第9話 黒色の軍馬

 少年が褐色肌かしょくはだとがった耳を持つ禿頭とくとうの大男――ボルヴェルグに保護された直後まで時間をさかのぼる。

 物寂ものさびな風景の荒野に吹く風で砂塵さじんっている。

 日は未だ中天に差しかったぐらいで襲撃しゅうげきから時間はさほど経っていない。

 ほんの少しの間だけであったが死を予感させる苛烈かれつな攻撃をけ切った少年は濃密のうみつな時間に感じていた。

 黒豹くろひょうの団体が去って息を着く。緊張きんちょうの糸が途切とぎれて、どっと疲労感ひろうかんが表面に現れたのだろう。少年は全身からあふれる汗をぬぐう力が出ないほど疲弊ひへいし切っていた。

 立ったままひざに手を突き、身体に足りない酸素を求めて呼吸の音が荒くなる。額から溢れ出すあせは熱を冷ますためだけに流れているわけではない。極度きょくどの緊張から解放されて出た精神性発汗せいしんせいはっかんでもあった。

 絶え間なく口から吐く息を抑えるべく、呼吸を整える。大きく息を吸い吐き出した、その最中に少年は吹き出すように空気を一気にらす。口腔こうくう内のモノは唾液だえきぐらいしか持ち合わせていなかったが、もし水でも含んでいたらスプリンクラーのように飛沫しぶき飛散ひさんしていただろう。ゲホゲホとき込み、涙目で顔を強張こわばらせて、その“原因”を見つめる。

 少年を襲った一頭――シトリーが黒豹の姿のまま、走り去った黒豹の団体について行かず少年に向かって静かに歩み寄ってきたのだ。

 少年にとっては喋る黒豹であるだけではなく、襲い掛かってきた天敵に等しい存在だ。それがまさか、正体が綺麗な黒髪を持つ所謂いわゆる獣人タイプの美少女であるとは今は思いもしないだろう。

 思わず少年はその場で拳法の防御態勢に似た構えをとる。反射的に、本能的に――手足の力を抜きつつ、相手の出方に柔軟じゅうなんに対応できるように『ネコ足立ち』の型をとったのだ。むろん、少年は拳法を習った記憶はない。

(当然、服装コスチューム石鹸水せっけんすいをしこんでいるわけでもない)

 黒豹シトリーにとっては遊び感覚だったのかもしれないが、当人にとっては命を狙われた相手だ。露骨ろこつ警戒けいかいしてしまうのはいたし方がないだろう。

 だが黒豹の子はそれを見て特に気分を害さず、むしろ喜ばしいものを見たかのようにしゃべり出した。


「君、やっぱり強いね。じゃあ、また今度会ったら、ね?」


見た目と裏腹に可愛らしい少女の声に少年は思わず絶句ぜっくしていたが、少年の返答を待たずに黒豹は列の後を追いかけて走って行った。少年は構えを解いて、去って行った黒豹の背を見つめつつ、


「二度と会いたくねーや……」


そっと小さくつぶやいた。

 言葉の真意は不明であるが、『次、会ったら再戦しよう』という申し出であると彼女のひとみを見て勘づいた少年は、去る背中を視線で追いかけながら静かに毒づいた。その言葉は誰にも届く事はなかった。


 ――何を見て“強い”と? 攻撃を避けたからかな。でもあんな奇跡、二度と起きないってば……。


次第に離れていく黒い影を見つめながら、大きな嘆息たんそくこぼれた。

 やっと張り詰めていた場の空気がおだやかになり、少年は再度大きく息を吸って吐いては伸びをする。


「あぁ、お前は強い」


「えっ?」


背後でボルヴェルグが剣を地面に突き立て、拾ったさやについた土を払いながら言った言葉に、少年は理解できずに首をかしげる。


「その歳で、獣刃族ベルヴァから無傷で立ち回れるの相当の技量の持ち主だ。ほこって良い」


「え、あぁ、そう…………ですか」


められている事はわかっても、少年は自身の感性と価値観との差異があるためか、うれしいとは思えなくて若干引きつった笑顔で答えるしかなかった。


「本当に、どこか痛むところはないのか?」


「いえ……外傷はないと思いますけど」


自身の上体を捻りながら、怪我がないかを確認する。背中以外をある程度見回したが、切り裂かれた外套がいとうの下も傷はなかった。地面にりむいたと思ったが痛みもなければ出血もしていない。


