第172話 悪魔のささやき
吉岡は運命という言葉が嫌いだったが、偶然と呼ぶにはこの邂逅(かいこう)はあまりに作り物めいた感じがした。
向かい合ったクララとユリアーナはまるで神様のジョークで導かれたかのように滑稽でさえあると思えてしまうのだ。
本当のことを言ってしまえば、吉岡は日野春のことをそれほど心配していなかった。
この言い方では語弊があるか。
吉岡は日野春がユリアーナ・ツェベライにさらわれたとわかった時点で、殺されたり傷つけられたりすることはないとふんでいたという方が正確だ。
日野春に恋をしているユリアーナが日野春を傷つけるとは考えにくかった。
あるのはせいぜい貞操の危機くらいのものだろう。
台の上に縛り付けられた公太の上に裸で跨るユリアーナを妄想して、吉岡は一人胸を焦がした。
(そういうシチュエーション大好きかも……。先輩が羨ましい! ユリアーナが年上なら自分が代わりたいくらいだ)
もちろん、そんなことになればクララと日野春の仲に亀裂が入ることも考えられたが、それは自分でもどうしようもないことだとも思う。
男女の仲に口を出せるほどの人生経験は持ち合わせていなかった。
所詮自分は賢者の卵でしかなく本当の意味での賢者ではない。
ようするに魔法の造詣が深いだけで、言い換えれば単なる魔法バカなのだ。
ただ、敬愛する先輩が自分の意志の外で好きなようにされているのは許せなかった。
対峙するクララとユリアーナを見ながら、吉岡はどうしたものかと思案した。
日野春がいれば取り戻せばいいだけなのだが、この場に公太は見当たらない。
ユリアーナたちを捕まえるにしても何の罪で?
オッサン略取?
語の響きだけなら未成年者略取よりも罪は軽そうな気がした。
(そんなことはないか)
幼女だろうが爺さんだろうが誘拐は誘拐だ。
……本当に?
いや、法律的にはどうなのか知らないけど個人的には幼女誘拐の方が罪は重いな。
俺が裁判官なら3度の死刑を言い渡す。(自分は免除)
吉岡がバカな考えを一通り巡らせているとクララが再び口を開いた。
「答えてもらおう。公太に何をした?」
「さて、なにをおっしゃっているのか私には……」
初夏の太陽に照らされた南国の市場の気温が2℃下がった。
「もう一度だけ問う。日野春公太に何をした?」
公太が勇者ラジープのところへ向かっていることはクララたちも知っていたが、その理由までは分かっていない。
調教の首輪のことも、コウタが記憶を失っていることさえクララは知らないのだ。
勢いよく馬車の扉が開いて、護衛騎士のホイベルガーが飛び出してきたが吉岡はたいして気にしていなかった。
この程度のザコにクララが後れを取るはずもなく、自分の所へ切りかかってきたとしてもいくらでも制圧は可能だと思っていたからだ。
クララも驚いた様子もなく、わずかに左脚を後ろへ引いただけだった。
だが、ホイベルガーは予想外の行動に出た。
剣を抜いたかと思うと、突然通行人を人質に取ったのだ。
同じように馬車の前後にいた護衛たちも市場の人々に剣を向けた。
「貴様! それがザクセンス騎士のやることか!?」
クララの詰問にホイベルガーは冷笑でこたえた。
「私は用がございますのでこれで失礼しますわ。お前たちはしばらくここにいてアンスバッハ男爵のお相手をするように」
優雅なほほえみでユリアーナが告げると御者は馬に鞭をあてて、馬車は走り出した。
「その場を動くな! 人質がどうなってもいいのか!?」
足を踏み出そうとした吉岡をホイベルガーが制止する。
「しばらくそのままでいてもらおうか」
たまたま近くにいただけの不運な女性を盾にしてホイベルガーはじりじりと背後へ下がった。
クララと吉岡は冷ややかにその様子を見遣る。
「どうしますか?」
「ユリアーナ・ツェベライが向かうところは、どうせ勇者ラジープのところだとわかっている。ならば焦る必要はない。今は人質のことを最優先で考えよう」
自分たちの私闘に巻き込んでしまい、クララは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
吉岡は身につけた腕時計を指さしてホイベルガーに声をかけた。
「そろそろ2分が経とうとしているよ。もういいんじゃない?」
それでもホイベルガーは人質を離そうとはしなかった。
「先に申し渡しておくぞ。万が一にもこの人たちを傷つければ容赦はしない。貴様の心臓を氷漬けにする」
クララの言うことがハッタリなどではないのはホイベルガーにもよくわかっていた。
仲間たちは人質を解放して逃げ出したい思いに駆られていたが、人一倍ユリアーナに思いを寄せているホイベルガーは何とか踏みとどまり、さらに3分の時間を稼いだ。
