第149話 不測に立ちて無有を遊ぶ
綺麗に髭を剃ってもらってから鏡を覗き込むと、間の抜けた犬みたいな顔がそこにあった。
これが俺か……。
ずば抜けて異性にもてそうな要素は見いだせない。
ユリアーナさんはどうして俺と結ばれることになったのだろう?
後で聞いてみようかな。
色々と教えてもらえば何かを思い出すかもしれない。
顔の雰囲気から俺の年齢は30代前後といったところだと思う。
年齢差も結構ありそうだ。
ユリアーナさんは貴族のような装いと雰囲気だから、もしかしたら親同士が決めた婚姻だったのかもしれないな。
「お着換えはこちらの服でよろしいでしょうか?」
提示された服は随分と仕立てのよいものだった。
生地も光沢があって美しいのだが、なんとなくこんな服は着慣れていない気がした。
「私はいつもこのような服を着ていたのですか?」
「もちろんですわ。コウタさんは騎士爵ですもの」
騎士爵ということは俺もギリギリ貴族籍にあるということか……。
なんかしっくりこないけど、記憶がないのだから仕方がない。
「さあ、もうお昼を少し過ぎていますわ。食堂に行ってご飯にしましょうね」
“腹が減っては戦ができぬ”そんな言葉が湧き上がる。
自分のことは分からなくても、このような日本の言い回しは思い出せるんだな。
「お履き物をどうぞ」
部屋のスリッパをつっかけたままの俺に、ユリアーナさんが靴をそろえておいてくれた。
「……これは私の靴なのですか?」
「ええ。コウタさんがお履きになっていたものですよ」
一目でいい革靴だとわかった。
目に飛び込んでくるロゴはジョンロブ……。
確か高級な靴メーカーだったはずだ。
いつ、どこで買ったかという記憶はないけど、なんとなく高級品という知識だけは残っている。
俺ってばやっぱりお金持ちだったのだろうか?
「それからこれを」
そう言って今度は腕時計を渡してきた。
ROLEXって文字盤に書いてあるよ……。
このデイトナとやらがどれくらいの値段かもわからない。
ロレックスなんだからお高いんでしょ? って感じだ。
まさか某国で作られたパチモノ!?
靴も時計も高級品だけど、どうも俺の感覚が庶民的というか、それらの品物一つ一つに驚きを感じている。
……もしかしたら俺は成金なのかもしれないな。
きっとあれだ、俺とユリアーナさんは政略結婚か何かで婚約したのだろう。
そうじゃなきゃこんな冴えないオッサンと絶世の美少女が結ばれるわけがないもんね。
「他に私の持ち物はありますか?」
「残りはハンカチと、不思議なペンが一本だけです」
こちらは万年筆だな。
日本製で品質は良いが高価なものではないと思う。
箱に入っており、未使用なところをみると、誰かに贈るために持っていたのかもしれない。
ハンカチも普通の木綿のハンカチだった。
「他には何かありませんか? 財布とか鍵とか」
「それですべてですわ」
ユリアーナさんが嘘をついているようには見えなかった。
着服するというのなら靴や時計だってポッケナイナイするよな……。
それに俺は氷の魔女に囚われていたようなので、そういう類のものは持っていなかったのかもしれない。
考えたいことは山ほどあったがまずは腹ごしらえが先か。
ユリアーナさんに促されるままに食堂へと向かった。
鼻が嗅ぎつけたように昼食にはエビとトマトのスープが供された。
他にもカリッと焼いた薄パンやチーズ、ジャガイモと魚のコロッケ、サクランボのコンポートに生クリームの添えられたデザートなども出された。
以前の俺がどんなものを食べていたかは記憶にないが、これほどの食事はザクセンスではかなり裕福な家でしか食べられないということは理解できる。
長いこと食事をしていなかったせいで赤いスープが細胞の一つ一つに染み込んでいくような気がした。
昼食の席ではこの船に乗っている主だった人たちを紹介された。
相手は俺のことを知っているようなのだが、こちらは誰一人として見覚えのある人はいない。
ほとんどの人はとても親切にしてくれるので申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
特に先ほどの部屋でも会ったカリーナさんは俺にすごく優しくて、食事の時もあれこれと給仕をしてくれた。
ちょっとサービス過剰なくらいだ。
それからユリアーナさんの元家庭教師であり、今は秘書をしているラーラさん。
こちらは大人の色気が素晴らしく、一見クールなのだがやっぱりすごく親切にしてくれる。
何か用事がある時はカリーナさんかラーラさんに言えばいいと教えられた。
後は護衛騎士のホイベルガーという青年も紹介された。
この人はなんとなく俺を嫌っているような気がする。
言葉遣いや態度は丁寧なのだが直感的にわかってしまった。
だけど、それはいいんだ。
無視されるわけでもないし、いじめられるわけでもない。
常識的な付き合いはできているから。
問題はエマ・ペーテルゼンという女性の騎士だった。
エマさんは決して俺と目を合わそうとしないんだよ。
挨拶をした時も小さな声で震えてさえいた。
覚えていないけど、もしかして過去に俺が何かをしたのか?
パワハラやセクハラじゃないよね?
