5-⑥:堕ちる。

「おい、セシル、ど~した?お~いセシルさ~ん?」

 急に立ち止まってぼけっと虚空を見始めたセシルを、カイゼルは肩をつかんで揺らすが何の反応もない。

「お前、どうした?」

 カイゼルは面白がってセシルの目の前で手のひらを振る。しかしセシルは止めない。


 それでも、カイゼルは「はは~ん」とにやけた。昔、おチビのセシルが急にこうやってどこか一点を見つめ、その後我に返った風で指を差して『幽霊があそこに!』とかなんとか言ってカイゼルを怖がらせた(内緒だがちびらせた)ことが多々あった。急に思い立ったのだろう、それをされるのは久しぶりだ。だが、馬鹿だなあ、さすがにこの年になったら俺でも引っかからないぞ。


 が、


「…!」

 セシルはびくんと体を震わせてよろけた。




―やめろ


「おいっセシル?!」

 倒れそうになったセシルを、カイゼルは慌てて支える。しかし、セシルは何かを恐れるような目を、何もない虚空に向けている。



「…りあん…」


―やめろ、やめてくれ


 セシルの意識は、この後くるだろう事態から本能的に逃れようとした。だが、残っていた足場が溶けたかのように消えた。どぶんと深い水に落ちる。沈んでいく。


―オレはオレだ。お前とは違う


 誰だか知らない

 だけど知っている

 そして、その『お前』は道連れとするためにオレを求め、底へと引きずりおろそうとしていることも、本能的に知っている



「お前しっかりしろ!!」

 尋常ではない様子に、カイゼルはべしっとセシルの頬を叩いた。しかし、セシルは目が回ったときのように、うつろな目を不規則に揺らすばかりで、返事がない。



「オレは、オレは」

 引っ張られる。暗い、真っ黒な水の中を。いや、水ではない。冷たくて暗い流動性のある物質の中、底に先に落ちているはずの『お前』に向かって落ちていく、沈んでいく。


 息ができない。セシルの意識が途切れ始める。駄目だこのままでは。しかし、もうどうすることもできない。ただ、己の意識が消えようとする間際、苦し紛れに叫ぶ―それが最早何の意味もなさないことはわかっていたが。


―オマエトイッショニナルノハイヤダ―――――!!


ガギ―――ン


 頭の中に直に響いてくるかのような、いやセシルの頭の中で鳴った甲高い金属音。

 セシルは、はっと消えかけていた意識を浮上させた。


―そうやって、いつまでこの子におるつもりなんじゃ?


 誰かを責め諭すような声。この声をどこかで聞いた気がするが、思い出せない。

「助かった、のか?」

 次の瞬間、ぐわっと何かにすくいあげられた感覚がセシルを襲う。




「あれ…オレは」

 夢からさめたような心地に、セシルはあたりを見回した。そこが道の真ん中であることに気づくと、やっと自分が買い物の帰りである事実を思い出す。目の前にはなぜか冷や汗をかいた、必死なカイゼルの形相。


「…?」

 カイゼルはひとまず気の付いたセシルを立たせると、ふうと息をついて自分のおでこを撫でた。

「お前まだ体調戻ってなかったんだな…すまん」

「へ…?」

 カイゼルの話についていけず、セシルは小さく首をかしげた。だが、カイゼルは構わず、セシルをひょいと肩に担ぎ上げる。

 いつもなら「何すんだ恥ずかしい」と暴れるところだが、セシルはそれどころではない。


―オレはさっき何を見ていた…?

 分からない。見ていたはずなのに何も覚えていない。

 だけど、何かから逃げおおせたようなほっとする心地と、何故か虚しい心地だけが残っていた。

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