返らずに走った。角を曲がるとあけぼの荘があった。
強い日射しに照らされるひびの入った古い外壁。
ボロボロのバスタオルが猫の額ほどのベランダでなびいている。錆びた鉄の階段。玄関側へ回り込むとドアの横に置かれた雨ざらしの洗濯機。
「ここ? あけぼの荘」
「そう」
確かにここはあけぼの荘で、毎日帰りたいと祈るように願っていた場所のはずだった。
「好きなんやな、ここが」
陽子ちゃんは鼻を膨らませて満足そうに言った。
和室の狭い部屋。一緒に包んだ不細工な形の手作りの餃子。二人で入るには狭すぎる真四角の湯船。毎晩絵本を読んでくれた母の声。
好きなものが全てここにあったはずなのに、戻りたいと願っていた場所のはずなのに、今の友美にはただの古い木造アパートだった。
「やっぱり違う」
「なにが?」
「ここ、好きな場所じゃなかった。ごめん、陽子ちゃん」
「そうなんや……」
いったいどこへ行ってしまったんだろう。私が戻りたいと願っていた場所は。温かく、安心できる大好きなあの場所は。
「でも、友美ちゃんにとって大切な場所なんやろ、ここは」
帰る場所がなくなったような寂しさを抱えて友美は肩を落とす。
陽子ちゃんは返事をしない友美のランドセルをポンポン、と叩き、行こうと促す。
時々友美の顔を覗きこんで陽子ちゃんは笑いかけたが、友美は暗い気持ちのまま陽子ちゃんと別れた。
それから毎日陽子ちゃんと帰った。帰り道、通学路を少し逸れて川原へ行くようになる。
「わたしの好きな場所、できたで」
陽子ちゃんは繁みで見つけたダンボールを息を荒くして運びながら言った。
「どこ?」手伝いながら友美は訊く。
「ここや」
きらきら光る水面の上を、群れをなした鳥が横切る。土手を歩く老夫婦が二人を見てにこりと笑う。
川原の土手を登り、てっぺんでダンボールを敷いて、陽子ちゃんの後ろに乗る。くっついて離れないように陽子ちゃんにしがみつく。「せーの」で地面を蹴って土手を滑り降りる。転がり落ちそうになりながら二人を乗せたダンボールは勢いよく滑る。
跳ねるような陽子ちゃんの笑い声と、糸のように細い友美の叫び声が混じりあって高い青空に響く。
「もう一回やろう!」
陽子ちゃんが言って、友美は息を切らして追いかけた。
何度も何度も滑って、意味もなく笑って、へとへとに疲れて帰ると、母に汚れた服を怒られた。けれど友美は怖くなかった。えへへと笑って陽子ちゃんのことを思い出した。
友美が陽子ちゃんと仲良くしているせいで意地悪をしてくる男子が増えた。女子は露骨には出さないがなんとなく距離を取りはじめる。
元々友達の少なかった友美はそれほど気にしていなかった。それよりも毎日陽子ちゃんと帰ることが楽しみでならなかった。
ある日の帰り道、学校を出てなんとなく校庭を眺めながら歩いていた陽子ちゃんと友美の目に、黒くて小さな動く何かが見えた。陽子ちゃんは確かめるために歩道より一段高くなっている校庭のフェンスによじ登る。友美も真似をしてよじ登り、校庭の緑のフェンスにしがみついて目を凝らした。仔猫だ。
「ネコ!」陽子ちゃんが叫ぶように言い、目配せしてからジャンプして降り、フェンス沿いに走った。
タイヤの遊具の横にある木の根元に黒猫がうずくまっているのを確認する。
陽子ちゃんがまたさっきと同じようにフェンスをよじ登ろうとしていたら、校庭にいた校長先生がこちらに歩いてくるのが見えた。
「校長先生や!先生にネコ、助けてもらおう!」
なんとか陽子ちゃんはフェンスによじ登る。かさついた陽子ちゃんの膝が見える。
校長先生がどんどん近づいてくるので友美は迷った。フェンスによじ登っていることを怒られるのではないかと思った。
なかなか登れないふりをしていたら「あ!」と小さく陽子ちゃんが言った。
上を向くと視界のすみに放物線を描いて飛んでいく黒が見えた。
