あの溶けた瞬間の断片に

ロッドユール

あの溶けた瞬間の断片に


「おい、今日はつき合えよ」

 熱血教師中野だった。のらりくらりとかわしていたが、さすがにもう無理のようだった。

「絶対にいい勉強になるから。なっ」

 そう勢いよく私の肩を叩き、元気いっぱい中野は去って行った。

「はあ~」

 大学出て初めて就職した公立高校。ただでさえ私は今までやったこともないバトミントン部の顧問をやらされていた。

「里子に電話しなきゃ」

 今日は確実に帰りが遅くなる。溜息と共に独り言が漏れた。


 日はすっかり沈んでいた。

「夜回りまでやることになるとは・・・」

 やることが多過ぎて、最近頭が痺れていた。社会人としての不自由と不慣れに、私は鬱に似た無気力状態になっていた。

 怪しげなネオン煌めく駅前の繁華街を他の先生や父兄と一緒に歩いて行く。普段歩きなれたこの場所も、立場が変わればまた違って見える。

 他の先生や父兄の方々が、早速気になった少年少女に声を掛け、次々足を止めていく。

 そのうちに私はいつしか一人になっていた。はぐれてしまった部分もあったが、私が意図してそうした意志もあった。


 最初からやる気など、まったくなかった。適当にお茶を濁して帰ることしか私は考えていなかった。

 そんな私の前に、その少女は突然現れた。まるで夜の街を照らす月光から染み出るように・・。

 少女は小さな形のよい丸い頭からその細いロウソクのような華奢な体を装飾するように、長いきれいな黒髪を腰まで伸ばしていた。それは日本画に描かれた美しい滝が、すーっと下に流れるように自然な流れをしていた。そして、その子の目は異星人かのように異様に大きく、肌は病的に青白かった。まるで人形のような子というか・・、というよりも生きているように見える人形みたいだった。

 少女は裸に頼りなげに羽織っただけの黒い薄地のワンピースに、厚底サンダルを素足につっかけ、夜の街の華やかさの影の部分に立っていた。

 少女は圧倒的に人間を超越して美しく、周囲の闇の中でほの白く輝いていた。しかしそれは妖しげで危うい光だった。

「君はいくつだい」

 私は声を掛けた。声を掛けざる負えなかった。何かそんな状況とも心情ともつかない何かがあった。というかあってしまった。私はそれに逆らえなかった。

「十七。もうすぐ十八になる十七。あまり意味はないわね」

 その子は明らかに補導員と分かる私が近寄っても、逃げようとはしなかった。むしろ静かに挑みかかるようにその場に立ち続けていた。

「あなたが私を立ち直らせてくれるの?」

 少女がその真っ赤な天然の赤い顔料を裏に塗り込めたような黒い瞳を、やはり挑むように私に向けた。

「私は待っているのよ。そういう人」

「ほんとよ」

「私は立ち直りたいの」

 少女は一語一語区切るように言った。やはりどこか挑発的だった。

「学校には行っているのかい」

「行くわけないでしょ」

 少女は何か珍妙な生物でも見るみたいに、その美しい大きな瞳で私を見た。

「話しなら聞くよ・・」

 私ははっきりと自覚するほどに、のっけからこの少女に圧倒されていた。この少女と対峙するには、心の準備と経験が明らかに足りていなかった。

「男が落ちてきた」

 少女は霞むような魅惑的な声で囁くように、それでいてはっきりと言った。

「男?」

「そう、太ったおっさん。百キロ位あったんじゃないかしら。豚みたいだったわ」

 少女はたばこをくわえ火をつけた。異様に細く長い見たことのないたばこだった。私はその手慣れたしなやかな動作に、注意するタイミングを逸し、何も言えなかった。

「自殺よ。私の目の前に突然降ってきたの。本当に突然よ。私はまだ十五だった。入った高校にやっと慣れ始めた二学期の初めの日曜日だった」

 少女はめんどくさそうに、その細く長い煙草の煙を吐いた。その煙はいったん下へゆっくりと落ち、そして再び立ち上るように私の周りに私を包み込むようにまとわりついた。色が見えそうなくらいに濃いお香のような匂いと雰囲気が辺りに漂った。

