第180話 ハーフムーン
ドアを開けてくれたのはカリーナさんだった。
僕の瞳を見つめながら頷いている。
「私どもも窓から街の異変には気が付きました。もう出発するところです。わざわざお知らせいただきありがとうございました」
カリーナさんの後ろには甲冑をつけた女性の騎士が二人控えていた。
「そうでしたか。カリーナさんが無事に逃げられるようにお祈りしています」
彼女たちは傭兵団と合流するのだろう。
依頼もないのに傭兵が戦闘をすることもないから退却するのだとは思う。
オストレアも交戦すれば損害が出るだろうからわざわざ戦いはしない可能性も高い。
無事に合流できればカリーナさんは生き延びられるはずだ。
一礼して踵を返した背中に問いかけられた。
「もし、若様のお名前を教えてはいただけませんか?」
僕の名前?
どうして知りたいのかはわからないけど、名乗って恥ずかしい名前ではない。
「私の名前はラインハルト・アンスバッハです」
「っ! アンス……バッハ……」
家名は有名だからやっぱり知っていたかな?
「エッバベルク子爵クララ・アンスバッハの長子です」
「あ、お、お父上のお名前は?」
なんで父上の名前?
アンスバッハ家の当主は母上だからクララの名前を出したんだけどな……。
しかも質問するカリーナさんの声は震えている。
「父の名はコウタ・アンスバッハですが……父上のお知り合いですか?」
その時、部屋の奥から美しい声が響いてきた。
「どうも様子がおかしいと思ったら、そういうことだったのですね」
声のした方向を見た瞬間に時が止まった。
だってそこに女神様がいたんだもん。
「ラインハルト・アンスバッハさん?」
僕は声も出せずに、ただ頷くだけだった。
慈愛に満ちた眼差し、色香を伴う気品に満ちたしぐさに柔らかな体つき。
これが本当に人なのか?
女神様でないのならば聖女様のようではないか!
母上もかなり美しい人だと思うけどこの人とは異質だ。
そう、まるで母上とは対極にある美しさのような気がした。
聖女は微笑みながらゆっくりと近づいてきた。
「このような危急の事態に、お時間を割いていただきありがとうございました。私はユ……」
ユ?
「……ユージェニーと申します」
美しい名前だ。
流暢(りゅうちょう)なザクセンス語を話しているけどユージェニーはフランセアの上流階級に多い名前だ。
ひょっとすると外国の人かもしれない。
いや! それどころではなかった。
このように美しい人がオストレア兵に捕まれば絶対にけしからんことをされるに決まっている!
ここは何としても僕がこの人を守って差し上げなくては!
「ユージェニーさん、ゴルフスドルフにオストレアの兵隊たちが押し寄せています。どうかすぐに避難を。私が安全なところまで貴方をお守りします!」
「まあ!」
僕の言葉にユージェニーさんは手を胸の前で合わせて喜んでくれた。
「ラインハルトさんが私の
「この命に代えましても貴方をお守りすると誓います!」
真っ赤になってしまったけど高らかに宣言した。
後から思い出してもやっぱり恥ずかしいんだけど、僕は本気でユージェニーさんのために命を賭ける気でいたのだ。
これが一目惚れってやつだと思う。
そう、僕は出会ったばかりの年上の女性に対して恋に落ちていた。
「ありがとう。誰かに守られたいなんて思ったのは生まれてから二度目のことですわ。久しぶりに胸が安らぐ思いです」
そう言ってもらって嬉しかったけど、複雑な思いもある。
僕はどうやら二人目らしい。
一人目がどんな人かは知らないけれど、めらめらと嫉妬の炎が心の底に燃え広がった。
ラル隊長と合流して外に出ると街のあちらこちらから人々の悲鳴が聞こえていた。
空気には血と煙の臭いが混じっている。
「ここは一度バッムス方面へ落ち延びるべきです。街道が封鎖される前に行きましょう」
オストレア軍の規模はわからないけど、ゴルフスドルフの駐留部隊より数は多いだろう。
占領は時間の問題だろうからラル隊長の言う通りにすべきだと思う。
敵の目的が何なのかはわからなかったけど、僕は絶対に捕まるわけにはいかない。
