第143話 ナエマとマハネ
アミダ商会の受付にいたビアンカが書類から顔を上げた丁度その時、ひときわ目を引く客が入ってきた。
天使のように美しい人が現れたと思ったら、なんとグローセルの聖女ではないか。
伯爵家の令嬢を出迎えるためにビアンカはすぐに立ち上がった。
「これはユリアーナ・ツェベライ様。ようこそおいでくださいました」
「こんにちは。ヒノハルさんはまだダンジョンからお戻りにはなっていないのかしら?」
伏し目がちに問いかけてくるユリアーナは同性であるビアンカでも見とれるほどに美しい。
だが、恩人である日野春公太はユリアーナ・ツェベライを避けているようだったので、ビアンカとしても素直にこの聖女の来訪を歓迎できない気持ちでもあった。
「はい。ヒノハル様はずっとダンジョンに行ったきりでございます。ダンジョン探索というのもなかなか大変なお仕事のようでございますね。私のような者には想像もつかないことの連続なのでしょう」
ビアンカとしてはグイグイとヒノハルにアプローチをかけてくるユリアーナに対して思うところはあるのだが、それを表情に出すような女ではない。
普段通りの丁寧な接客をビアンカは心掛けた。
ヒノハルとヨシオカがアミダ商会に関係しているというのは、今や王都の貴族の間では公然の秘密となっていたが、ショウナイとヒノハルが同一人物であるというところまでは知られていなかった。
ユリアーナはここに来ればヒノハルの動向がわかると知って三日と空けずに通ってきているのだ。
本当のことを言えばコウタは毎晩アミダ商会に帰ってきて自室で寝ているのだが、ビアンカもわざわざそれを教えてやるつもりはない。
もしも聖女の魅了魔法(チャーム)が発動していたら、いかにビアンカがコウタに恩義を感じていようともユリアーナに真実を話していただろう。
しかし幸いなことにアミダ商会の建物内は賢者吉岡の結界が幾重にも張り巡らされていて、この内部で魔法を発動させることは不可能だったのだ。
「今日は香水を見せてもらいにきましたの」
ユリアーナはにこやかに来訪の目的を告げた。
「ありがとうございます。どういった系統の物をお求めですか?」
香水は一般的に花の香りのフローラルや柑橘類やベリーなどのフルーティ、香辛料を使ったスパイシーなどの系統に分類される。
アミダ商会ではコウタが適当に仕入れてきた50種類前後を取り扱っており、その系統も様々だ。
「やっぱり、薔薇の香りがいいですわ」
グローセルの聖女も一番人気のフローラル系、その中でも最も好まれる薔薇の香水を所望した。
この世界においても薔薇は花々の女王だった。
「こちらなどはいかがでしょう?」
レベッカは評判のよいいくつかの香水を取り出し試香紙(ムエット)につけてユリアーナに手渡していく。
「そうですわね……ヒノハルさんはどんな香りがお好みかしら?」
そう言った時の聖女の表情にビアンカは戦慄を覚えていた。
清純な乙女と
かつてビアンカは貧苦に喘ぎ、身体を売るために夜の街角に立っていたことがある。
思い出したくもない過去だったが、その頃の記憶が急に蘇った。
一度だけだが、その地区でトップと呼ばれる娼婦と話をした時のことだ。
「なんだかわかんないけど、自然とわかっちゃうんだよね。男が何を求めているのか、どう動けば喜んで、どう舐めれば身悶えするのか。そして、どうすれば私の言うことをきいてくれるのか」
ビアンカは聖女の表情に、あの言葉を発した娼婦の凄みのようなものを見て取ったのだ。
いや、あの時の娼婦など今のユリアーナに比べれば足元にも及ばないのだろう。
ビアンカはクラクラする頭で一つの香水瓶を取り出した。
それが何という香水であるかも気が付いていなかった。
「あら、これまでの物とは少し系統が違うような……」
ユリアーナの声にビアンカはハッとして改めて香水瓶をみた。
「これはナエマという名前の香水でございます」
「不思議な香り……」
フローラルだけではない。
その香りはグリーンノートを感じさせる爽やかさとフルーティーな広がりも持っていた。
渡された試香紙を吟味するように嗅ぎながらユリアーナはうっとりとため息をついた。
「ナエマって不思議な響きの名前よね」
ビアンカはコウタから聞いた逸話を思い出した。
「ナエマは砂漠の国に住んでいた双子の女王の一人だそうでございます」
「砂漠の王女……」
それは「千夜一夜物語」に出てくる話の一つだった。
ある国にナエマとマハネという双子の王女がいた。
王女たちの顔は瓜二つで大変に美しかったのだが、その性質はまるで異なるものだった。
ナエマは好奇心旺盛で情熱的、一方マハネの方は優しく思いやりに満ちており、忍耐強い娘でもあった。
ある時、この国に年老いた預言者がやってきた。
国王は予言者を手厚くもてなしたので、彼は感謝のしるしとして二人の姫の運命が閉じ込められた二つの小箱を与えた。
そして「正しい時が来るまで開いてはならない」と言い残して去っていった。
ナエマとマハネは美しく健やかに成長し、年頃の娘らしく一人の王子に恋をした。
ただ、不幸にも同じ顔をした姫たちは同じ王子に恋をしてしまったのだ。
若く、積極的に自分の人生を切り開きたいとするナエマはこの恋の行方がどのようになるのかを知りたがった。
そして、ついに誘惑に抗えずに『運命の小箱』を開けてしまう。
マハネの箱には水の流れが封じられていた。
どんな形にでも優しく寄り添う安らぎの象徴であり、生命の源である水が。
では自分の箱はと中をみると、そこにあったのは炎の花だった。
炎は愛の象徴ではあるが、その激しさゆえに周りの全てを焼き尽くしてしまう性質を持つ。
ナエマはこれを見て己の運命を悟った。
王子をマハネに譲ることを決意したナエマは人知れず黙って姿を消してしまうのだ。
「この香水は、そんなナエマの強さと優しさという二重性を表現したものだそうです」
ビアンカの説明を聞いていたユリアーナは突然スクッと立ち上がった。
「あの……?」
「帰ります」
狼狽するビアンカを置いてユリアーナはもう戸口の方へと歩き出していた。
お付きのメイドがビアンカに頭を下げると慌てたようにユリアーナの後を追った。
◇
表に出るとカリーナは心配そうにユリアーナに声をかけた。
店に入ったあたりまでは至極機嫌が良かったのだが、今は珍しくふさぎ込んでいる様子だ。
「お嬢様、どうされましたか?」
ユリアーナはまっすぐ前を見たままだ。
「別に……。ただ、つまらない話を聞いて気分が悪くなっただけよ。私なら……運命なんて気にしないわ。未来のことなんてどうでもいいことですもの」
「お嬢様……」
唇を軽くかんでいたユリアーナだったが、憂いの表情は長く続かなかった。
馬車に乗り込むころには、もういつもの慈愛に満ちた聖女らしい顔に戻っている。
「ダンジョンの入り口とアミダ商会に見張りをつけなさい。ヒノハルさんが戻り次第行動を開始しますわ」
「承知しました……」
「エマ・ペーテルゼンにも、そろそろ役に立ってもらわないといけないわね」
バッグの中に忍ばせた「調教の首輪」を一撫でしてユリアーナはにっこりと微笑んだ。
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