誰もが知る、誰も知らない物語
あきのななぐさ
プロローグ
第1話そして、その物語は幕を閉じた。
その女が見せた表情を、僕はこれから一生忘れることは無いだろう。
白く透きとおるような肌は、この世のものとは思えない程美しい。
たしかに、今までもそう感じることはあった。しかし、それを今と比べられるものじゃない。終わりを見せるものほど、その存在が儚く映る。
流れるような黒髪が、窓から吹く風によってなびいている。
いつの間に、その扉は開いたのだろう?
その髪の間から見える女の表情が、そんな疑問を脇に置き、僕の心を強く締め付けていた。
とても悲しげな瞳。その悲しみは、何に向けられているのだろうか?
とても愛おしげな瞳。それは間違いなく、あの男に向けられている。
そして覚悟の瞳。それは間違いなく、この日が来ることを知っていたというものだった。
めまぐるしく、その女の瞳は揺れていた。
こんな顔を見るつもりはなかった。こんな表情を見せるとは考えていなかった。
後悔の念が、激しく僕を攻め立てる。
――でも、これが僕の選択した結果だ。
男は信じられないという顔で女を見ている。届かぬ両手を、必死に女に向けて伸ばしていた。
男の口は動いているが、その気持ちは言葉としては伝わっていなかった。
それは凍てつく寒さによるものなのか、男の時が止まったためなのか、それは誰にもわからないだろう。
ひょっとすると、自らの行為を悔いていて、男は言葉を失ってしまったのかもしれない。
――もしそうならば、遅かった。
ただ、すでに男と女の間には、たとえ言葉が出たとしても、埋まらない溝が出来ている。
男もそれを悟ったのか、いつしか伸ばした手と同様に、視線を床に落としていた。
今となっては後悔だけが男のすべてなのだろう。変化した女は、姿は変わってしまっても、まぎれもなく男の愛した女なのだから。
それは今まで、何度も、何度も、何度も、男が自分の中で、繰り返し否定し続けていたものだったに違いない。
――幸せが、男の気持ちを緩ませていたのだろう。
それもそうだ。
僕は知っているから、冷静に見守る事が出来ていた。
でも、知らなかったら……。
こんな幸せな時間が終わることを考えるだろうか?
男と女があったのは、あの晩のことだ。それも、男にとっては死につながる女だ。そんな女と夫婦になり、こんなにも子供が生まれるとは、夢にも思わなかったはずだ。
でも、これは男にとって現実だ。
男は受け入れなくてはいけない。自分で選択した結果を。
女はあきらめなくてはいけない。自分の愛した男が選択した結果を。
『本当にそう思うか?』
内なる声が僕にそう問いかけてくる。それはもう一人の僕の問いかけ。封印したはずの僕の感情。
確かに、僕はそれをひっくり返すこともできたはずだった。
たった一つだけだけど、状況をひっくり返すことのできる方法を持って、僕はここに来ている。
――そう、男が声を失えばよかったんだ……。
そうすれば、男の言葉は伝わらない。女もそれを聞くことは無い。
たとえ思ったとしても、伝わらなくては意味がないことは、これまでの年月が証明している。
男は同時に自分の意志を伝えられなくなる。
女も男の声を聞くことはできなくなる。
でも、少なくともそうすれば、こんな結末は生まれなかっただろう。
――でも、僕はそれを選ばなかった。
確かに、そうすればこの瞬間は回避できたかもしれない。でも、本当にそれでこの二人は幸せになる事が出来るのだろうか?
男と女はすんでいる世界が違い過ぎた。
今、二人を裂いたものは、間違いなく男の言葉だろう。だが、何かが二人をいずれ分かつ。
この選択はおそらくベスト。女も男の言葉が原因だから、諦めもついたはずだろう。
今は、お互いに愛し合っているのだから。
でも、時が二人を裂いたならどうなる?
老いていく自分と、老いていかない女を前にして、男は何を思うだろうか?
やがて死すべき定めの男を見ながら、女はどう接していくのだろうか?
僕自身、愛と憎しみは表裏一体だと思っている。
それに、僕は永遠に続く幸せなんて信じない。
死すべき人にとって、老いというものは避けられない。
なぜ、自分を選んだのかと、男は恨みに思うかもしれない。
そんな男を見ることを、違う悲しみで女は見るかもしれない。
時間の流れは変化を招き、老いというものは劣化を招く。
この二人が幸せに感じている時間だけが、永遠に続く事なんてありえない。
だから、僕は手を出さなかった。
でも、それは本当にそうなのかというと自信はない。『出さなかった』のではなく、『出せなかった』のかもしれない。
色んな物語を知っているとはいえ、僕はまだ自分の時を十六年しか生きていない。いや、それは単なる数字の事。本当に生きていると言えるのはどの程度なのだろう……。
「吾作、私はお前を殺せない。どうか、この子たちのことを頼みます」
消えるように去っていった女の言葉は、いつまでもこの耳に残っている。
『Yukionna sequence, termination processing』
まるでそれを打ち消すかのように、頭の中に無機質な声が響き渡る。
――ああ、もう終わりか。
そう思った瞬間、何かに引っ張られるような感覚が襲ってくる。
何度体験しても、この瞬間だけは気持ちが悪い。
しかし、それも一瞬の事。
次の瞬間には、それまで見ていた景色とは、全く違うものが目の前に広がっていた。
*
低く、くぐもった様な機械音が、これまで働いていたことを誇示するかのように、僕の耳に届いている。実際に感じているこの機械音は、確かにここにいると感じさせてくれる音だろう。
体を預けているソファーのような椅子は、心地良いはずなんだけど、この瞬間だけは、とても違和感を覚えてしまう。
――帰ってきた。
この音と体の感覚が、僕の体に戻ってきたことを思い出させてくれている。
ずっと緊張していたことを告げるように、僕は小さく息を吐いていた。
目の前のモニターには経過時間が表示されている。時間にしておよそ一時間半。平均的な体験時間として、ほぼ問題はないだろう。
いつもながら思うのだが、この瞬間は必ずため息が出ている。
それは終わった安堵なのか、帰ってきた安堵なのかはわからない。
ただ、いつも通りの行動は、僕の中で安心感となっていた。
しかし、それもつかの間。少しずつ、色々な考えに押しつぶされていく。
そして、システムが許可しない限り、この閉鎖された場所からは出ることもできない。
僕の行動を、この機械が査定し終わるまでは、この閉ざされた空間に捕らえられたままだった。
ただ、それは僕にとっては苦痛ではなかった。
この機械とは別に、今のこの時間は、僕自身を振り返ることにしているのだから……。
――そうだ。僕の答えは、間違ってはいない。
もの悲しくても、雪女の物語は、幸せのまま別れる方がいいに決まっている。その先が見えているのだから、それを回避する方がいい。
そう思っている僕の目の前に、見慣れた文字が浮かび上がってきた。
『早急に、職員室に来るように』
それもまた、僕にとっては見慣れたもの。だけど、これを回避する方法を、僕はまだ見つける事が出来ずにいる。
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