第11話 脱水状態(遅すぎる自覚)

 その後もクリストファーは時間が出来ると伊織にいろんな話をした。日常生活の些細なことから海外での驚きの体験など話題はいくらでもあった。そして、伊織はそのどんな話でも楽しそうに、時々どこか羨ましそうに聞いていた。


そんな生活をしている中でクリストファーは気がつくと伊織の姿を探すことが多くなっていた。

 始めは気がつかなかったが、伊織の外見はあどけなさが残っているものの、立ち振る舞いは凛としており、所作の一つ一つは洗礼されていて美しい。それに加えて黒く艶やかな長い髪に、憂いをおびた黒い瞳が印象深い。そして、そこまで完璧なのに、会話をしている時に楽しそうに笑う笑顔が愛らしいのだ。


 クリストファーは縁側に座って中庭を眺めながら軽くため息を吐いた。


「我ながら、どうしたものか」


 そんなクリストファーの姿を見てアクセリナが笑う。


「どうしたの?ため息なんか吐いて。まるで恋する乙女みたいよ」


「乙女ではない」


「あら、恋は否定しないの?」


「その感情は分からない」


「……恋をしたことがないの!?」


 唖然とするアクセリナにクリストファーが拗ねたように頬杖をついて顔を反らす。


「そんなものが出来るような女性に出会ったことがなかったんだ。全員、私ではなくシェアード家狙いだったからな」


「そう思い込んでいたんじゃないの?」


「ちゃんと裏はとってある」


 アクセリナは呆れたように肩をすくめた。


「まったく。人の裏を調べるなんて、どんな青春時代を過ごしていたのやら」


「自分の身を守るためには当然のことだ」


「そんな目で見ていたんじゃ、出来る恋愛も出来なくなるわよ」


「それは人生で必ずしも必要なことではない」


「潤いがないわね。今からそんなのだと、すぐに干からびるわよ」


「潤いを知らなければ、自分が干からびていることに気づくこともない」


「それって脱水状態になっていても、気づかないってことでしょ?」


 クリストファーは顔を上げてアクセリナを見た。


「何が言いたい?」


「自分が脱水状態だったと気がついたときの反動が怖そうってこと」


「どういうことだ?」


 アクセリナが意味ありげに微笑む。


「その時になれば分かるわ。で、綺羅も動けるようになったし、そろそろここを出ようと思うのだけど、いつにする?」


「……そうか……」


 この生活に慣れきっていたが自分たちは動けないから、ここに滞在していた。動けるようになれば滞在する理由もなくなる。本当なら、とっくに米国に帰国している頃でもある。


 クリストファーは自分がそのことを忘れていたことに驚きながらも頷いた。


「そうだな。私はいつでも良いが……綺羅はいつ頃が良いとか、言っていたかい?」


「私も綺羅もいつでもいいわよ。ただ人里まで距離があるみたいだから出発は早朝が良いわ」


「そうか。考えておく」


「じゃあ、任せるわね」


 そう言ってアクセリナが立ち去る。クリストファーが空を見上げると、そこには大きな重い雲があった。


『夕立が降りそうですね』


 中庭を歩いてきた伊織がクリストファーと同じように空を見上げている。クリストファーは初めて聞く言葉に首を傾げた。


『夕立?』


『夏の午後に降る激しい雨のことです。大抵はすぐに止みます』


『スコールみたいなものか』


『スコール?』


『突然、降りだして少ししたら止む大雨のことだよ。ここよりずっと南の国で降る』


『そうなのですか。他の国でも同じような天気があるのですね』


 そう言って伊織は微笑んだのだが、クリストファーの方を向くと心配そうに近づいてきた。


『どこかお加減が悪いのですか?苦しそうですよ』


 クリストファーは悩んでいることを見透かされたようで伊織から視線を逸らした。


『少し考え事をしていただけだよ』


『私ではお力になれませんか?』


 その言葉に驚いてクリストファーが視線を戻すと目の前まで伊織が来ていた。


『お話をするだけでも心が軽くなることがあります』


 心配そうな表情で大きな黒い瞳を揺らす伊織にクリストファーは無意識のうちに手を伸ばしていた。


『君は…………』


 そこで手を伸ばしていることに気が付いたクリストファーは手を止めて握りこぶしを作ると素早く立ち上がった。


『少し散歩してくる』


『ですが、雨が……』


 伊織の制止も聞かずにクリストファーは一人で歩き出した。



 クリストファーが少し歩くと雨が降ってきた。それまで高い湿度で蒸し暑かった空気が一気に冷まされていく。


 天然のシャワーを頭から浴びながらクリストファーは空を仰いだ。


「私は……どうしたいのだ?」


 想定以上の長い滞在によって、米国ではやらなければならないことが山積みとなっている。一刻も早く帰らなければならない状況なのだが、何かが引っかかる。ここで暮らしたいと思っているわけではないのだが、ここから離れることを考えると腰が重くなる。