「ほった!ほりよったで!先生が」
陽子ちゃんはすばやくフェンスから降りる。校庭を見た友美の目に、普段は穏やかで優しい校長先生が眉間にシワを寄せ怖い顔で、両手を打ち合わせて汚れを払っている姿が映る。
「なんでや!」
陽子ちゃんは怒っていた。
走り出す陽子ちゃんを追いかけると、歩道から一段下がる車道のすみに仔猫がいた。
「なんでや……」
仔猫は耳から血を出して、目をうっすら開けたまま息絶えていた。
「校長先生が投げたんや、ネコちゃんの首を持って、ぶん、とほり投げた。友美ちゃんも見てたやろ」
友美は投げるところを見てはいなかった。けれど校長先生が手を執拗に払う忌々しい表情は投げたことを確信させた。
「うん」
「先生が殺したんや」
友美は肩で息をしながら陽子ちゃんの顔を見た。
「大人はあかん」
陽子ちゃんが話しだす。
「大人は信用したらあかんで、友美ちゃん。校長先生な、優しい人に見えるやろ、でもあんなんウソやったんや。先生はネコちゃんを殺した」
友美はうなずく。
「そや、お墓作ろう! ほんで、この子埋めてあげよう!」
良い考えだと友美は思った。陽子ちゃんと合わせた視線はそのまま仔猫まで降りた。
「でも……」
血を流す死んだ仔猫を素手で掴むことは怖かった。それに、埋めるとしたら土を掘らなければならない。陽子ちゃんも同じことを思ったのだろう。
「スコップ! あとなんかビニール袋がいるな! 取りに帰ろう。わたし家見てくる! 友美ちゃんも家にスコップないか探してきて!」
「わかった、見てくる!」
友美と陽子ちゃんはうなずき合い、互いの家に向かって走る。
仔猫を助けてあげなくちゃ。あんなところでいるなんて可哀相。友美は使命感にかられ、懸命に力強く走った。
家に着き、息を切らして玄関の扉を開けると母が弟を抱いておかえりと言う。
「お母さん、あのね、ネコがね」
「手を洗いなさい。友美の好きなバームクーヘンがあるから」
「ネコがね、死んじゃったの」
「ええ?」
「あのね、陽子ちゃんとね、見たの。校庭にいたネコを、校長先生が投げたんだよ」
「それで?」
母に抱かれた弟がまだ言葉になっていない声を出す。
「それで死んじゃったんだよ、道路に、血を出してね、死んでたの。ねぇだからお母さん、スコップない? 陽子ちゃんと埋めてくる」
「埋めるってどこへ」
「公園かどこか」
弟がぐすり始めたので母は縦に弟をゆらしながらおしりをパンパンとリズムよく叩く。
「バカなこと言わないでよ、駄目よそんなの」
「なんで!」
「死んだネコなんか、どんなバイ菌持ってるかわからないんだから。それに校長先生のせいで死んだみたいに言ってるけど、違うんじゃない?」
「だって……」見たもん、と言おうとしてやめる。友美は校長先生がネコを投げたところは見ていない。とたんに自信がなくなる。
「校庭で死んでて、それを子供たちが触っちゃうといけないから、それで外に出したんじゃないの?」
母がそう言うと、本当にそれが真実のように思えてくる。
「でも陽子ちゃんが……」
「約束したの?またあとでって、待ち合わせしたの?」
「約束は……してない」
弟は泣き止んで母の顔を小さな手でピタピタと叩く。
「とにかく手を洗っておいで。バームクーヘン、友美と食べようと思って待ってたんだよ」
母に言われ、友美はランドセルを下ろす。陽子ちゃんも、もしかしたら家に着いた頃に気が変わっているかもしれない。家にスコップがなかったから、だから行かなかったんだと明日言えばいいだろう。洗面所で手を洗いながら友美は考え、自分の中で行かないことを正当化させた。何より母がいつになく優しく、大好きなバームクーヘンを一緒に食べる為に待っていてくれたことが嬉しかった。
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