第6話 黒の英雄

 豹は一般的に獲物を狩るとき、音を殺しながら近づき、高い運動能力を活かした非情に素早い動きで一気に距離を詰めて仕留める。速度ではチーターに劣るが時速六十キロに達すると言われるほどに高く、跳躍力に加えて木々に登る器用さに泳ぎも上手い。高い適応性もあって様々な地域に生息している。自身より体格の大きい獲物を仕留め、その首を咬んで運ぶだけの筋力も有する――まさに陸上において万能な狩人である。その黒変種である黒豹が、“本気”を出したと少年はさとる。それと同時に感情が込み上げる。


 ――今までは、黒豹コイツ遊ばれていたのか。


悔しさか何か少年自身もよく分からないが、

『納得がいかない』という感情で奥歯を噛みしめる。


 黒い凶獣に睨まれて少年は死を予感する。だが、その瞳には諦観ていかんの念は一切ない。お互い睨み合って動かない。――それは数瞬であったが永遠にも感じるほど永く、魂に焼き付くような時間であった。

 汗が、零れる。眉を通り抜け、目に伝わる。一瞬だけ目に入る異物から守るためにまぶたが反射的に閉じてしまう。

 まるで、その瞬間を待っていたとばかりに音を殺しては黒い獣は砂地を駆ける流星となった。標的に向かって牙を剥いて跳躍をした。

 絶体絶命。

 確実な死が眼前まで迫る中、少年は目を逸らさずに思考を巡らせる。

 どうすれば勝てる。否、どうすれば生き残れるかと。

 武器もない。反応が数瞬遅れているため身体を動かしているが避け切れやしない。

 今更前後左右に転がろうとも遅い距離だ。

 豹の強靭な顎の力で咬まれれば絶命は免れない。どう足掻いても徒労に終わる。

 誰だってそう思って疑わない状況であるのに――。


「それがッ!! どうしたぁぁあああッ!!」


少年は叫んだ。

 広大な荒地の上、照りつける陽光の下、駆け抜ける風の中で確かに響いた。

 懸命な、叫びであった。

 タキサイキア現象――死の間際、人は見るもの全てがゆっくりに映るという。脳が生きるために知恵を巡らせようとしているのか、情報が濃密に流れ込むのを少年は感じた。だが、身体はそれについていけないと断じたから少年が選んだ行動は『迎撃』であった。よわい十歳に満たすか分からないほどの成熟しきっていない体躯で、飛び掛かって来る豹へ、愚かにも迎撃を選んだのだ。腰の重心を落とし上体をじり右手を下げる。無謀にも身体に飛び掛かられる直前にその拳を振るおうと考えていたのだろう。誰が見ても勝ち目のなく無意味な抵抗だ。当の本人は大真面目で、相手にする獣も本気で応えた。


 だが、その拳を振るわず終わる。


 何かが、勢いよく飛んできたのだ。


「ふぎゅッ――!?」


その何かに直撃し、少年に襲い掛かろうとした黒豹は右方向へ。少年の視界からロストしていく。

 一瞬何が起きたか理解できず、ゆっくりと右方向を見やると、黒豹が倒れ、大きめの麻袋に潰されるように横たわっているのが少年の瞳が捉えた。

 そして飛んできた左方向へと顔ごと向ける。後方にいた残りの黒豹たちも視線を少年から外し、左方にある丘を見つめだしていた。

 そこには一人の男が立っていた。

 少年より遥かに体つきがよい大男だ。褐色かっしょくはだに白銀の眉に顎髭あごひげたずさえた禿頭とくとうの旅人のように見えた。風に外套が揺れ動くが頭の上は動かない。よく見れば耳も尖っている。

 右目の右側に禿げた頭から首にかけて紋様が浮かんでいる。羽のようにも月のようにも見える。入れずみか何かの紋章だろうが、それの正体は少年には分からない。

 そんな男の傍らに馬が一頭立っていた。雄々しく佇む黒色の毛並みを持つそれは、黒豹の存在に怯えている様子もない。馬自身が、乗り手である禿頭の男の方がより恐ろしい生き物であると認識しているのかもしれない。

 