かなり心配になってくる。
後でカリーナさんあたりに聞いてみるか。
この船の中ではあの人が一番話しかけやすい気がした。
昼食の席ではこの船の航路についても教えてもらった。
船はザクセンス王国の南にある港を出発して、内海を西に向かい、最終的に大洋を跨いで西大陸へ到達するそうだ。
地図で見ると内海というのは地球で言えば地中海によく似ていた。
明日はヘルモスという港へ寄港すると聞いている。
ヘルモスはオスパニアラという国の領土だが、こちらの世界ではザクセンスしか知らないので外国へ行くとなるとドキドキしてしまう。
記憶があれば外国へ行く船旅も楽しかっただろうに。
しかも自分の持ち物がほとんどないというのがすこぶる心配になってくる。
ユリアーナさんはこの船に積んであるものは全て夫になる俺の物でもあると言ってくれたが、はっきり言って実感が持てないんだよ。
時計や靴は地球で作られたものだからおそらく俺の所有物なのだろう。
だけどそれ以外は何にもない。
1マルケスも現金を持っていない状況はどうしようもなく俺を不安にさせる。
いざとなったらこの時計を売ることはできないだろうか?
地球ならロレックスって中古でもそれほど価値は下がらないって聞いたことがある。
でも、ここは異世界だからなぁ。
意外と倍の値段で売れたりしてね!
そんな考えは甘いか……。
落ち着いて考えをまとめたかったので少し一人で居させてもらうように頼んだ。
ユリアーナさんはどこへ行くのにもついてくるので少しだけ困っていたのだ。
彼女も寂しかったのだろう。
そして記憶を持った俺は未だに帰ってこないんだもんな。
すぐそばにいたい気持ちは理解はできるが俺も現状とこの先のことを落ち着いて考えたかった。
夜になっても船は止まらずに波の上を走り続けていた。
空には星や月が明るく見えているが地上の光はどこにもない。
かなり沖合を進んでいるのだろう。
落ち着いて考えてみようなどと言ってはみたが、考えられることなどそれほどなかった。
俺は記憶をなくし、自分の財産と呼べるものもほとんどない。
頼りになるのはこの体と……今のところはユリアーナさんだけだ。
自分が何者であるかもわからず、記憶にない婚約者の慈悲に縋って生きる存在というのはどうなのだろうか?
だいたいユリアーナさんはそれでいいのか?
「人間の一生は一つ繋がりの精神的、肉体的な過程である」と言ったのはブッダだ。
人は変化し続けて、今日の俺は昨日の俺とは別人だ。
明日の俺はもう今日の俺じゃない。
だけどな……だからといって簡単にリセットして新しい人生をやり直せるほど開き直ることはできない。
「不測に立ちて無有(むう)を遊ぶ」か……。こちらは荘子だったな。
今の俺にはこちらの言葉の方がしっくりと馴染む。
未来のことなど予測のつかないものなのだから、自らの状態を受け容れ、今この時に順応するしかないという考え方だ。
「はぁ…………………もう寝ようかな……」
時刻は夜の9時をまわっている。
長いこと一人で考え込んでいたけど、なんとなく分かったのは自分が理系ではなく文系の学問を学んだらしいということくらいか。
本好きの理系という線もあるが、数式などは全く記憶にないから違うのだと思う。
やっぱり俺は役立たずじゃん……。
寝る前にせめてユリアーナさんに挨拶をしてから寝ることにしようと思った。
だけど俺はユリアーナさんの部屋の場所を知らないんだよね。
センターテーブルの上に小さなベルが置いてある。
これを鳴らせばカリーナさんかラーラさんが来てくれることになっている。
彼女たちにユリアーナさんの居場所を聞いてみることにしよう。
ベルを鳴らすと直ぐに扉が開いてラーラさんが入ってきた。
「どうされましたか? ヒノハル様」
「そろそろ寝ようと思うのですが、ユリアーナさんにご挨拶をと思いまして」
「承知いたしました。すぐに伝えてまいります」
「いえ、そうではなくて、私がユリアーナさんのところへ……」
「ヒノハル様はこのままこちらでお待ちください」
ラーラさんは妖艶な笑みを残して去っていってしまった。
これでは挨拶をするために呼びつけるような形になってしまうじゃないか。
ユリアーナさんが来たらよく謝っておかなければならないな。
ところでユリアーナさんの部屋ってどこなんだろう?
今後のこともあるし聞いておかないといけないな。
そういえば、この部屋には二つの扉がついている。
一つは廊下に通じる扉で、たった今ラーラさんが出入りしていたものだ。
俺も今日は何回も使っている。
もう一つは部屋のすぐ横についていて、こちらは隣の部屋につながっているようだ。
隣の部屋には誰がいるのだろう?
そんなことを考えていたらいきなりそのドアが開いた。
立っていたのは燭台をもったラーラさんだ。
そしてその後ろからユリアーナさんも入ってきた。
隣の部屋にいたのかよ。
「お呼びたてした形になって申し訳……ございません……」
俺は息を飲みこんでしまった。
だってユリアーナさんはネグリジェ姿なんだもん。
レースがふんだんに使われた白くて優雅なデザインなのだけど、胸元が大きくあいていて目のやり場に困ってしまうのだ。
予想以上に大きい……。
「もうおやすみになると聞きました」
「はい。ですからご挨拶をと思いまして……」
「承知いたしました。それではベッドに入りましょう」
にこやかに告げながらユリアーナさんがこちらにやってくる。
「ベッドに入りましょうって……このベッドですか?」
「この部屋にベッドは一つですわ」
キングサイズの大きいベッドだけどさ……。
「このままでよろしいですか? それとも服を脱いだ方がいいのかしら?」
えーと……。不測に立ちて無有を遊ぶ……。
この場合の遊ぶは女遊びの遊ぶじゃないぞ。
幸福の追求というか……いやいや、幸福=快楽じゃない。
もう、どうしたらいいんだよ……。
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