第178話 バーデン湖の畔
バッムスを発って数日が過ぎた。
僕の旅は順調だけど単調でもある。
見慣れた北部地方の森や平野はどこも変わりばえがしない。
ヒースのしげる野原には春の野草が花をつけていたけど、ずっと同じ景色だとそれも飽きてしまった。
そもそも馬車はのろいのだ。
ずっと父上のポータルやバイクなどでの移動が当たり前になっていたから余計に遅く感じてしまうのだろう。
旅の無聊(ぶりょう)を慰めようと本や新聞も持ってきていたけど、とても読めるものではなかった。
だって、すごく揺れるんだもん。
なんなのだろう、この馬車は?
アンスバッハ領の馬車と比べるとすごく乗り心地が悪い。
話には聞いていたけどここまで酷いものだとは思っていなかった。
アンスバッハ家の馬車は父上や吉岡のおじさんが持ち込んだ情報を元に、お抱え技術士のバッハさんが設計をした特別な仕様でサスペンションというものが搭載されている。
他にも車輪が異世界のゴム製だったり、この世界にはない合金を使用したボディーだったり、シートの下にはウレタンと呼ばれる謎素材が使われていたりと、とても乗り心地が良いのだ。
しかも、いざとなれば馬なしで走ることもできる……。
これは父上と吉岡のおじさんとバッハさんが嬉々として施した「魔改造」が原因だ。
なんでも電動モーターという部品が馬車の底部に取り付けられ、これによって車輪を回しているそうだ。
父上たちは潤沢な資金を元手に様々な品物を異世界から持ち込んでいる。
異世界から品物を持ち込む際は、父上の空間収納で運ぶことが多い。
この収納はかなり大きくて横幅は5m、奥行きは8m、高さも3m以上はあるので大抵のものはここに入れることができる。
ただ、吉岡のおじさんは「日本で使っている自家用ヘリコプターが入らない」と不平をこぼしていた。
ヘリコプターというのは空を飛ぶ乗り物だ。
映像を見せてもらったけど、とっても格好がよかった。
僕も早く乗ってみたいから父上には頑張ってスキルのレベルを上げてもらいたいのだ。
今頃、母上は父上の自家用ジェットに乗っているのかな……?
護衛隊長のラルさんが手を上げると、馬車は野原の中の広いスペースに止まった。
ようやく休憩の時間になったようだ。
近くには小川も流れているので馬たちに水を飲ませることもできる。
僕らもその川の水でお湯を沸かしてお茶をいれるのだ。
従者たちがお茶の用意をしてくれている間、僕は椅子に腰掛け、持ってきた新聞を広げた。
これはバッムスでレオさんがくれたものだ。
退屈だったのだろう、隣に座ったラル隊長が新聞を横から覗き込んでくる。
「何か面白い記事はありましたか?」
「ザクセンスからフランセアへ嫁がれたアンネリーゼ王妃様が第一子をご出産されたそうです」
「それはめでたい。フランセアと我が国の結びつきはますます強化されるでしょうな。最近はオストレア公国との緊張がさらに高まっているのでいいニュースです」
隣国オストレア公国との小競り合いはここ10年の内に何度か起こっている。
大抵は国境における偶発的な小規模交戦だ。
今までも何度かオストレアが侵攻してくるという話はあったけど、本格的な戦争というのは一度も起きていない。
だけど、いよいよ来年あたりは危ないのではないかというのが父上の見立てだ。
父上のところにはごく稀にエルケさんという女性がやってくる。
オストレアのこともこの人によってもたらされた情報らしい。
エルケさんの年齢は父上と同じくらいなんだけど、妙に色っぽい人だった。
最初は父上の不倫を疑ったのだけど、それは違ったようだ。
エルケさんは大切な情報を交換するために父上のところへ定期的にやってきているみたいだ。
いずれ成人したら僕にも正式に紹介すると言われた。
エルケさんは特別な組織に属していて、さる高貴な身分の人に仕えているそうだ。
アンスバッハ家の正式な跡取りとして、時が来ればその組織の重要人物たちとも引き合わせてもらえるとのことだった。
それにしても、この時期にオストレア侵攻というのは不安を掻き立てられる話だ。
だって、僕らが向かっているのはバーデン湖であり、その対岸はオストレア公国なのだ。
もしも自分の滞在中に戦端が開かれたら巻き添えをくらうことは必至だ。
「ラル隊長、本当にオストレアは攻めてくるのでしょうか?」
「攻めてくる、攻めてくると言われてもう10年以上ですからなぁ。あまり心配することはないでしょう。それにオストレアが最初に侵攻してくるのはマイウー島というのが定説です。いきなりゴルフスドルフにくることはございませんよ」
ラル隊長は大きな体を揺らして笑った。
ゴルフスドルフは僕らが宿泊する街だ。
ラインガ街道はここで水路と陸路に別れる。
僕らは定期船に乗り込み水路を行くことになっていた。
ラル隊長は笑っていたけど本当にそうだろうか?