「私の目の前には優香がいたわ」

 少女の目は、微かなブレも無くしっかりと私を捕らえていた。

「小学校からずっと一緒だったの。高校は別々になっちゃったけど、でも、かけがえのない親友だった」

 少女は私を試すように私をその闇のような目でさらに見つめた。

「優香は死んだ」

 少女の鉄仮面みたいな無表情は、そこで完全な無表情になった。

「豚の下敷きになって。そして、そのおっさんは助かった。優香が助けたのよ。結果的に」

「・・・」

「優香が死んだ時、そのおっさんと優香の血が私に飛び掛かって来た。その日、私はお気に入りの白いオーガニックコットンのワンピースを着ていたの」

「・・・」

「分かる?これがどういうことか」

「・・、いや・・」

「そう、分からない。分からないの。いまだに分からないわ。どういうことなのか。どういうことだったのか。なんなのか。なんだったのか」

「まったく分からないの。考えても考えてもまったく分からないの」

「おっさんの下敷きになった優香の足は、すごく変な方向に曲がっていた。すごく変な方向。ありえない方向だった。肉の塊みたいなおっさんの下で、足だけが出てた」

 少女の目が少しだけ細くなった。

「大人はいろいろ教えてくれるでしょ。だから大人の人が誰か教えてくれるものと思っていたの。あれがなんだったのか」

「・・・」

「私は分からないのよ。ただ分からないの。説明してもらいたいの。ちゃんと言葉にして」 

少女は少し首を傾げ、私の目の奥を覗き込んだ。

「両親と担任は私にやさしい言葉を掛けてくれたわ。色々と。たくさん。気を使って。それはありがたかった。でも、そうじゃないの。そうじゃないの。説明して欲しいのよ。私は。ちゃんと。あれがなんだったのか。なんなのか。はっきりと。言葉にして」

「・・・」

「精神科にも連れてかれた。カウンセリングも受けた。薬も山ほど飲んだ。小難しい理屈もいっぱい聞いた。でも、分からないのよ。私の心がどうこうってことじゃないの。トラウマがどうとか、そんなことじゃないの。それはまったくとんちんかんなことなのよ。あれがいったい何だったのか。それが知りたいのよ。私は。それだけ。それだけなのよ」

 少女はさらに私を強く見た。

「分かるよ。大変な目にあったんだね」

 自分がまったくそんなことを言える立場に無いことを自覚しながら、私はそんなお決まりのきれいごとを口走っていた。

「分かるなら説明して。ちゃんと、ちゃんとした言葉で」

「・・・」

 当然の言葉が返って来た。

「私の行ってる高校なんか、今年東大に三人入ったって大騒ぎしているのよ。お前たちもがんばれみたいな、がんばればお前たちも・・、みたいなことまで言うのよ。優香は豚に押しつぶされて、私のお気に入りの白いワンピースは血だらけになったのに、よっ」

 私を見つめる少女の妖しげで儚い目は、答えを求めるみたいに何度も瞬きを繰り返した。

「・・・」

「まったく。クソだわ。世の中すべてがクソだわ」

 少女はそう言って、吸いかけのたばこを痰と一緒に吐き捨てた。細い糸みたいなたばこはアスファルトに突き刺さらんばかりの勢いでぶつかり、暗い地面に一瞬の美しい火花を散らし、静かに転がった。

