第26話 朱と赤と真名

 綺麗な赤。

 柘榴の実、みたいな。



 ぼんやりとそんなことを思っていれば、ふと指差にひやりとしたナニカが触れる。


「あ」


 言葉とともに、自分が何に触っていたのかを理解し、慌てて手を引く。

 けれど、その手はそこを離れることなく。


  ー「っちゃん」

  ー「真備まきび様」

  ー「  !」「  !」


 自分を呼ぶ声と、そう呼ぶ自分の声。

 優しい。

 懐かしい。

 温かい。

 その名は、誰の名か。


「真備様?」

「あ……ごめ、ん」


 誰よりも、よく知っていたはずなのに。

 俺が、一番、知っていたはずなのに。


 いつの間にか、言葉に、声にしていなかった自分に。

 音に出せなくなっていた自分に。

 記憶の奥底にしまいこんでいた自分に。


 何故だか、無性に泣きたくなった。



ぬえ


 白澤はくたくが、鵺の名前を呼ぶ。

 白澤の、俺の腕を掴む手に、わずかに力がこもる。


「ええ」


 そう短く鵺が応えたあと、白澤の気配に包まれた。



「もう目を開けても大丈夫ですよ、真備様」


 その声にゆっくりと目を開ける。


 ゴツゴツとした大きな岩。

 岩と岩の合間に見える鮮やかな緑。

 それから、聞こえてくる水の音。



「…………ここ」


 見覚えがある。

 来たことが、ある。


「おや、その様子だと覚えていたようですね、坊っちゃん」

「……鵺」


 トンッ、と音もなく現れた鵺の声に名前を呟けば、鵺はふふ、と笑う。


「皆さまは何と?」

「気にしなくても大丈夫でしょう。ちょっと行ってくると言ったら、ああ、そう、って言ってましたし」

「では、あとでお菓子を追加で持っていきましょう」


 そう言ったあと、白澤が俺の顔を見やる。


「真備様、少し歩きませんか?」

「え……うん……」


 ゆるく握られていた手にひかれるように、一歩、足を踏み出す。


 さく、さく、と歩くたびに聞こえるのは、いつの間にか足元いっぱいに広がる緑の芝生。


 ゆらゆらと、白澤のクリーム色の服の裾が揺れる。


 ひらひらと、鵺の薄紫の着物の裾が揺れる。


「……ここ、さ」


 我ながらに、とても小さな声だったと思う。


「……小さい頃、何回か来たことあるよね」


 何故だか少し、声が掠れる。


「ええ。何度か来てますね」

「ここは、わたしと鵺がつくった場所ですよ」

「……つくった……?」

「そう。文字通り造った場所。坊っちゃんのために」


 そう言った鵺の手が、俺の背中に触れる。


「今なら、分かるのではないですか? 我があるじ殿」


 鵺の声が、その言葉が、何故だかほんの少しだけ怖い。

 ほんの少しだけ、痛い。

 けれど、それよりもなによりも。


「……ごめん、ごめん、ふたりともっ」


 バッ、と見上げたふたりの顔に、視界が滲んでいく。

 朱色と、赤色。


 綺麗で、俺の一番好きな、色。


「真備様」

「坊っちゃん」


 ボロボロと、落ちてくる水滴は止まる気配がない。


 拭っても拭っても、とめどなく出てくるそれを、止めたいのに。

 ふたりに声をかけたいのに。

 言いたい言葉が、あるのに。


「ごめ、ん」


 口をついて出てくるのは、謝罪の言葉ばかりで。


 ごめん。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


 そればかりを口にしている俺に、「坊っちゃんは相変わらずですねぇ」と、いつもと同じ鵺の声が聞こえる。


「大丈夫です、真備様。分かっていましたから」

「そうですよ。ほら、ゆっくり息をすって」


 ぽん、ぽん、とあやすように背を叩く鵺の片手と、俺を見て柔らかく笑う白澤の顔。


「大丈夫。大丈夫です。真備様」



 ー 「大丈夫。いつか、必ず思い出してくださると」

 


