第146話 ザクセンス捜査網
川沿いの神殿に備え付けられた船着場から、三艘のボートが漕ぎ出された。
何の特徴もない、どこにでもある貨物運搬用の舟だ。
舟は川下の方へ向かって気持ちよさげに初夏のドレイスデンを抜けていく。
三艘のうちの一つだけに天蓋となる幌がかかっていた。
きっと濡れたら困るものや、生鮮食料品でも積んでいるのかもしれない。
そんなボートだってけっこうあるのだ。
やがてこの舟も多くの運搬船と同じように海に出るのだろう。
そこで荷物を外洋船に積み替えて戻ってくるのだ。
川の街であるドレイスデンでは珍しくもない光景だった。
目立つところは何一つない。
けれども、もしもこのボートに幌がなかったら、人々は思わず立ち止まってその様子を凝視したことだろう。
ボートに据え付けられた長椅子には、穏やかな大型犬のように一人の中年男が眠りこけていた。
事実、男はまるで誰かの飼い犬のように首輪をつけている。
そして、その男の頭を膝に乗せた絶世の美少女が恍惚の表情で男の髪を撫でていた。
その光景は一枚の絵画のように見る者に強烈な印象を与えたことだろう。
しかしながらその様子を認める人間は一人もいなかった。
クララ・アンスバッハが壁に掛けられた大きな時計を見ると、既に夜の八時をまわっていた。
時計が誤った時刻をさしているのではないかと疑いたくなるが、この時計は異世界からもたらされた精巧な品だ。
電池というものが続く限り、一カ月で15秒から30秒しか誤差は生じないと聞いている。
その電池だって先日クララ自身がコウタに教わりながら入れ替えたばかりだったのだ。
「やっぱり変ですよ。コウタさんがクララ様との約束をすっぽかすなんて普通じゃ考えられません」
リアに指摘されるまでもなく、そのこと自体はクララもわかっている。
問題は今この瞬間にコウタがどのような状態にあるかだった。
コウタが危機的状態にあるのならば送還と召喚を立て続けに行い、この場所に呼び出すことは可能なのだ。
だがコウタが何らかの事情で動いているのなら、召喚魔法が彼の行動を妨げることになってしまうかもしれない。
結局、コウタが今どうしているかがわからないが故に再召喚することをクララは決断できかねていた。
対策の一つとしてフィーネを勇者ゲイリーの所へ使いにやっている。
ゲイリーなら魔信でコウタにコンタクトがとれるはずだ。
フィーネが出かけてから40分は経っているのでそろそろ戻ってくる時間だ。
同時にエッボには今朝コウタを迎えに来たエマの所へ様子を聞きに行かせた。
エマに聞けば、コウタが何をしているかの手掛かりを掴めるかもしれない。
だが、昼過ぎにエマを探した時にはエマも行方が分からなかった。
今日は非番なのでコウタと別れた後にプライベートでどこかへ出かけたということも考えられる。
いずれにせよもう家に帰りついている時間だ。
最初に戻ってきたのはフィーネだった。
しかもゲイリーも一緒だ。
「すまないクララさん。さっきからずっと魔信で呼びかけているんだけど応答がないんだ」
「ひょっとするとコウタは、何らかの事件に巻き込まれたのかもしれません」
クララは虚空を睨みながら呟くように声を出した。
落ち着いて考えてみれば、なにか事情があって特別な行動を起こす場合、コウタの性格からして絶対にゲイリーに連絡を取り、クララに伝言を頼むはずなのだ。
それをしなかったということは、何か突発的な災厄がコウタを襲ったとしか思えない。
ゲイリーたちに遅れること4分後、今度はエッボが帰ってきた。
「大変です! エマさんもペーテルゼンのご実家には帰ってきていません。兵舎にも戻られていないようで向こうでも騒ぎになりつつあります。ハンスさんも心当たりを探しまわっているそうです」
ひょっとすると二人は一緒に行動しているかもしれないとクララは考えた。
そして何らかの事件に巻き込まれた恐れがある。
コウタを召喚し直すのは簡単だが、それをやるとエマを一人で現地に残してしまうことになるかもしれない。
(それでも……)
クララはつとめて冷静に心を落ち着けて考えた。
このまま二人を放置していても何の解決にもならない。
コウタをここに呼び出すことさえ出来れば、エマを救出しに行く算段も立てられるのだ。
「コウタを再召喚する」
クララがそう宣言すると、その場にいた全員が頷いた。
クララは魔力を集め、使い慣れた送還魔法を展開した。
だが魔法が送還対象者を選択する段になると、対象が選べずに魔力は霧散してしまった。
「どういうことだ……」
慌てたクララは、次に召喚魔法を展開する。