「こんなことは初めてだ」


 答えが見えない難問にクリストファーは雨を浴びながら瞳を閉じた。すると、突然雨が止んだ。


 驚いて目を開けると伊織が背伸びをしてクリストファーの上に傘をさしていた。


『風邪をひきますよ』


 微笑む伊織にクリストファーはすまなそうに首を横に振った。


『ありがとう。だが、今は少し濡れたい気分なんだ』


 そう言うとクリストファーは傘を伊織に返した。伊織は少し考えた後、返された傘と自分の傘を閉じてクリストファーと同じように全身に雨を浴びた。


 伊織の予想外の行動にクリストファーが慌てる。


『何をしているんだい?』


『私も雨に濡れてみようかと思いまして』


『どうして?』


『あなたがしているから』


『……私が?』


『はい。あなたは私が知らないことを沢山知っています。ですから、あなたの真似をして、知ってみようと思いました』


 そう言って伊織は微笑みながら空を見た。


『雨に濡れるというのは意外と面白いですね』


『面白い?』


『はい。滝に打たれるときの水は大きくて強いですが、雨となった水は小さくて優しいです』


『そうか』


 返事をしながらもクリストファーは別のことを考えていた。そんなクリストファーの考えを見抜いたかのように伊織が質問をする。


『帰られるのですか?』


 いきなりの問いにクリストファーは内心で驚きながらも表情は微笑みを作って逆に訊ねた。


『……アクセリナに聞いたのかい?』


『いいえ。ただ、綺羅さんの体も動くようになってきましたので、そろそろ帰られる頃かと思いました』


『あぁ。そろそろ帰ろうと考えている。君には、いろいろ世話になったね。ありがとう』


『私の方こそ、いろいろなお話を聞かせてもらえて楽しかったです』


『あんな話でよければ、いくらでもあるよ。また来て話してもいいかい?』


 クリストファーの言葉に伊織がどこか悲しげに微笑みながら首を横に振った。


『ここは本来、決められた客人しか来られない場所です。今回はお怪我をされていたので特例ということで里へ入ることが許されましたが、今後は無理でしょう』


 伊織の説明にクリストファーが絶句する。


『なら……』


 クリストファーが提案をしようとしたところで空に鋭い光が走った。同時に伊織は持っていた傘を手離して、その場に屈むと両耳を押さえた。


『どうし……』


 クリストファーの言葉を遮るように雷が鳴り響いた。光と音のタイミングからして雷はそんなに近くに落ちてはいない。


 クリストファーは小さく屈んでいる伊織に合わせるように屈んだ。


『雷が怖いのかい?』


『どうしても、これだけは慣れなくて……近くではないと分かっていてもダメなんです』


 俯いたまま答える伊織の濡れた前髪をクリストファーはそっと横に流した。


『君に怖いものがあるなんて意外だな』


 その言葉に伊織が顔を上げて頬を膨らます。


『からかわないで下さい。私だって人間なんですから。怖いものの一つや二つありま……きゃ!』


 再び光った空に怯えて伊織が縮こまる。クリストファーがそんな伊織を微笑ましく思っていると、雷が鳴り響いた。


『そんなに怯えなくても……』


 声をかけるクリストファーの服の端を伊織がそっと掴む。


『あ、あの、側にいて下さいね。一人にしないで下さいね』


 伊織が黒い瞳の端をほんのり赤くして上目使いでお願いしてくる。その姿にクリストファーは思わず伊織を抱きしめていた。


『え?あの?』


 突然のことにクリストファーの腕の中で顔を真っ赤にした伊織が慌てる。一方のクリストファーはしっかりとした口調で言った。


『やっと、わかった』


『え?あ、何がわかったのですか?』


『私は君が欲しかったんだ。ここから離れることが出来なかったのは、この場所に未練があったからじゃない。君に未練があったからだったんだ』


『は?え?何を?』


 混乱している伊織にクリストファーが笑いかける。


『私と一緒に来てほしい。来てくれるかい?』


 その言葉に伊織の大きな黒い瞳がますます大きくなる。そして顔を真っ赤にしたまま嬉しそうに頷いた。


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