第148話 船の上で髭を剃る

 俺の婚約者だという女性はユリアーナ・ツェベライと名乗った。

だけど、その名前は俺の記憶のどこにもない。

申し訳ない思いでいっぱいだ。

まったく思い出せないのだが二人は永遠の愛を誓い合った仲だそうだ。

ユリアーナさんは絶世の美少女でスタイルも抜群だ。

こんな素敵な人と自分は将来を誓い合ったのか? 

俺ってそんなに有能な男なのか? 

記憶を亡くしたせいか欠片ほども自分に自信が持てない。

ひょっとしたら俺って大金持ちだったのかな? 

それとも超仕事ができる人間とか? 

時間の経過とともに少し落ち着いてきたので今の自分についてよく考察してみた。


 どうやら俺は自分に関係していた人物の名前を思い出すことができないようだ。

親はおろか友人の名前さえも出てこない。

逆に自分とはあまり関係のない歴史上の人物などなら思い出せる。

坂本龍馬は幕末の志士だし、織田信長は戦国大名であることは思い出せるのだ。

そう、俺には日本という国の記憶もあるし、ザクセンス王国という国の記憶もある。

二つの国が異なる世界にあるということも理解している。

ただ、どうやって自分がこの二つの国を行き来していたか、これらの国で何をしていたかが思い出せなかった。

一つ推察できるのは、知識量はザクセンスよりも日本についての方がずっと多いので、おそらく俺は日本を本拠地にして活動していたのだろう。

ザクセンスの歴史なんてほとんど知らない。

だけど今いる場所はザクセンスのある世界の方だとユリアーナさんが教えてくれた。


「私たちはザクセンス王国から西大陸という場所に向かって海の上を移動中なのですよ」


 西大陸の記憶はないが、どういう場所かという知識だけは持ち合わせている。

たしか南北に長く伸びた巨大な大陸であり、獣人たちがたくさん住む国であること、未開の地が多く文明度は低いこと、様々な場所が各国によって植民地になっていることなどだ。


「少しは落ち着かれたようですね」


 ユリアーナさんが微笑みながら俺の手を握りしめてくれる。


「醜態を晒してしまいましたね。まだ混乱していますが大丈夫です」


 手を握られることが気恥ずかしくて、そっと引こうとしたのだが強い力で引き戻されてしまった。

婚約者が記憶をなくしてユリアーナさんも不安なのかもしれない。

そう考えて掴まれた右手はそのままにした。

それにしても、どうして俺は記憶をなくしてしまったのだろう。


「教えてください。いったい私に何があったのですか? どうして私は記憶をなくしてしまったのでしょうか?」


 ユリアーナさんは俺の目を見つめながら真剣な顔で教えてくれた。


「悲しい事故があったのです。私たちはザクセンスで恐ろしい女から逃げる途中でした……」

「恐ろしい女?」

「はい。その名をクララ・アンスバッハと言います。氷の魔女と恐れられた女です」


 クララ・アンスバッハ、その名前を聞いた瞬間になぜか心臓を針で刺されたかのようにチクリと胸が痛んだ。

まったく記憶にない名前なのに……。


「覚えておられますか、クララ・アンスバッハの名前を?」


 怯えたようにユリアーナさんが聞いてくる。

そんなに恐ろしい女なのだろうか?


「……いえ、思い出せません」


 そう答えた時の彼女の表情は見えなかった。

すぐそばにいて俯いてしまったから。


「忘れてしまった方がいい名前です」


 頭を上げたユリアーナさんの表情は聖女のように慈愛に満ちていた。


「どうして私たちはその女から逃げていたのですか?」


 ユリアーナさんは握っていた手を離し俺の首をそっと撫でる。

その時になって初めて自分が首輪のようなものをはめられていることに気がついた。


「氷の魔女はコウタさんに横恋慕して、私たちの仲を引き裂こうとしたのです。そしてコウタさんに恐ろしい呪いをかけました」


 俺はゴクリと唾を飲み込んだ。


「かの魔女は、いつでも貴方を呼び出し、奴隷のように使役できるように呪いの魔法をかけてしまったのです。私は貴方を奪還するために全てを捧げ、ようやく愛する貴方をこの手に取り戻したのです」


 まじかよ……。

俺ってそんなに慕われているのかぁ……全然実感がわかないのは記憶がないからなんだろうな。


「な、なんかご迷惑をかけたみたいですみません」

「いいのです。コウタさんはこうして私の元へ戻ってきてくれました。ですが、呪いの影響で過去の記憶を失われてしまったようですが……」


 ユリアーナさんは優しくハグしてきた。

スキンシップが好きな人なのだろうか? 

それとも氷の魔女によって引き離されていたから寂しかったのかな? 

俺のために苦労を掛けてしまったみたいだから優しくしてあげないといけないな。

でも、何にも思い出せない……。

それもこれもクララ・アンスバッハという魔女の呪いのせいなのか。


「ところで私の首に何か巻かれているようなのですが……」


 これは何だろう。

首に巻かれているので自分では見ることができないんだけど、まるで犬の首輪みたいだ。


「それは大切なマジックアイテムです。残念ながら氷の魔女の呪いを完全に打ち消すことは私にはかないませんでした。そこでさる聖者からその首輪を譲り受けたのです。その首輪をしている限りコウタさんは氷の魔女に召喚されることもなく、奴隷として使役されることもありません。ですが、その首輪を取ってしまえばたちどころに魔女に居場所を知られてしまうでしょう」