「信じていましたから」


 にこりと笑って、俺の顔を見た白澤の笑顔は、記憶にあるものと、何ら変わらない。



「っ、待たせてごめん。ずっと、ずっと、ごめん」


 ぼろ、とまた落ちたソレを、鵺の指先がひろう。


「坊っちゃん。聞きたいのは、それじゃないですよ」


 くす、と笑いながら俺を見た鵺に、うん、と小さく呟いて、息をすう。


 いつまで経っても、ふたりを見上げることに、変わりはないけれど。


 俺の背も伸びて、あの頃とは違う。

 けど、あの頃から、変わらない。


 ぬえと、白澤はくたく

 ふたりの、大事な、大切な。


馨結きゆう滉伽こうが


 ふたりの名を、真名を、口に出した瞬間。


 ぶわっ、と青白い光が視界を奪う。


 木蓮の花の香りがする。

 澄んだ空気が広がる。

 お日様の匂いがする。

 繋がれた手と、背中が温かい。


 そう思うのと同時に、鵺と白澤、ふたりの身体が淡く光る。


「おお、久しぶりの感覚ですねぇ」

「ええ。今なら本気でやり合っても互角ですね、鵺」


 にぎにぎと自分の片手を握っては開き、開いては握り、と繰り返す馨結きゆうに、滉伽こうがが好戦的な瞳を向ける。


 そんなふたりのやりとりに、「え、そこなの?」と思わず呟けば、ふたりは顔を見合わせたあと、笑う。


「なんです? 怒られるとでも思っていたんです?」

「いや……怒られるというか……幻滅される……というか……」


 呆れられるというか。


 契約、なんて。

 知っている、なんて、言っておきながら。


 自分が、いちばん大切なふたりの真名を、忘れていたという事実に、胸の奥が痛い。


 俺が痛がっていいわけがないのに。

 忘れていた俺が、そんなことを思っていいはずが。


 ないのに。


「いいんですよ、あるじ

「……滉伽?」

「貴方が、わたしたちの名を忘れていたのは、そうせざるを得なかったからですから」


 きゅ、と俺の手を握りながら、滉伽が口を開く。


「……それ、どういう」

「主の、真備まきび様の本来の力を、封じている、ということです」

「本来の力?」


 滉伽こうがの言葉に、首を傾げれば、「さっきも言ったでしょう?」と馨結きゆうの声が聞こえる。


っちゃんは本当はもっと力があるんですよ、って」

「え、あれ、って……そういうこと?」

「そういうことです」


 ごしごし、と服の裾で俺の頬を拭いながら、馨結は続ける。


「大きすぎる力は、小さい貴方には負担にしかならない。それであれば、封じてしまおう、と、坊っちゃんの幼い頃に、十二代目とそれと話し合って決めたんですよ」

「……じいちゃんと……」

「ええ」


 馨結の言葉に、滉伽を見やれば、微笑んだまま首を縦に振っている。


「でも、それならどうして今になって……それに、ふたりとも、ずっと辛かったんじゃないの?」


 本当の力も出せないまま、不自由だったのではないのか。

 もどかしい思いをしていたんじゃないのか。



 初月ういづきを、真名まなで呼んだ俺を、どんな気持ちで。

 そんな考えが、ぐるぐると頭の中を飛び回っていく。


「主」

「な、に」

「大丈夫です。確かに初月の時、ほんの少しだけ、もどかしくもなりましたが……それでも、主の一番は、わたしたちでしたから」

「正確に云うと、私が先でしたけどね。坊っちゃんは先に私の名を呼びましたし」

「それで言ったらふたり同時だと、何回いえばあなたは理解するんですか?!」

「こればっかりは譲りません」

「それはわたしだって!!」


 何故だか急にいがみ合い始めたふたりに、「ちょ、落ち着いてよ!!」と慌てて声をかける。


「坊っちゃん、どっちが一番です? 私でしょう?」

「主、わたしですよね?」


 ずい、と顔を覗き込んでくるふたりに、驚いて瞬きを繰り返す。


こうは黙ってなさい」

馨結きゆう、あなたこそ!!」


 きゃんぎゃん、と間に俺を挟んだままで、言い合うふたりに、ふいに、なんでだか笑いがこみあげてきて。


「ふっ、ふふ、あははっ、ちょ、やめ、止めよう、ふたりとも、あっ、ははは」


 お腹に手を回そうとしたけど、片手は滉伽こうがに握られていて、頬には馨結の手があって。


 動くに動けない状況が、さらに面白く感じてしまう。


「やっば、動けないじゃん、っあっはははっ、ふっ、はは」


 あはははは、と笑い続ける俺に、馨結と滉伽はぽかんとした表情を浮かべたあと、ふたりもまた、顔を見合わせて笑った。








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