 ――外傷はない、か……。


ボルヴェルグは顎に手をやって考えふける。実のところ、彼は少年が本当に記憶がないとは思っておらず、マルテから脱走した人間であると考えていた。背中の傷を虐待であると悟った彼は、記憶喪失きおくそうしつは少年が逃げ出すために咄嗟とっさについたうそだろうと判断している。身なりからそこまで遠い場所から訪れたような汚れもない、何より子供がこの荒野に現れる手段がマルテ王国からの脱走以外考えつかなかったのもある。

 本来ならば家元に乗り込んで親をシバくなり、しかるべきところに通報したいところであったが、問題があった。ボルヴェルグは魔人族メイジスであり、マルテ王国が人族ウィリア至上主義の国であるのだ。行けば必ず争いになるのが目に見えている中をわざわざ踏み込み騒ぎだてるのは愚行である。何せ聞いた話によれば他種族はほんの一部しか生きておらず、しかもそれらは全て奴隷である。人族ウィリアの奴隷ならまだ最低限の衣食住は保証されているが、他種族はマルテの国民から酷い仕打ちを受け……そのまま死に至るという悲惨な最期を迎えるらしい。

 ボルヴェルグも一度だけマルテ出身者の人族ウィリアを見たが、悪いうわさ通りで、思想の自由として捨て置くことができないほど他者への偏見へんけんに満ちた言動をする者であったから、話は真実に違いないと確信している。

 ボルヴェルグのなやんでいる表情を恐る恐るのぞき込んでいる少年を見て、

 

 ――他種族への恐れがある……。やはりマルテ出身の……。

 

 頭の中で描いた物語ストーリーが完結した。


『マルテ出身のこの少年は親から虐待を受けていたが、何とか脱走に成功! だが、監視役でもある砂の民に見つかり奴隷容疑で襲撃を受けた! 奴隷ではないがマルテに戻る訳にはいかないから困っているところ、魔人族メイジスの男が現れた! 話し合いで奴隷ではないと判断されたが、それでもそのままではマルテに送り返されるから、あえて背中の傷を見せて虐待をアピール! ……つまり助けを求めていたのだ!』


 と銀の顎髭あごひげを触りながらの男は結論付けた。少年は顔を見て様子をうかがったのは事実である。実際のところ、少年は怖がっていたのは『何故自分を助けてくれたのか』と純粋にボルヴェルグを信用できていないためである。

 それに、騎士として戦場へおもむくことが度々ある男の顔つきは子供からすれば少しいかつくて怖く見えるものだ。


「……移動するか。童、野営やえいの経験は……そうか、記憶がないんだっけか。なら慣れてもらうしかないな」


少年の言葉を待たず、左手で鞘に収まった剣を持ち、歩いて黒豹シトリーに投げつけた革袋を片手で拾い上げた。大男が持つとこじんまりしているように見えるが、旅人用の標準的なサイズの革袋だ。中には生活雑貨や衣服、旅の土産である金属で出来た飾りなどが乱雑に敷き詰められているため重さはそこそこあった。それでも、当たり所が悪かったとはいえ、獣化中の獣刃族ベルヴァが少しの間、ダウンするほどの一撃を繰り出すのは彼の膂力りょりょくがあってこそである。

 革袋のについた土や砂を掴んだ右手を軽くゆすって落とす。耳をすませばパラパラと小さな音と共に地面へ零れ落ちていった。


「ニール、行くぞー」


ボルヴェルグが連れていた馬へ呼びかける。ニールと呼ばれた黒馬は主に応えるようにいななきを上げて近づく。


「え、あぁ? おわ!? でっかい馬ッ!!」


少し離れてた丘の上にいたため分からなかったが、近づいてくる馬の巨体に少年は大いに驚いた。

 軍用馬であるニールはボルヴェルグが乗るのに相応しい大きさを持っていて、更にその黒さもあってか迫力が十二分じゅうにぶんにあった。


 ――黒〇号か何かかな?

