第174話 出直しといで
傍らの剣を掴むとエマは急いでテントの外へ出た。
ここは森の中の少し開けた平地で木がまばらに生えていたが、緑の間に馬の姿が二頭確認できる。
気をつけて見ていると森の小径をやってくる一団は全部で10人ほどだとわかった。
そして、エマの視線が馬上に揺れるユリアーナの姿をみとめた。
むこうもエマに気がついてしまったようだ。
バラバラと駆けだしてきた護衛たちはエマとテントを取り囲んだ。
その背後からにこやかな表情を浮かべたユリアーナが近づいてくる。
「まさか先行されているとは思いませんでした。てっきり私たちの方が先にパレード港に着いたと思っていたのですが」
エマは何も答えなかった。
「本当はラジープ様の近辺でお待ちしていようと思っていたのですが手間が省けました。コウタさんはどちらに?」
ユリアーナはこれまでのことなどなかったような気軽さでエマに尋ねた。
「ヒノハル様をどうなさる気ですか?」
「言い訳なんてしないつもりですよ。やり方がまずかったというのも理解しています。だから、もう一度調教の首輪をつけ直して、初めから新しい関係を築くだけですわ。今度こそ私を愛してもらえるように」
「ユリアーナ様……」
「こう見えて私は努力家なのです。愛を勝ち取るために自分にできることは何だってしますの。次はもっと自然なシチュエーションを用意しなければいけないと思っているの。この数日の間にいろいろと考えてきましたからね」
ユリアーナはうっとりと自分の夢想に浸った。
「それで、コウタさんはどちらに? あの方のことですから貴方を置いて逃げたりはしないでしょう? さっさと話してくれた方が無駄がなくていいわ」
エマは無言で状況を観察していた。
たとえ自分が剣で切りかかったとしても倒せるのは一人か二人、場合によっては相手を仕留めることもかなわず取り押さえられるだけだろう。
かといって高熱で倒れている公太を連れて逃げ出すことは不可能だ。
単身この場を脱出してクララ・アンスバッハに連絡をつけることも考えたが、自分を取り囲む護衛たちを突破できる望みも薄い。
完全な八方ふさがりだった。
「ヒノハル様はこの中です」
エマはテントを指し示した。
とにかく今は日野春の病気を何とかすることが大事だったし、ユリアーナが調教の首輪を外せばコウタは自分に治癒魔法が使えるはずだと考えたからだ。
「先にエマ・ペーテルゼンを捕らえよ」
配下に命令を下すラーラの言葉に反応してエマは剣を抜いた。
「無駄なことを……」
ユリアーナは冷たい目で馬上からエマを見下ろしたが、エマの心の内までは見えてはいなかった。
エマが剣を抜いたのは戦うためではない。
自らの頸動脈を切って死のうと考えていたのだ。
自分が人質になればきっと日野春の足かせになる。
裏切った自分を見捨てずに、おとなしく調教の首輪を再度つけられてしまうに違いない。
病気さえ癒えて、自分という人質がいなければヒノハルは独力で囲みを突破できる可能性はある。
エマはそれに賭ける気だった。
「ユリアーナ・ツェベライ‼」
剣を首筋にあててエマは叫んだ。
それは自分が愛した聖女、過去の自分、自分が生きているこの世界、そういったものへの決別の叫びだった。
冷たい鋼の感触がしてエマはわずかに恐怖を覚えた。
だが、彼女の決意は揺るがない。
ユリアーナを睨みつけながら力を込めて剣を引こうとした瞬間、誰かの手が後ろから抱きとめるようにエマの動きを封じていた。
「ダメだよ……エマさん……」
「ヒノハル様……」
軽い麻痺魔法によってエマは剣を手から落とし、その場にへたり込んでしまう。
同時にヒノハルも膝をついてしまっていた。
もう立っていることもままならないくらい消耗していたのだ。
ユリアーナは日野春の黄色く変色した肌を見つめた。
「コウタさん……?」
エマが声を張り上げる。
「ヒノハル様は病気にかかっておいでなのです。どうか一刻も早く調教の首輪を外してください。そうしなければヒノハル様は!」
そこからユリアーナの行動は早かった。
すぐさま馬を下りると何の躊躇いもなく公太の首輪に手をかけたのだ。
「カチッ!」
乾いた金属の響きと共に失われていた記憶が公太の中に流れ込んでくる。
閉ざされていた過去が色鮮やかに蘇った。
「まったく……」
|神の指先(ゴッドフィンガー)を使いながら首筋を撫でていた公太が呟いた。
すでに眼球や肌の黄疸(おうだん)はとれている。
「やってくれたな……」
|神の指先(ゴッドフィンガー)でもとれない精神的疲労を感じながら日野春公太は大きなため息をついた。
「お加減もよくなったようでなによりですわ」
ユリアーナに悪びれたところはまったくない。
「で、まだこの遊びを続けるつもりか?」
「遊びとは心外ですわ。私は本気ですし、もう少し付き合っていただきたいのです。どうせなら私の純潔はコウタさんに捧げたいですし……」
頬を赤らめるユリアーナに公太は身震いした。
「もう、やめてくれ! なぜだ!? なぜここまでする? 君がこんなことをしなければ、ここまで君を嫌いになることもなかった」
コウタの問いにユリアーナは初めて悲しそうな顔をした。
「私は貴方を愛しただけです。貴方が欲しかった。こうする以外に他にどんな方法があったというのですか?」
追う側と追われる側、双方が満足する解などどこにもない。
「だからって……」
「コウタさんは私のことがそんなにお嫌いですか?」
「以前に言ったとおり大っ嫌いだよ」
日野春公太をしてここまで言わせしめる女はユリアーナ・ツェベライしかいないことだけは確かだった。
その意味でグローセルの聖女は特別だともいえる。
だがユリアーナは食い下がった。
「コウタさんは嘘をついています。思い出してください。二人で旅したあの日々を。コウタさんは私を愛してくれてはいませんでしたか?」
わざわざ指摘されるまでもなかった。
公太には首輪をつけていた期間の記憶も残っており、その日々の中でユリアーナに惹かれていたことも事実として記憶している。
「…………認めるよ……」
トクン、と聖女の心臓が高鳴った。
「認める。あの時、俺は君に惹かれていた」
「では……」
「だけどね、君は未熟なんだ。とてもじゃないが恋愛の対象にはならないよ。君は女としてクララ・アンスバッハの足元にも及ばないのさ!」
ユリアーナの指先から調教の首輪がポトリと地面に落ちた。
「本当のことを言えば、君のことも嫌いじゃない。だけど、お子様は相手にしない主義だ。もっと他所で恋の一つもしてくるといい」
ユリアーナは言葉を失っていた。
これまで自分の魅力について疑いなどもったことなどなかったのだ。
それはそうだ。魔法を使えば誰だって彼女に魅了されたし、そうでなくても聖女の美貌とプロポーション、その行いまでもが称賛の的だったのだから。
「コウタさん!」
訳も分からないままユリアーナは日野春に話しかけた。
だが、日野春公太は返事をすることもなく、突如地上に浮かび上がった魔法陣の光と共に姿を消した。
そして、ユリアーナの背後から凍てつく声が響いた。
「公太は元の世界へ帰した。もはやお前が手出しすることは不可能だ」
そこにいたのは全身に冷気を纏ったクララ・アンスバッハだった。
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