わんす あぽん あ たいむ。
橘 匡志
第1話
むかしむかし、ある村に、晋太郎というとても腕のいい鍛冶師がおりました。
ある日、晋太郎は山に出かけました。すると、山の中腹に大きな池があり、その中ほどに見事なハスの花がひとつだけ咲いています。
(なんて美しい花だろう。これを摘んで帰れば、おっかさん、きっと喜ぶにちがいない)
晋太郎は池の土手を下りていきました。
池の辺に生えている蔓草を掴み、ハスの花に手を伸ばしましたが、届きそうで届きません。晋太郎は花を採りたい一心で、水の上に身を乗り出しました。ようやく花に手が届いたものの、今度は手折ることができません。
そこで、もう少し、と乗り出した途端、ドブン、池の中に落ちてしまいました。池の水が波打ち、ハスの花もゆらりと揺れていますが、晋太郎の姿はどこにもありません。
晋太郎は溺れてしまったのでしょうか。
さて、晋太郎が落ちた池には、娘の河童が一匹住んでおりました。娘はずっとひとりで池の底で暮らしていました。でも、寂しいと思ったことはありません。なぜなら、娘はあまりにも長い間ひとりだったので、それを当たり前のことだと思っていたからです。
ちょうど晋太郎が池に下りてきたとき、娘は頭の皿の日光浴をしていました。晋太郎が美しいので手折りたいと思ったハスの花は、娘の皿から生えていた花だったのです。暖かな太陽の光を皿に浴びていた娘は、何かが近づいてくる気配を感じ、そっと水面を見やりました。すると、どうでしょう。何やら分からぬ得体の知れない生き物が、自分の頭の花に手を伸ばそうとしているではありませんか。
あまりにも突然の出来事に、言葉を失った娘は何もできず、じっとその生き物を見ていると、生き物は水の上に身を乗り出し、ようやっと娘の花に触れました。
ぞくり。何だか気持ちのいいような、悪いような、不思議な感覚が娘の背中に走りました。次に、その生き物は、懸命に自分の頭の花を手折ろうとします。が、なかなか手折ることができません。そのうちに、あまりにも身を乗り出しすぎた生き物は、大きな音をたてて、池の中に落ちてしまいました。
びっくりしたのは、娘の河童です。自分の花を手折ろうとして、見たこともない大きな生き物が目の前に落ちてきたのですから。生き物は、ぐるりと水の中を旋回すると、その顔をゆっくりと娘の方へ向けました。
どきり。
娘の胸が高鳴りました。生き物は、とても美しい顔をしていました。が、次の瞬間、その顔が苦痛に歪むのが、娘には分かりました。この生き物は、水の中では生きることができないのかもしれません。その美しい顔が、壊れてしまうのが怖くなった娘は、深く暗い水底に沈んでいこうとする生き物の身体を抱きかかえると、急いで水面へと上がっていきました。娘は懇親の力で、池の淵まで生き物の身体を引きずり上げました。美しい顔は青白く染まっています。娘は、その口元に耳を近づけました。息をしていません。
娘は、生き物の胸の部分を強く押しました。何度も何度も、繰り返し押しました。娘が、もうこれ以上押しても無理か、と諦めかけたとき、ようやく生き物は水を吐き出しました。それから、生き物は目を開けると、大きく咳き込みました。息もしているようです。
生き物の青白かった顔に徐々に赤味が戻るのを、娘は嬉しい気持ちで見ていました。生き物も、身体の中に入っていた水をすべて吐き出すと、娘の顔を見ました。
「お前が、おいらを助けてくれたのかい?」
娘は、頷きました。生き物が何を言っているのかは分かりませんでしたが、自分に敵意や悪意を持っていないことは分かりました。
太陽の光の下であらためて見た生き物は、やはり美しく眩しく見えました。娘は、ずっとこの生き物と一緒にいたいと思いました。
「ありがとな。おいらの名前は晋太郎だ」
シンタロウ。それがこの生き物の名前のようです。
「で、お前さんは?」
娘は、なぜか名前を聞かれたのだと分かったので、晋太郎の真似をし、口を開きました。
「レンゲ」
それは、頭の皿に咲いている花、ハスを指す名前でした。娘が皿を日光浴しているとき、水面の向こうから「綺麗なレンゲやなぁ」という声を、何度も聞いていたのです。そして、娘は、それがどうしてか自分の名前のような気がしていました。
「そうか、レンゲか。綺麗な名前や」
晋太郎は、レンゲに手を差し出しました。
それが、すべての始まりでした。
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