貴族として不名誉なことだし、アンスバッハ家の長子だと知られれば僕に対しての身代金は途方もない額になると思う。
それに各地域の貴族や警備兵に事の次第を伝えなくてもならない。
「先にユージェニーさんを傭兵たちの宿営地に送らないと」
そう言うとユージェニーさんは微かに笑みを浮かべた。
「その心配は無用です。彼らは私のいる所へやってきます。そろそろ異常を察知してこちらに向かってきているでしょう」
驚いたことにユージェニーさんが漂泊の団の団長だというのだ。
とても傭兵団の頭目には見えないんだけど……。
側近である4人の女騎士たちは鎧を身につけているけど、ユージェニーさんは胸元の開いた優雅なドレス姿だ。
こぼれ落ちそうなほど大きな胸が強調されていて目のやり場に困る。
「それでは救援を待ちますか?」
「いえ。こちらから出向きましょう。今夜は月が綺麗ですわ。少し歩きたくなりました」
散歩にでも出るような気軽さでユージェニーさんは戦場となっている街へと踏み出した。
裏路地を進んでいたとはいえ僕たちは総勢19人もいたので、すぐにオストレア兵の目に留まってしまった。
「放て‼」
無数の矢が飛来して学院の護衛全員が倒れた。
食事中に逃げ出してきたので防具をつけているものは一人もいなかったのだ。
僕だけは何とか氷の壁を作り出して矢を防いでいた。
もしも僕がもっと大きな氷壁を作り出せることができていれば騎士たちを助けられたのに。
それでも僕のすぐ後ろにいたユージェニーさんとカリーナさんは守れている。
甲冑をつけていた女性騎士たちも全員無事だった。
「貴族が混じっているぞ! 抜かるな!」
ザクセンス王国では魔法を使えるものは例外なく貴族だ。
僕の出自もばれてしまったわけだ。
アイスパレットという氷弾を6個作り、第二射を放とうとしていた弓兵たちに飛ばした。
叫び声がして幾人かが倒れていたが生死のほどはわからない。
いずれにせよ攻撃魔法で人を傷つけたのは初めての経験だ。
咽喉に酸っぱいものがこみ上げてきたが躊躇っている暇はなかった。
僕はユージェニーさんとカリーナさんを守らなくてはならないのだ。
「逃げてください! ここは僕が!」
だけど、ユージェニーさんは立ち去らなかった。
「ラインハルトさんのお気持ち、とても嬉しいですわ。ですが、私も貴方を見捨てて逃げ出すことはできません」
決然と述べる言葉には力があった。
柔らかないで立ちの芯には強い精神が隠れていたようだ。
僕はますますこの人に惹かれていく。
「私は私の
ユージェニーさんの手が僕の二の腕にそっと置かれた。
触れられた部分がかッと熱くなったような気がする。
自分のこれまでの人生の中でこれほど幸せな瞬間があっただろうか?
再び矢が飛来したけど、僕の氷壁と女騎士たちの盾が防いだ。
「ユリ……ユージェニー様、お楽しみのところ申し訳ございませんが、この状況はいささか危険かと」
なぜかカリーナさんが冷ややかに、呆れたように、僕らを見つめる。
「まったく無粋な人たち……」
ユージェニーさんは静かに一歩前に出た。
「オストレア兵よ、そこを動いてはなりません」
静かだがはっきりとした声が周囲に響くと、四人の女騎士たちが弓に矢をつがえて放つ。
どうしたわけか、兵士たちは一人として攻撃に反応できずに次々とその場に倒れた。
「ラインハルトさん、いきましょう」
ほっそりとした白い手が差し出される。
「えっと……」
「手を引いていただけませんか? そうでなければ怖くて走れないかもしれません」
僕はユージェニーさんの手を握りしめた。
「いきますよ」
「はい。私を連れていってくださいませ」
僕らは手を繋いで夜の街を駆け出した。
地上の喧騒には無関心な半月がレモン色に輝いている。
怖いと言っていたユージェニーさんだったけど、どうしたわけか嬉しそうにしている。
まるで月のような人だ。
そんな気がした。
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