戦で勝つには相手の予測しないこと、やられて嫌なことをしなくてはならないと父上も言っていた。
だとすれば、マイウー島だけではなくゴルフスドルフにも同時攻撃を仕掛けてくるなんてことは十分考えられる。
「心配ですかな?」
笑顔のラル隊長に尋ねられて、僕は自分が恥ずかしくなった。
きっとラル隊長は僕がありもしない戦争に怯えていると思ったに違いない。
「そんなことはありません。もしも戦争になった時のバッムスへの影響を考えていただけです」
僕は虚勢を張ってごまかした。
これが母上ならば落ち着いて、どっしりと構えて居られただろう。
父上だってのんびりとした態度を崩しはしなかったように思う。
父上はあれで勇気があるのだ。
きっと僕の4倍は肝が座っていると思う。
いざとなれば行動力のある人だし、そうでなければあの母上が望んで婿入りしてもらうことなどなかったはずだ。
ゴルフスドルフには夕刻前にたどり着くことができた。
予定していた宿に宿泊することもできて万事が滞りなく進んでいる。
僕も自分にあてがわれた個室に落ち着くことができた。
ただ一つ、気になることを聞いた。
なんとこのゴルフスドルフの郊外で傭兵たちが露営をしているというのだ。
傭兵のいるところ戦争ありというのがこの世界の常識だ。
やっぱりオストレアとの戦争が近いのかもしれない。
もっとも傭兵たちはここに常駐しているのではなく、バーデン湖南の玄関口であるブレガンツに向かっているそうだ。
あそこにはザクセンス王国の水軍支部があるので、そこを目指しているのだろう。
部屋のドアがノックされてラル隊長が入ってきた。
「そろそろ夕食の準備が整うそうです。食堂へ行きましょう」
「ありがとう。ちょうどお腹がすいてきたところでした」
「はっはっはっ、若いうちはいくら食べても足りないものですからな。ところで傭兵団の噂は聞きましたか?」
ラル隊長の表情はかなり真剣だ。
「ええ、郊外に野営をしているようですね」
「漂泊の団とかいう傭兵団だそうです。どうやらマイウー島への駐在を請け負ったようでございますよ」
やっぱり戦争は近いようだ。
軍は傭兵を雇ってマイウー島の防備を増強するのだろう。
「先程は笑ってしまいましたが、一刻も早くバーデン湖を抜けた方が良さそうですな」
「はい。ところで漂泊の団というのはどれくらいの規模なのですか?」
「500人ほどの小規模な傭兵団です。街の者に聞いた限りでは規律は正しいようですな」
傭兵団というのはほぼ例外なく荒くれ者の集団だ。
軽犯罪など当たり前のように起こすので街に入れてもらえないことも多い。
武器を持った人間が大勢集まると気が大きくなるものだと父上が言っていた。
小規模とはいえ規律正しい傭兵というのは非常に珍しい。
とつぜんラル隊長の鼻の下がだらしなく伸びた。
「なんでも傭兵団の頭目はとんでもない美女だという話でしてな。それも、そんじょそこらではお目にかかれない、絶世の美女とのことでして」
美しい女性か……。
母上も氷の淑女などと呼ばれて評判の高い美女なんだよね。
「しかもですな、どうやらこの宿に泊まっておるようなのですよ! せっかくですから一目くらいは見てみたいものですな」
成人前の少年に何を話しているんだろうね、このオッチャンは。
でも、僕だって興味がないわけじゃない。
なんというか……僕の体も大人になったのだ……つい最近だけど。
美しい女の人を見れば人並みに興奮もする。
食堂にいったら噂の団長に会えるのかな?
すでに外は暗くなっていた。
燭台を手に、淡い期待を胸に、僕らは食堂へと移動した。
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