第98話 焦燥と情熱

 気持ちの良い朝だったが少し寝坊してしまった。

昨夜はビアンカさんと遅くまで話をしていたからな。

特に印刷機の話をしたら眼を輝かせていた。

あの人は本に対して信仰に近い感情を持っているような気がする。

新聞やエステのことも手伝ってくれると言っていた。

とりあえずバッハ君に続いてビアンカさんという人材も得られて万々歳だ。


 兵舎に入ると廊下の向こうにエマさんの姿が見えた。

「おはようございます。風邪の具合はどうですか?」

「……おはようございます。もう平気です」

エマさんはじろりと俺を睨みつけて去ってしまう。

まるで初めて会った時のようだ。

あれから一緒に仕事をこなすうちに仲良くなれたと思ったんだが、どうしたんだ? 

今朝はやけに不機嫌だが。


「あ、フィーネおはよう。エマさんがさ――」

「おはようございます。私、急いでるから」

フィーネも無愛想に行ってしまう。

何かあったのか? 

嫌な予感がするのでクララ様のところへ挨拶に行く前にハンス君を探した。


「ハンス君!」

「あ、コウタさん……」

ハンス君まで様子がおかしい。

どうしたっていうんだよ。

「君まで俺を無視するのかい? みんな今朝は俺を避けているみたいで困っているんだよ」

「そんな、避けるなんて……」

ハンス君も歯切れが悪い。

「なにかあったの?」

「えーと……噂になっているんです。コウタさんが昨日、摘発した街娼と二人でどこかにしけこんだって」

あっ! 

昨夜はビアンカさんの手を引いて、分隊を置き去りにしちゃったんだよな。

これは拙い。

「もう、大分広まってるの?」

「ええ。ヒノハル伍長が好みの女をかっさらっていったって、アーレント伍長たちが散々愚痴を言ってましたから」

それでエマさんもフィーネも俺を白い眼で見ていたのか。

「もしかしてクララ様も……?」

「ご存知です。お嬢様エマが散々悪態をついていましたから」

たぶん、話し合えばわかってもらえると思うが、困った事態だな。

兵舎の奴等も俺が昨晩はビアンカさんとお楽しみだったと勘違いしているのか。


 重い足取りで執務室へと向かいドアをノックする。

「おはようございますクララ様」

「おはよう。昨晩は遅くまでご苦労だったな」

クララ様の様子は普段と変わらない。

「コウタは明日から分隊を率いて徴税官の護衛任務だ。ドレイスデン近郊の村々をまわってもらうぞ。期間は一週間程度を予定していると聞いた。詳細は徴税官殿と会って詰めることになる。この後すぐに財務省に行くから同道するように」

一見、いつものクララ様に見える。

だけど、なんか無理をしている気がするんだよね。

「クララ様」

「どうした? 何か話でもあるのか?」

うん、やっぱりおかしい。

無理に平静を保っている感じがする。

「すでに噂はお聞き及びですか?」

尋ねてみるとクララ様の顔が曇った。

「うむ……。昨晩のコウタの話であろう」

そんなに心配そうな顔をしなくても大丈夫ですよ。

さっさと真実を話して安心してもらおう。

「実は摘発した者の中にビアンカさんがいました」

「ビアンカとは、コウタのところに通いで来ている女中のことか?」

「ええ。少し長くなりますが、お話をよろしいですか」

「聞こう」

昨晩のことをクララ様に全て伝えた。

それこそ、細大漏らさずに全部だ。

「そうか。私もビアンカの仕事ぶりなら見ているからな。彼女がコウタ達の仕事を手伝うことに何の異存もないよ」

安堵した様なため息をクララ様がつく。

「私が摘発した娼婦を抱いたと思いましたか?」

にこやかに聞いてみた。

「それはないだろうと思っていた。コウタは人の弱みに付け込むような人間ではない。ただ、男は我慢が出来なくなる時があるという話も聞いていたのでな……。もしかしたら、料金を払ってだな……」

たしかにムラムラする夜はあるよね。

「そんなこと誰から聞いたのです?」

「フィーネとエマだ。主にフィーネだが……」

あいつらか。

どっちも彼氏すらいないくせに、彼氏持ちのクララ様に偉そうに講釈を垂れたな。

ちょっと面白いけど……。

「残念ながら完全に否定はできませんね。正直に言えば情欲が高まる夜もあります。ただ、私はクララ様を裏切るようなことはしません」

「ん……。その……すまんな」

「はい?」

なんで謝るの?

