一枚小説

青葉 千歳

言葉の熱

 世間は冷たい。ついでに僕も冷たい。倒れている人を見ても、誰も手を差し伸べないなんて。この冬の寒空と雪よりも、よっぽど冷たい。


 倒れていると言うと少し語弊があるがなんてことはない、単純に滑って転んでしまった人がいるというだけだ。日常風景と言えばその通りだが、その日常から目を背けている人しかいないというのは悲しい話だ。かく言う僕も。今日も僕のすぐそばで女の子が転んでいた。高校生くらいの子だった。できることなら手を差し伸べてあげたかったが、如何せん勇気が出ない。僕以外にもそれを目撃していた人はいたが、僕と同じで勇気が出ないのか、そもそも無関心なのか、速度を緩めずに立ち去るばかりだ。その反応がある意味正しいと言えば、果たして日本人らしいと擁護してもらえるだろうか。だが確かに僕が転んだ当事者なら、見て見ぬ振りをしてくれたほうが嬉しいかもしれない。下手に声をかけられると余計に恥ずかしい。だから僕は、これも優しさだと言い訳しながら今日も見て見ぬ振りをするのだった。


 ある日、本当に僕が転んだ当事者になってしまった。しかも沢山の人がいる大きな通りで。今まで転ばないように気をつけてきたつもりだったのだが、ほんのちょっと気を抜いたのが命取りだった。おかげでいい笑い者で、色んな人がこっちを見てクスクスと笑っている。あまりの恥ずかしさにすぐさま立ち上がろうとしたのだが、腰に痛みを感じて立ち上がれなかった。おかげで僕はしばしの間、地面に座り込む羽目になってしまう。「なんて最悪な一日の始まりだ」と僕が思ったそのとき。


 「大丈夫ですか?」


 と、一人の女性が声をかけてきた。そして、倒れている無様な僕に手を差し伸べた。この間見た子と同じ、高校生くらいの女の子だった。僕は少しだけ戸惑いながらも、痛みに耐えながらその手を取って立ち上がった。「ありがとう」と僕がお礼を言うとその女の子は「いいえ、今日はいっそう滑りやすいですから、お互い気をつけましょうね。それでは」と言って歩き去っていった。後には僕と、歩き去っていく他人だけが残っていた。


 恥ずかしかった。だけどそれは、人前で転んだ恥ずかしさではなかった。むしろ彼女に声をかけてもらえたことで、その恥ずかしさはなくなっていた。その代わりに、彼女のように「大丈夫ですか」の一言さえ言えないでいた自分が恥ずかしくなった。彼女は僕よりもずっと年下だったけれど、僕よりもずっと大人だった。自分がただ歳を重ねただけの子供であると気付いたとき、その恥ずかしさで押し潰されそうになった。


 その日の帰り道、暗がりの中にまた、滑って転んだ女の子がいた。痛みに声を漏らすその姿を見て、僕はほんの少しだけ迷ってその姿に近付いた。そして、手を差し伸べる。


 「大丈夫ですか?」


 そう言うと女の子は今朝の僕と同じ、少しだけ戸惑った表情をした。だけどすぐに笑顔になり、僕の手をとって、


 「ありがとうございます」


 と言った。不思議なことにその言葉を聞いて、僕のほうが救われた気がした。

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