「よく無事だったな。わらしよ」


低く力強い声で禿頭の男が歩き出す。


貴殿きでんらは、獣刃族ベルヴァ――シーの民とお見受けする。何故なにゆえそこの人族ウィリア童子どうじを襲う?」


『べるば』と『うぃりあ』という聞きなれない言葉に少年が顔をしかめていたが、その直後に禿頭の男は少年へ向けて言葉を放っていなかった事を知る。


「貴様、魔人族メイジスの者か。フン、我らは我らの職務ゆえにだ」


一頭の黒豹、一番大きい個体が流暢りゅうちょうに言葉を発していたのだ。まるで人間のように鼻を鳴らして襲撃を職務と言い切った。目の前の光景が信じられないと少年は驚愕の表情のまま固まってしまうが、男と獣の会話は続いた。お互いどっしりとした体格で声も低く、まるでヤクザ同士の対面のようであるが、絵面と内容だけはファンタジーの世界そのものであった。


「貴様こそ何故こんなところにいる?」


「私は旅でたまたまだ。あと少しで故郷に帰るが」


丘をゆっくりと降りて進む褐色肌の男。いつの間にか他の黒豹も一番大きい先頭の個体――親方ボス、あるいは族長オサたる獣の後ろに集まっていた。一頭だけ麻袋の下敷きになった個体の元へ近づき、吹き飛ばされた仲間を案じているようだ。合計六頭、大抵の人間には身体の大きさ以外の差が分からないだろう。

 だが声には明確な差があったようで、後ろについた部下のような一頭が若々しい男の声で言う。


「そのハゲ頭に紋章は……! まさかッ!」


動揺する若者声の黒豹を、禿頭の男が腰に下げた鞘から剣を抜き放ちすごむ。

 黒色の鞘から抜かれた剣。それ自体は特に変わった装飾もない。ただ柄頭に五百円玉より一回りほど大きいくらいの紅い球体が煌いている。白銀の刀身が陽光が反射し、眩しくて少年は目を細める。刃渡りは片手で持つにはやや長めで八十センチは超えているが、大柄の男にはちょうどいいのサイズのようだ。


「おいケモノ畜生ちくしょう。今、何て言った?」


発した言葉と男が纏う雰囲気から、言いようのない重圧が生じる。褐色肌の男は落ち着いたようすから一変、激昂げきこうしていた。

 凶獣が一頭、追加されたのだ。――いや、禿頭の男に切先を向けられた獣やその周りの獣が、まるで子猫のように弱々しく映った。


「バ、馬鹿! 今の発言取り消せ! 毛根全部引き抜かれるぞ……!! あの剣で綺麗に首をねてから丁寧に移植し始めるに違いない……!!」


「そこまで酷い事しねえよ。お前も実は馬鹿にしてんだろ」


禿頭の男の特徴を言った一頭に、隣にいたもう一頭が低い女声で非難した。逆効果に見えるその発言が意外にも剣を手にした獣の毒気を抜いた。

 男は小さく溜め息を吐く。

 育毛のプロもドン引き必至ひっし増毛計画プロジェクトを口にされたが当人はそのはさらさらない。ただ彼が『つややかな髪を持っているだけで粋がっている若者にきゅうえよう』とは思っていたのは事実であったが。

 震える若者声の獣は、眼前に映る剣を持った獣の名を口にする。


「ッ――!! 魔人族メイジスの英雄……ボルヴェルグ・グレンデル……!」


「あぁ、英雄ってのは少しばかり気恥ずかしいが。そう俺がボルヴェルグ」


左手から持っていた鞘を捨てるように落としては失言を発した豹に向かって指をさしながら威圧する。落ちた重々しい漆黒の鞘は砂地の上でゆっくりと滑っていたが、すぐに止まる。


「そこを、動くな」


ボルヴェルグと呼ばれた褐色肌のの男性は砂丘を降り立ち平坦の砂上に足を突いては、ゆっくりと目標である豹に向かって歩き始める。すると獣たちは見るからに動揺を強めていたが、誰一人とも退こうとしない。理由は先頭に立つ族長オサたる者が悠然と立ったままだからだ。