そしてゆっくりと後退を続け、クララたちから百歩の距離にきてようやく人質を突き放し、背中を見せて一目散に逃げだしたのだった。
クララと吉岡はその背中を追った。
「護衛騎士のリーダーさえ捕まえればいい。公太に何をしたのかを吐かせる」
「了解です!」
端的に行ってしまえば吉岡は足が遅かった。
高校時代の体育でやった100メートル走のタイムは16秒台後半でクラスではビリから2番目だった。
普通に考えればホイベルガーに追いつけるはずがない。
だが彼は今や四大魔法に加えて回復魔法までをも操る賢者の卵だった。
「テイルウィンド!」
背後に起こした追い風を巧みに使い、土ぼこりを巻き上げながらの追跡が始まった。
クララも身体強化魔法を駆使して並走する。
軍務の際は全身鎧を着けてさえ一般兵より速く走れるのだ。
平服のクララは鎖を解かれた
大した時間もかからずにホイベルガーは取り押さえられた。
吉岡の土魔法で作られた落とし穴にはまる様は見ている者の笑いを誘ったが、引っかかった本人はいたく矜持を傷つけられたようだ。
せめて剣を持って数合でも渡り合えたらホイベルガーの面目も保たれたのだろうが、吉岡秋人にとってはどうでもいいことだった。
「フハハハハハ、無駄、無駄、無駄ァ‼」
悪魔的な笑みを作りながら、吉岡は穴の上からつま先で砂を落とした。そんな吉岡を制止してクララが質問する。
「日野春公太に何をしたのか聞かせてもらおう」
土に汚れた顔を歪めて唾の塊をクララに吐き掛けようとしたホイベルガーだったが、その唾は空中で氷の塊になって護衛騎士の顔に小さな音を立てて落ちた。
恐怖と冷気が足元から立ち上ってくる気がしたが、ホイベルガーは口を割ろうとはしなかった。
「ここは私にお任せを」
吉岡がクララとホイベルガーの間に割って入った。
クララを下がらせた吉岡は風魔法を使ってホイベルガーだけに聞こえるようにそっと囁く。
「なあ、ヒノハル騎士爵に何をしたか、それだけを教えてくれればいんだよ」
「……」
「いいのかい? このままじゃアンタの大好きなユリアーナさんはコウタ・ヒノハルと結ばれちゃうと思うんだけど」
はっ、としたホイベルガーが穴の上を見上げると、そこには微かな笑みをたたえた悪魔顔の吉岡がいた。
「別にホイベルガーさんが喋ったところで状況は変わらないよ。それに、僕たちがヒノハル騎士爵を取り戻した方が君にとっても色々と都合がいいと思うんだけどねぇ」
「だが……」
言葉を濁したホイベルガーをいたわるように吉岡は続ける。
「世の中何が起こるかは分からないよ。仮にも貴族を誘拐してしまったんだ。君たちはザクセンスではお尋ね者だろう? これからは辛い逃亡者生活が待っているわけだ」
ホイベルガーにしたところでそんなことは分かっているし覚悟もできている。
ユリアーナと一緒であればそんなことは苦痛でもなんでもないとすら思っていた。
だから吉岡の顔を見ながらホイベルガーはせせら笑ってみせた。
「まあ、君は平気だろうさ。だけど君の主はどうかな? 故国を捨てるというのはつらい旅になると思うんだよね。そんな時に頼りになる男が側にいれば……惹かれていくのは当然だと思うよ。問題はその男が誰になるかということさ」
「……」
「異国を放浪する男女というのもなかなかロマンチックではあるよね。頼りになるのは互いの存在だけだもん。その結びつきは魂の領域に達することだってあるかもね」
いつしかホイベルガーは俯いていたが、じっと吉岡の言葉に耳をすましているようでもあった。
「可能性は誰の前にも開けているさ。君の前にもね……」
長い沈黙の後、ホイベルガーは絞り出すような声をだした。
「……俺の話を聞いてどうするつもりだ?」
「僕たちはヒノハル騎士爵を奪還したいだけさ。今後、二度とコウタ・ヒノハルに手を出さないと約束するのならばグローセルの聖女には手出しをしないと誓ってもいい。西大陸でもどこでも行けばいいと思うよ」
「騎士として誓えるか?」
吉岡は心の内で苦笑した。
(一般市民を人質にした人間が騎士云々を言うかねぇ?)
だが、そんな気持ちはおくびにも出さずに吉岡は続けた。
「もちろんだ。ザクセンス騎士爵として誓ってもいい。僕はユリアーナ・ツェベライ嬢には決して手を出さない(クララ様は知らないけどね)」
ザクセンス貴族の自覚など欠片もない吉岡だったがその宣誓の口調は厳かで、彼の演技力の高さがうかがい知れた。
吉岡の宣誓を聞きホイベルガーはなんとか自分を納得させることができたようだ。
すこし考えてから訥々と何があったのかを話し出した。
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