 

 某世紀末の覇者が騎乗していた黒〇谷の馬王を彷彿ほうふつとさせる巨躯きょくと体色であるが、それは少年視点であるからそう感じただけであって、の王よりも少し小さく貫禄もおとっている。

 それでも通常の馬よりも大きく、迫力があるのは間違いなかった。

 ただでさえ成長しきっていない子供の目線で見れば怪物に相違ない。しかし主である男はよしよし、と可愛がるように馬を引き寄せた。

 ボルヴェルグは馬具であるくらあぶみの調子を手で触れて確認する。革袋の中にはブラシ、ニールの背に乗せた荷物袋には保革油ほかくゆがあるが、それらはまだ使う必要はなさそうだと判断できた。


「…………人、……食べない?」


「食わん食わん」


ニールに指をさして正直な疑問を口にする少年にボルヴェルグは手を横に振って答える。


 ――マルテでは人食い馬なんて伝承があるのだろうか。


 馬の視界は非常に広いが、真後ろだけ死角となっている。そこに何かの気配を感じると、馬は本能的に“身を守るため”にりを入れてしまうのだ。その威力は大人ですら吹き飛び最悪、死に至るほどだ。牧場を経営し、畜産で生計を立てる家系の子供以外に好奇心で馬に近づかせて良い事は起こりえないのだからそのようないましめはあってもおかしくない。子供を下手に馬に近づけさせないための作られた物語だろうと解釈かいしゃくして、うんうんと納得して頷いていた。

 それでも今から向かう場所は子供に歩かせて進むには少し酷であるから、少年をこの軍馬ニールに乗せて移動しようと思っていたが、すぐに考えを改める。


「そうだった。ニールは気性が荒いからなぁ、……何週間か一緒にいれば乗せてくれるやも――」


一人旅で長らく忘れかけていたがニールは気性が荒く、中々人に懐かない馬であった。さすがに人食い馬とまではいかないが、出会った当時にいきなり突進を受けて倒れたところを踏まれ“もみくちゃ”にされた事を思いだしてボルヴェルグは懐かしむ。言葉を途中までにして馬のニール様子を見ると、ニールが驚くべき行動を取り、少年は当惑していた。


「ほぉ~……珍しいな。本当に珍しい。あのニールがすぐ人に慣れるどころか背中に乗せる許可を出すなんて。……子供相手だからか?」


黒馬のニールが驚き動けなくなった少年の前まで歩み寄り、そっと座り込んだのだ。足をたたみ、子供でも一人で座れるような高さにして黒い水晶のような瞳でジッと見つめて訴えかける、“さぁ、吾輩わがはいに乗れ”と。

 その姿を見て困惑している少年を余所に、馬の主は『そうだったなら、娘たちにも乗せてあげれば良かったなぁ』と若干ばかり後悔していた。ボルヴェルグは戦場でこそ敵が相手ならば悪鬼羅刹あっきらせつの如く振る舞うが、妻子持ちの温情の持ち主である。魔人族メイジスの妻はとても綺麗な銀髪を持った美人で、娘が二人もいる。


「乗れって……?」


返答は帰ってこないが、直視しているニールの瞳が肯定していた気がした少年はそっとその鞍に掴まり馬の背に乗ると、ニールはすぐに立ち上がった。馬上でよろけそうになるも足を預けるあぶみには届かず、鞍に抱き着くようにして掴まって難を逃れたかのように思えた。

 しかし、その直後ニールは少年を乗せたまま走り出したのだ。急な加速で前かがみに倒れ込み、横目で視界が流されていくのが分かった。パニックになりつつ起き上がるが、少年は身体に当たる風に押され後方に仰け反りそうになる。


「うわぁああ、わあああ、わああああああ、わあああああああああああ!!!!」


加速による衝撃、景色の変化による驚き、頭を上げて起き上がると想像以上の高さと速度の恐怖、それでもなお止まらない黒馬の上で悲鳴を上げる。その姿を眺めていた飼い主である男はさほど慌てず、


「そんなに気にいったのか。おーい! あまり無茶はするなよー! ……さてと、忘れ物はないな」


落とし物がないか周囲を見回して確認した後に、小走りで追いかけ始めていた。

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