「東大出は犯罪者が少ないんだって。知ってた?」

少女はすぐにまた新しいたばこに火をつけた。

「いや」

「笑っちゃう」

 全然笑っていなかった。

「いっぱいしてるのにね。悪い事。すっごい悪い事。私は知っているのよ。お客にそういう人いっぱいいるから」

 やはり少女はだるそうに煙草の煙を吐いた。

「客の意味、分かるわよね?」

 少女はポーズをとるみたいに煙草を持っている右手を肩の辺りまで上げ、腰を軽く捻った。右手の銀のネックレスがそれと共に白い肌を滑り落ちた。

「うん・・、なんとなく・・」

 私はもう完全に彼女に圧倒されていた。

「かわいいものよ。まじめに刑務所入ってる連中なんて。彼らに比べれば」

「ほんとクソだわ。何もかも」

 少女は怒りながら、悲しげにたばこを吸った。

「私のお気に入りのミュージシャンは自殺するし」

少女は溜息を吐くみたいにたばこの煙を吐いた。

「まったく・・、彼女の歌だけが救いだったのに・・」

 少女は虚空を見つめ、黙った。悲しみというよりも諦めに似た虚無が彼女を覆っていた。

「おっさんが降ってくるちょっと前・・」

 少女はまたその絶滅してしまいそうな儚い虫みたいな声で語り出した。

「私と優香は大笑いしていたのよ。何にそんなに笑ったのか思い出せないくらいくだらないことで。思いっきり笑ったのよ。もう気違いみたいに笑ったわ。二人してバカみたいに。通行人がみんな見てた。でも、おかしくておかしくて、もうお腹が破裂しそうだった。本当に死ぬんじゃないかってくらい笑ったわ。世の中のことが全部どうでもよかった。目の前のことすべてが楽しかった」

 少女は一瞬少女らしい表情をした。

「でも、世界は変わってしまった・・」

 少女がすべての人生の悲しみを吐き出すように呟いた。

「優香が死んでからしばらく経って、なんとなく少し落ち着いてきたそんな頃のある日だった。何の変哲もない日だった。本当になんの変哲もない平凡な日だった。その日のお弁当だって、卵焼きとウィンナーっていう平凡なお弁当だった」

「・・・」

「でも、とてもよく晴れたとても気持ちのよい日だった。いつものようにのほほんとみんなと同じように、席におとなしく座って、将来何の役に立つのか分からない小難しい理屈の話を訊いている時だった。その時、突然、そのことが急に異常なことだと思った。ものすごく異常なことだと思った。今まではまったくなかった。そんなこと。ちらっとでも考えたこともなかった。疑いすら持たなかった。学校のお勉強がすべてで、それをひたすら頭につめ込んで、よい点をとって、よい大学に入って、そしてなんだかよく分からないけど、その後にそれなりの人生があって、それを生きる。そして、そこから外れた奴はダメな奴なんだって。怖いことなんだって。でも突然、同級生の横顔が何か本当に異常な人間に見えたの。まじめになんの疑いも持たず授業を受けている同級生たちがみんな異常に見えた。本当よ。本当に異常なことに思えたの。私は何か、私だけが目が覚めている夢を見ているみたいなそんな感覚だった。みんな夢を見ているの。同じ。間違った夢。でも、私だけ目覚めてしまった。私だけがはっきりと世界を見ている」

 少女は私を見た。

「私は立ち上がった。そして、東大入ったその日に豚が降ってきたらどうするの?って、先生に訊いた。クラス中静まり返ったわ」

「・・・」

「私は立ち直りたいの。本当よ。明るい場所で生きたいの。私のお気に入りの真っ白なコットンのワンピースにちょっとシミがついて、それだけで、そんなことくらいで落ち込んでいた些細なあの頃に」

「・・・」

 私は少女に対する言葉をまったく持っていなかった。元々補導に何のやる気も意味も見いだせていなかった私は、ただ役に立つ以前に場違いな状態で申し訳なく無惨に少女の前に立ちつくすばかりだった。

 そんな私を見透かした少女は、蔑むような視線を残し、颯爽とワンピースから大きくこぼれた透き通るようなエロティックな背を私に向け、夜の街の雑踏の中に消えていった。


 次の日、私は何事も無かったように放課後、バトミントン部の練習風景をやる気も無く眺めていた。 

目の前にいる生徒たちは、幸か不幸か東大には絶対入りそうもない。バトミントンも全然うまくなかった。

今までも今もこの学校から東大に入った子はいない。過去に一人いたという都市伝説みたいな話はあったが、それもあくまでこの学校限定の都市伝説だった。

相変わらず、バトミントンの羽が、私にとってはまったく何の意味も動機も無く、ネットを境に右に左に行き来していた。


「あなたのせいよ。あなたがぽっちゃりした子が好きっていうから」

里子は私にそう悪態をつきながら、ぼりぼりと何か敵を討つみたいにしきりに煎餅をその缶詰めでもそれで開けられそうな丈夫な歯で齧った。それと同時に、時々尻もぼりぼり掻いた。