「待て。つまらんことで一族が減らされてはたまらん」


砂の民の族長オサがそう言うと、ボルヴェルグはまるで何か試すような含みをもった声音で返す。


「ほう? 人の毛根事情をつまらない、と? 言ってくれるな獣の大将。ならばどうする。我が剣は既に抜かれた。血を吸うまで止まりはしないぞ」


刀身以外が漆黒の剣を今度は族長オサに向けた。一触即発の空気の中で会話は続く。


「落ち着け魔人族メイジスの英雄。我らは死ぬわけにはいかん。失言に対しては謝ろう。――だが契約により奴隷の捕縛をせねばならぬ」


「奴隷……。ここいらでは……マルテ王国の連中か」


「左様」


なるほどな、と納得をしたような表情をするボルヴェルグ。しかし抜け目なく切先は相手を捉えたままだ。油断をすれば飛び掛かって来る可能性は充分あるからだ。何せここは彼らの狩場であり、“なわばり”なのだ。部外者である敵を排除しようと行動をとって当たり前だ、と考えた方が『事』が起きても対応しやすい。首を極力動かさず、前を見据みすえたまま視線だけ少年の方へと向けて言葉を投げ掛けた。


「そこの童。お前はマルテから脱走した奴隷なのか?」


しばらく呆けていた少年であったが、ボルヴェルグの言葉により、当事者であることを思い出したかのように『あっ』と間の抜けた声を上げてから、


「――ッ、違う、俺は、俺は奴隷なんかじゃない!」


必死に真実を叫ぶ。褐色肌の男は静かに正面を改めて見据えた。

 目で「あぁ言ってますけど」と襲撃者たちに訴えかけた。

 少年の返答を受け、族長は淡々と呟く。


「それを確かめるための襲撃でもある。例え相手が幼子とて、――手荒であっても手を抜けば死ぬ。本気で行かなければ命はないとは我ら……否、獣刃族ベルヴァ共通の掟だ」


 少年は激昂する。

 何だか分からないが彼らのルールや加減によって命の危機に瀕したのだ。


「ふざけんな! そんなんで殺されかけてたまるか!」


少年は自身が奴隷であった記憶はない。それどころか、今この状況が何なのか理解できていない。しかし、彼らが意図的に少年を狙ってきて、命の危機に瀕したのは間違いないのだ。歳と不相応にはっきりとした口調ではあるが高い声の調子に違和感を覚え、少年は少し嫌な顔をした。


「わざわざ襲撃などせず、訊けばよかったのでは……?」


「逃げた奴隷が自身が奴隷であると正直に申すと思うてか」


「あー……確かに」


「それでも、俺は奴隷じゃない!」


ボルヴェルグの問いに何を馬鹿なという口ぶりで応える族長。納得していたボルヴェルグに少年は吠える。だが、少年にはそれを証明する手立ては思いつかない。服のどこかに何かないかと上から軽く叩いて捜索したが何も見つからない。

 いよいよどうすべきかと焦った時、


「たしかマルテの奴隷は焼き印を押されるはずだ。それを確かめるべく?」


問いに族長は無言で首を縦に振った。


「……俺にはそんな焼き印なんて、ない!」


少年は颯爽と自身の身に纏っていた外套を右手で脱ぎ捨てた。

 上半身裸となり、前も背も見せた。

 そこには奴隷の焼き印らしき物は何もなかった。星形の痣はない。だが――。

 沈黙が数十秒ばかり続いた。少年は彼らの反応がない事から、自身の身体に焼き印がないのだと確信する。どうだ、と得意げに言っている中、空気がどよめき始める。一体、何事かまさか本当に焼き印があるのだろうかと不安感が湧き出ている中、大人たちは静かに言葉を交わした。


「…………焼き印の位置は決まって――」


「いない。基本的に見える位置だが、相手を辱める位置に押される場合もある。悪趣味よな。――そんな奴らと契約をしてしまった我らも我らであるが……」


納得したように二度頷いたボルヴェルグは少年に言う。


「そういう訳だ。童、脱げ」


「えっ」


突如、褐色肌で筋肉質の大男に、脱げとジリジリと距離を詰められは少年は頓狂とんきょうな声を出す。

 剣を持ったままではあるがボルヴェルグは視線を少年に向けて歩き出していた。

 族長はその背中を追って歩く。

 つけ入る隙は微塵もなくて思わず感嘆の息が零れた。


「若き人族ウィリアよ。潔癖を晴らすためだ」


見知らぬガタイのいい男に迫られる恐ろしさ。身長差から、湧きだす恐怖は尋常じゃないものとなっていた。先ほどまで相対していた黒豹とは別のベクトルの恐さであり、何より羞恥しゅうちが大きい。


「えっ。……待って、そんな、こんなところで全裸って日に焼けるとかじゃなくて、まずいよ!? 待って、ちょ、あ、あああああ――――――」


――少年の願いは虚しく叶わず、文字通りその身を白日の下にさらされた。

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