だが、普段通り魔法陣は地上に浮かび上がるのだが召喚獣が呼び出される気配はこれっぽっちもなかった。
「どうしたのですか?」
たまらずリアが声をかける。
「応答が……コウタが私の呼びかけに応えてくれないのだ! リアもコウタを召喚してみてくれ!」
リアも言われるがままにコウタを召喚しようとするが、やはり反応はなかった。
クララはヘナヘナと床にへたり込んでしまう。
それまで自分が立っていた大地が音を立てて足元から崩れ落ちていく気分だった。
「アキトさんを呼びましょう! きっといい知恵を貸してくれると思います!」
リアは召喚魔法で日本にいる吉岡秋人を呼び出した。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン……、って、なんか空気が重くないですか?」
おどけて出てきた吉岡だったが事情を説明されてすぐに目つきが変わった。
「エッボ君、大至急ホルガーさんのところへ行ってくれ。先輩がエマさんと出かけて帰ってこないと伝えてくれればそれでいい。ホルガーさんなら後は任せておいて大丈夫だ。自分は少し出かけてきます」
クララは力なく吉岡の顔を見上げる。
「どこに行くつもりなのだ?」
「宰相のナルンベルク伯爵のところです。自分だけだと面会してくれないかもしれないからゲイリーもついてきてくれ」
「それは構わないけど、宰相に会ってどうするんだい?」
「
影の騎士団の存在は一般には知られていないが、ザクセンス王国随一の諜報機関だ。
情報収集能力は並みの警察機構では及びもつかない。
その陰の組織を運用しているのが宰相ナルンベルク伯爵だった。
「クララ様はカルブルク子爵を通して捜索をお願いしてください。誘拐の可能性もあることも伝えるべきです」
カルブルク子爵はクララたちのかつての上官である王都警備隊の長官だ。
たとえ貴族とはいえ一晩帰らないくらいでは、警備隊は動いてくれないのが普通だ。
だが、かつての部下ならば話は別だろう。
クララが頭を下げることで捜索が開始される算段は大きい。
部屋から出ていこうとするエッボを吉岡は呼び止めた。
「それからエッボ君、ホルガーさんに伝えてほしいんだ。これは自分の偏見だし確証なんてどこにもない。だけど……グローセルの聖女の動向を探るようにホルガーさんに伝えてくれ」
「アキト」
クララは冷静さを保っているように見えたが、その心の内は誰にも分らない。
ただ彼女の周りに冷気のオーラが薄く漂っているだけだ。
「クララ様。今は情報を集めることに全力を傾けましょう」
「……わかった」
河原町の河川敷に100人を超える浮浪者が集まっていた。
年齢も様々で男も女もいる。
人々の視線の先に、大岩の上のホルガーが普段は見せない鋭い目つきで立っていた。
「――ということで俺たちはヒノハルの旦那の行方を探す。金に糸目はつけねぇ。有益な情報を持ってきた奴には特別にボーナスも出そう」
ホルガーは一度言葉を切って集まった浮浪者たちを見回した。
「それにな、今夜俺たちが探さなきゃならねえのはヒノハルの旦那だ。お前たちの中には旦那の世話になったものも沢山いるだろう? カカアがガキを産むとき、お袋が病気になった時、仕事の世話をしてもらった者もごまんといるはずだ。今、旦那は危ねぇ目に合っているかもしれねぇんだ。一刻も早く助け出さなきゃなんねぇ。そこんところを肝に銘じて捜索にあたれ!」
集まった群衆は三々五々に闇の中へと消えていった。
同日、夜間巡回をする王都警備隊に新たな命令が下された。
かつて曹長として勤務していたヒノハル・コウタとエマ・ペーテルゼンが行方不明になったらしく、捜索が任じられたのだ。
コウタが勤務していた南地区駐屯所ではその噂でもちきりだった。
中隊長であるドーリス・ベックレの怒号が夜間巡回組に浴びせられる。
「貴様らっ! さっさと支度をせんか! まったくもって弛んでいる。今夜は特別に私が全体の指揮をとるからそのつもりでいろ!」
ベックレ中隊長の怒声に兵士たちは首をすくめた。
「おやっさん、なんか今夜の雌オークはやけに気合がはいっていませんか?」
「さてな。生理でもきたんじゃねぇのか?」
「だったら家で寝てろってんだよ……」
「まあな。だがよぉ、同じ釜の飯を食った戦友がいなくなっちまったんだ。俺たちも気合をいれねぇとな」
「わかってますよ」
その夜の巡回班は平時の1.5倍に増員された。
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