第8話
簡素なベッドと机があるだけの質素な部屋。病気療養中であるはずの、その部屋の主はベッドではなく椅子に座ったまま客人を迎えた。
「こんな部屋で、すまない。この神殿にいる者にも私は病気で動けないことになっているので、この部屋から出られないのだ」
沙参と鴉の前に五十歳後半ぐらいに見える初老の男性がいた。
この男性こそ今年で八十三歳になる現教皇だ。ただ、数年前から病気を理由に姿を現していない。
「お構いなく。ただ、用件に入る前に一つお聞きしたい」
「ああ。私に答えられることなら、なんでも聞いてくれ」
「私の存在をどうやって、お知りになった?」
沙参の質問に、教皇は少し笑いながら答えた。
「秘密はどうやって隠そうとも漏れるものだ。それが重大であれば、あるほど。隠そうとすれば、するほど。貴女の存在は、貴女が思っているより有名なのだよ。ただ、おとぎ話程度にしか思われていないがな」
そう言うと、教皇は窓の外に広がる青空を見た。
「用件については、私の姿を見て大体の想像がつくと思うのだが」
そう言われて、沙参はもう一度ゆっくりと教皇の全身を見た。
教皇の茶色の髪にはほとんど白髪がなく、顔にしわはあるが皮膚には張りと弾力があり、背中は真っ直ぐに伸びている。その姿はとても八十歳を超える老人には見えない。
沙参は肩をすくめて教皇に言った。
「できれば説明して頂きたい」
教皇は少し考えた後、躊躇いがちに説明を始めた。
「……わかった。あれは三年前、私が八十歳の誕生日を迎えた日だ。深夜、私の枕元に白い髪のそれは綺麗な男が立っていた。私は金縛りにあったように体を動かすことが出来ず、ただ男を見ていることしか出来なかった。男は試験管を取り出して、その中にあった赤い液体を私の口の中に流し込んだ。それから男はこう言ったのだ。『これで貴方は永遠の若さと寿命を手に入れた。もし元の体に戻りたければ、大和国の隠姫を呼びなさい』と。そのまま私は意識を失い、朝起きると私の目は金色になっていた」
そう話す教皇の瞳は黒い。沙参が質問する前に教皇が苦笑いを浮かべながら言った。
「カラーコンタクトで目の色を変えている」
教皇はため息を吐きながら机の上にあるナイフを持った。
「あれから私の体は少しずつ若返っている。そして、体はこうなった」
教皇はナイフで自分の手を切りつける。手から一筋の血が流れたが、それ以上流れることはなかった。ハンカチで血を拭うと傷は綺麗に消えている。
教皇は机の上に静かにナイフを置くと沙参に跪いた。
「どうか、この事実が教会に知られる前に私を殺してほしい」
沙参は跪く教皇を見ながら平然と言った。
「元の体に戻すこともできるが、それでも死を望むのか?」
「私は元々、病気のため医師からあと一年の命だと宣告されていた。本当は尽きている命なのだ。なのに今、このような体になってまで生きていることが恥ずかしい。この事実を知られる前に人として死なせて欲しい」
「折角、助かった命だ。もう少し生きようとは考えないのか?」
沙参の言葉に教皇は間髪入れずに答えた。
「当たり前だ。このような不老不死の体など神への冒涜(ぼうとく)。悪魔の所業だ。我々人間が手に入れてよいものではない。悪魔として裁かれる前に、どうか人としての死を。頼む」
教皇の訴えるような言葉に沙参は黒い瞳を逸らした。
「最期の神への祈りはいいのか?」
教皇は沙参の言葉の意味を理解して、隣にいた老人に声をかけた。
芝生の敷き詰められた中庭。白亜の大理石で造られた彫刻が点々と並び、中央の噴水からは空高く水が吹き上がっている。首都にありながら都会の騒音はまったく聞こえず、静寂だけが流れている。
コートのポケットに手を入れて一人、空を仰ぐ。黒い髪は風に遊ばれているかのように揺れ、青い瞳は同じ色をした空を映している。
その背後から聞きなれた声が聞こえてきた。
「なーに、一人でたそがれてるのよ」
オニキスが青い瞳を丸くして振り返ると、スピネルが左手を軽く振りながら歩いてきた。
「無事だったんだね」
嬉しそうなオニキスにスピネルが不機嫌な表情をする。
「無事に決まってるでしょ。私を誰だと思っているのよ」
オニキスは頭に浮かんだ心配損という言葉を振り払いながらスピネルを見た。
「でも、どうやってここに?」
ここはヤヌス神殿の中庭であり、一般人は入れない教皇のプライベートエリアだ。
「昔のコネでね。で、沙参ちゃんは?」
一体どんなコネだ?と聞きたくなるが、オニキスはそのことには触れず質問に答えた。
「教皇と面会してる」
「ふぅ~ん。私も久しぶりに会ってこようかしら」
そう言うとスピネルは建物の中に向かって歩き出した。
「ちょ、ちょっと。会うって、まさか教皇と会うの?」
慌てて走ってくるオニキスをスピネルは足を止めて面白そうに見た。
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