 そうか、こいつは呪いから身を守る護符みたいな物なのだな。


「その首輪はコウタさんの意思では外すことはできないのですが、事情が事情なのでお含みおきください」


 それだったら仕方がないよね。

魔女はどれだけ離れた場所にいようとも俺を呼び出せるそうだ。


「いったん召喚されればコウタさんはどんな嫌な命令でも魔女の言いなりにならざるを得ないのです。どんなに汚い仕事でもしなければならないし、アンスバッハがどんな醜女でも愛欲に爛れた奉仕を強いられるのです」


 こ、怖ぇ……。


「ですから、その首輪は決して壊れないように気を付けてくださいね」

「わかりました」


 奉仕を無理強いさせられるのは嫌な俺はウンウンと頷くしかない。

その様子に満足げな笑みを浮かべたユリアーナさんはようやく俺の側を離れて立ち上がった。


「お腹は減っていませんか? コウタさんは丸二日間眠っていたのですよ」


 そんなに寝ていたのか。

それならさっきの膀胱の状態も理解できるというものだ。

気の動転が収まると空腹がやってくる。

人間はどんな状態になっても生きている限り腹が減るのだろう。

気をつけて部屋の空気を嗅いでみると、扉の向こうから何かを煮込む匂いがしている。


「エビとトマトを使ったスープの香りがします」


 ユリアーナさんも少しだけ鼻を上げて匂いを嗅いだが分からなかったようだ。


「コウタさんは鼻がいいのですね。私にはちっとも匂いませんわ」


 俺の鼻が特別なのかな? 

かなりはっきりと匂うんだけど……。

自分の鼻を触ろうとしたらジョリっと髭の伸びた感触がした。


「あの、できたら鏡を貸していただけないでしょうか? それから私の荷物といったものはありますか? そこに髭剃りなどが入っていたらいいのですが」

「コウタさんを奪還する際は非常に切羽詰まった状況でして、さすがにお荷物までは運べませんでした。ですがここには大抵のものはございますので心配しないでください」


 ユリアーナさんが小さなベルを鳴らすと扉が開いて可愛らしい女の子が入ってきた。


「ああ、ヒノハル様、お気づきになられたのですね。本当によかった……」


 入ってきたメイド姿の女の子は心底安堵の表情を見せてくれている。

俺とも交友のあった人なのだろうか?


「カリーナ、コウタさんに鏡と髭剃りの道具をお持ちして差し上げて」

「はい。すぐにご用意いたします」


 カリーナと呼ばれたメイドさんは嬉しそうに部屋を出ていった。


 俺は渡されたカミソリを見て固まっていた。

こんなもので髭を剃った記憶がないからだ。

単なる俺の記憶喪失で以前はこれを使って髭を剃っていたのだろうか? 

いや、電気髭剃りなら使ったことがあるけど、やっぱりカミソリの方は記憶にない。

これでちゃんと剃れるのか? 

肌を切ってしまいそうで非常に怖い。


「どうされましたか?」

「えーと……こういったカミソリは使った経験がないようでして……」

「まあ!」


 嬉しそうにユリアーナさんが小さな叫び声をあげた。


「でしたら私が剃って差し上げますわ」


 ええ!? 

そんなことをしてもらって、いいのかな? 


「さあ、こちらにいらして」


 ユリアーナさんはベッドの端に座り自分の太ももをポンポンと叩いている。

それはまずいんじゃないかなぁ……。


「いや、しかし……」

「ダメでございますか?」


 そんな悲しそうな顔をされると困ってしまう。


「コウタさんが記憶を失ってしまわれたのはわかっています。ですが私たちは婚約者であり恋人同士なのですよ。遠慮することはありません」


 ユリアーナさんにとってはそうかもしれないが、記憶のない俺にとっては立場が異なる。


「ですが……」

「お願いです。氷の魔女から貴方を解放したご褒美として、ユリアーナに貴方のお髭を剃らせてくださいませな」


 二人の関係には実感が持てないのだが、ユリアーナさんは大変な苦労をしたようだ。

彼女のささやかな望みくらいかなえてあげてもいいのかな……。


「それじゃあ……」


 体重がかかりすぎないようにそっとユリアーナさんの太ももに頭をのせた。


「カリーナ、シャボンをお願いね」


 温かい泡立てた石鹸が俺の顔に塗られていく。

なかなかいい気持ちだ。

美しい女性に二人掛かりで髭を剃ってもらうなんてすぐにでもダメ人間になってしまいそうな気がするぞ。


……。

…………。


あれ? 

以前にもこんなことがなかったか? 

記憶の沼の一番深いところから何かがせりあがってくる感じがした。


「あの……」

「どうされましたか?」

「前にもこのようなことをしていただきましたっけ? その……爪切りとか……耳掃除とか……」


 単なる記憶違いかもしれないが、なんとなくそんな気がしたのだ。

でも、グルーミングをやらせていたなんて俺ってば本当にダメ人間じゃん!


「そうですわね……。ええ、これからも私がして差し上げますわ」


 ユリアーナさんの答えは曖昧だったけど、どうやら本当にやってもらっていたようだ。

なんか複雑な気分だ。

 肌にカミソリの当たる感覚がした。

なぜだろう? 普段からやってもらっていたようなのだが、こうしていてはいけない気がした。


「あの……痛かったですか?」


 ユリアーナさんが心配そうに聞いてきた。

なんでだ?


「いえ。全然痛くないですよ」


 カミソリは肌の上を滑り、傷一つつけていない。


「ですが、コウタさん……泣いていらっしゃいます」


 俺は我知らず涙を流していたようだ。

理由は全く分からない。

ただ、眼の端に溢れる熱い涙を止めることができなかった。

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