「あなたがぽっちゃりした方が好みだとか言うから、いけないのよ。だから私はまたダイエットに失敗した。あなたが痩せた方が好きと言ってたら、私はもっとがんばれたはず」

 そんなようなことを里子は一気に長ったらしくぐちぐちと執拗に、久しぶりに明るいうちに帰えれて、ほっとしている私に延々並べ立てた。さして太ってもいない里子を私は座ることも忘れ、何も言い返す言葉も無く無気力にただただ見つめるしかなった。

「はあ~」

出会った頃の里子はこんなではなかった。初めてキスをした時、里子は子犬のように私の胸の中で小さく震えていた。

 今、目の前の里子は、その時の面影の欠片すらも無い。

言うことだけ言って、気が晴れたのか、今度は徳用大袋の一口チョコを次々口に放り込み、ぼりぼりとしとやかさの欠片も無く、大きな口を無遠慮にもごもご奇妙な生物みたいに動かし、屁までこいて、お気に入りのお笑い番組を見て一人げらげらと声を上げ笑い始めた。

「はあ~」

 あの時の、繊細な里子はどこへ行ってしまったのだろうか。いつのまにか変態し、完全に別生物になっていた里子を私は悲しく見つめた。

「あっ、そうだ。今日、飛び降り自殺をみたわ。ほら、駅前のデパートの。ビルの前。若い女の子。高校生くらいじゃないかしら」

 里子は急に私を振り返った。

「すごい人だかりだった。落ちたところは見なかったんだけど、落ちた後すぐに気づいたの」

 里子の鼻の穴が興奮で膨らんだ。

「人が落ちても音ってあまりしないのね。なんか鈍いドサって感じだった」

 里子は興奮するとやたら早口になる。

「すぐに人が取り囲んじゃって、頭だけ見えた。小さい丸い頭だった」

「下に誰かいなかったか」

 私はそれがとっさに気になった。

「下に?」

 怪訝な顔で里子が私を見る。

「誰か巻き添えを食わなかったかって」

「そんなことあるの?」

 里子は公園にたむろするアホな土鳩みたいにきょとんと私を見つめた。

「多分いなかった」

「そうか」

「どうしたの?」

「いや、いいんだ」

 あの時の少女の小さい華奢な丸い頭部が私の頭に浮かんだ。

「すっごい血が出てたの。本当にでっかい水たまりみたいになってて、そこに長い髪が揺れてるの。本当に生きているみたいに揺れてるの」

 里子の鼻の穴はさらに膨らみ、掃除機みたいにものすごい勢いで空気が出たり入ったりしているのが傍目からでも分かった。

「タコの足みたいだった。くねくねして、それで・・」

「もうやめろ」

「なによ」

「もういい」

「なによ。急に怒って」

 私は台所に行き、冷蔵庫を開け缶ビールを取り出しその場で開け飲んだ。

「あっ、飲むの。だったらなんか作るわ」

「いいよ」

「いいわよ。何か作るわ」

 そう言って、里子は台所にすたすたと立った。

 里子の料理の手際は、まったく無駄のないものになっていた。小気味よく動く体と手は、すべてが計画された一つの機械仕掛けのそれだった。

 早々に次々と、小さなおかずがテーブルに並んだ。私はそれを揃うまでもなく摘まみ始めた。

「どう?」

「うん、うまい」


 私は特別頭が悪いわけでもなく、だからといって突出してよいわけでもなく、特別何かがあるというわけでもなく、小さい頃ちょっと絵は褒められたことはあるが、何も大きな問題も不満も無く、小さなものは人並みにあったが、ただ周囲と社会の流れのままに勉強をし、大学に進学し、教師になった。大学も名も無い地方の国立大学だった。本当は都会に出たかったが、親の説得にかんたんに屈し、あっさりと進路を決めた。別に教師にどうしてもなりたくてなったわけでもなく、それもただの保険みたいなもので、親の勧めでとりあえず教員免許を取ったに過ぎない。

 学生時代のアホな友だちも、今もピンピン生きている。


「ああ、俺は平凡だ」

「え?何?」

 料理を終え、一緒に飲み始めた里子が私を見る。

「いやなんでもない」

 俺は平凡だ。バカみたいに平凡だった。

「なあ、俺たちって平凡だな」

「何言ってるの」

「平凡だよ。俺たちに豚は降ってこないからな」

 里子は焼いたホッケの干物の乗った皿を箸でつつきながら、私を不思議そうに見つめた。

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