「私のせいでコウタは……つらいのではないか?」

ああ、それを気にしているのか。

「大丈夫ですよ。その時が来るまで私は待てますから」

この世界では一般的に婚前交渉はいけないこととされている。

特に社会的な階級が上の者ほどその建前をよしとする傾向がある。

もっとも結婚後は男女ともに愛人を作ることが多いそうだから倫理観とか道徳観はどうなっているのかよくわからない。

ちなみに平民は結婚前でも比較的自由恋愛を楽しむようだ。

恐らくだが、相続する財産や身分のあるなしが大きく関わっているのだろう。

「コウタ、その……、最後まではダメだが、なんというか……コウタを楽にしてやれることなら私でもできるのだが……」

真っ赤になりながら絞り出すようにクララ様が囁く。

気持ちは嬉しいのだが無理をしていると思うぞ。

「本当は私だって一刻も早く貴方と結ばれたいです。ですが、クララ様に無理をさせてまで――」

「私も不安なのだ」

ポツリと漏らしたままクララ様は俯いてしまう。

俺たちには厳然とした身分差がある。

クララ様が未来に不安を感じることは仕方がないと思う。

気持ちを繋ぎとめるために、俺を慰めようなんて随分思いつめてしまったようだ。

クララ様の思いやりなんだろうけど、そういうことは楽しんでやった方がいいと思う。

これは少し計画を急いだほうがいいかもしれない。

ザクセンス王国において、爵位は無理だが騎士の地位は金で買える。

とっとと騎士になって、もっと大っぴらにクララ様と一緒にいるべきだな。

そうすればクララ様も少しは安心してくれるだろう。

「クララ様、もう少しの辛抱です。そろそろ準備も整ってきましたから私も騎士の位を手に入れるために動き出しますよ。大丈夫、誰からも後ろ指をさされないような地位と財力を手に入れて、貴方に結婚を申し込みますから」

両目に涙を溜めて頷くクララ様が可愛い。

結婚するまで肉体関係はない方がクララ様のためかと思ったけど、もう少し踏み込んだ方が良かったのかもしれない。

秘めた逢瀬、秘密の共有、ささやかな情事……、どれも二人の心をより親密にしてくれると思う。


 差し伸べるとクララ様は俺の手を握ってくれた。

少し強めに引き寄せて左手で腰をひきつける。

右手は握ったままの態勢。

タンゴのフォームのようだ。

「でも、本当は少しだけ、いえ、もっとたくさん貴方とふれあえた方が私も嬉しいです」

腰に当てている左手で神の指先ゴッドフィンガーをレベル1で発動した。

「コウ……タ? んっ……」

「今の私にはクララ様しか見えていません。心配なんかしなくても大丈夫ですよ」

「う……ん」

いつもより少し深いキスを交わす。

お互いの舌が触れ合ったのは初めての経験だ。

「信じられませんか?」

「そんなことはない……」

クララ様の瞳がとろんと俺を見つめた。


突然、窓の外から神殿の鐘が響いてきた。

クララ様が弾かれたように身を離す。

「いけない! コウタ、急げ。徴税官との会合まで時間が無いぞ」

しまった。

のんびりしすぎたか。

今からもう少し口説いて、今夜はもっと更にラブラブな夜を過ごそうと思ったのに。

これじゃあラブラブじゃなくて悶々の夜になりそうだな。

「さっさと行くぞ」

「はい」

気を取り直してクララ様にマントをかけてあげる。

「コウタ」

「なんでしょうか?」

「続きは帰ってからだ」

足早にドアの方へ行ってしまったのでクララ様の表情は見えなかった。

きっと顔を真っ赤にして、いつものように大真面目な表情でおっしゃっていたのだろう。

やっぱり俺はこの人以外は目に入りそうもないな。

俺も足を速めてクララ様を追いかけた。

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