第85話 ディナーへのご招待
アパートに帰るとフィーネは吉岡と文字の書き取りをしていた。
最近では俺が翻訳した子供向けの童話をすらすらと読めるくらいには成長している。
装丁のしっかりした本などではなくパソコンで書いたものをコピー用紙にプリントアウトしただけだがフィーネは喜んでくれて、ことあるごとに新しいものをねだってくる。
これまでに渡したお話は全て大切にファイリングしてあるそうだ。
この世界では本がとても高価だ。
一冊ずつ手書きで作っているのだから当然そうなる。
俺たちも日本から持ってきた活版印刷の技術をザクセンスに導入しようとしている最中だ。
まずは印刷機を作れそうな職人を探さなくてはならない。
ノルド教の聖典を印刷する約束をイケメンさんとしてしまったので頑張らないとな。
時刻は夕方の五時になろうとしていた。
太陽は大分傾き、西向きの窓からはオレンジ色の光が室内に差し込んでいる。
「フィーネは勉強熱心だよな」
「読み書きはできた方がいいじゃないですか。それに本を読むのがこんなに楽しいとは思わなかったです」
ザクセンスの識字率は低い。
けれども俺や吉岡はおろかハンス君も読み書き計算はしっかりできるのでフィーネとしてはコンプレックスを抱えていたようだ。
今は純粋に文字を読む喜びがわかってきて、乾いたスポンジが水を吸うように、貪欲に知識を吸収しようとしている。
頑張っている人はちゃんと応援してあげたい。
今晩あたりイソップかグリム童話あたりから一つ翻訳してやることにしよう。
ホルガーと飲んだアルコールのせいで頭がしゃんとしない。
巡回に出かける前に濃いコーヒーを淹れてカフェインの援軍を要請した。
大きな洗濯桶に水がたっぷりと張られていた。
ここはグローセル地区にあるツェベライ伯爵家の洗濯場だ。
普段は使用人しか立ち入らない場所だが、今日はこの家のお嬢様がここを使うにあたり、侍女のカリーナを除いて人払いがされている。
「さて、始めましょうか。カリーナ、袋を」
ドレスの腕をまくって襷たすきでとめたユリアーナがやる気を見せている。
だがユリアーナが洗濯をするわけではない。
実際に行うのはメイドのカリーナだ。
ユリアーナはその監督をして一緒に洗濯をしたという気分を味わうだけだ。
そもそもユリアーナはどのように洗濯が行われるかを知らない。
カリーナから受け取ったリネン袋に手を突っ込み、最初に引っ張り出したのはシャツだった。
「大きなシャツ……」
うっとりしたようにユリアーナは顔を上気させた。
そして、そのまま両手でつかんだシャツの中に小さな顔を埋めて鼻から大きく息を吸う。
「お嬢様、ずる……はしたないです」
カリーナの制止を聞くようなユリアーナではない。
「ああ……ヒノハル様の胸に抱かれているような気がします」
暫くシャツに顔を埋めたまま、ユリアーナはじっと何かを感じ取ろうとしているかのようだった。
「お嬢様?」
「いい匂いがします。ヒノハルさんの匂いに混じって不思議な香りが」
それは単なる洗濯洗剤の匂いだが、ザクセンス人のユリアーナには正体がわからない。
カリーナもどさくさに紛れてコウタのシャツの匂いを嗅いだ。
「クラクラしてしまいます……」
「ああ、洗濯してしまうのが勿体ないくらい……」
ユリアーナは名残惜しそうにシャツを盥たらいの中に落とした。
「次は何かしら…………まあ、これは下着?」
ユリアーナの手にはコウタのボクサーブリーフが握られていた。
色はグレーでごくありふれたシンプルなデザインのものだが、ユリアーナとカリーナにとっては初めて見る形状だ。
「大柄なヒノハル様のものにしては小さいですね」
「でも、この布は随分と伸び縮みするわ。ほら見てごらんなさい。こんなに伸びるわ」
ユリアーナが楽しそうに下着を引っ張る。
ザクセンスではこのような伸縮性のある布など珍しい。
「これならヒノハル様でもお履きになることが出来ますわね」
「でも、ずいぶんとぴったりした下着ですこと」
「…………」
二人して同時に黙り込み、同じ想像をしていた。
そして次の瞬間には照れを隠すように同時に笑い出した。
「あははっ、いやですわカリーナったら。いけない想像をしましたね」
「お嬢様こそ」
二人の笑いは中々止まらなかった。
だが、急にユリアーナが熱をおびた目でカリーナを見つめた。
カリーナは心臓がどきりと高鳴る。
こういう目をする時、いつもユリアーナはなにかとんでもない命令をしてくるのだ。
大抵の場合は恥ずかしいことや、思わずカリーナが困ってしまうことが言いつけられた。
でもそれらの羞恥に塗れた命令は、実はカリーナの心の奥底にある願望と合致していることが多いのも事実だった。
「ねえカリーナ、お願いがあるの」
きた、とカリーナは身構える。
表面は困った様な表情を見せながら、心の中では期待に胸を膨らませながら。
「なんでしょうか?」
ほとんど泣きそうな声を出しながらカリーナは聞いた。
「この下着をはいて見せてくださいな」
「そ、それは!」
聖女の表情が妖艶な色をおびていく。
「殿方がこれを履いたらどのような姿になるか見たいのです。お願いカリーナ。貴方が引き受けてくれなければホイベルガーに頼まなくてはならないのよ」
カリーナは心ひそかにユリアーナに感謝した。
コウタの下着を身につけるのはカリーナの願望そのものだった。
「か、畏まりました」
異様な興奮が身を包み、二人の身体は熱く燃え上がった。
「さあ、貴女の下着を脱ぎなさい」
「あんっ、前が引っかかってうまく脱げません」
「もう、カリーナったら」
世間の普通と少しだけずれている少女たちの洗濯は続く。
朝食を終えて午前の任務に就こうとしている時だった。
今日は貯水池の取水口のところに張った氷を割る作業員の監督を一人でやらなければならない。
同僚たちはそれぞれの任務に出て行ったが、俺だけ一人で部屋にもどった。
冷え込みがきつそうなのでミドルウェアを足そうと思ったのだ。
フリースを着込んで外套をつけていると俺の「犬の鼻」が兵舎には似つかわしくないフローラルな香水の匂いを感じ取った。
聖女が来たんだ!
慌てて隣のベッドの下に身を隠す。
「あら、いらっしゃらないわ」
「もうお出かけになってしまったのでしょうか」
ユリアーナとカリーナの声が聞こえる。
ベッドの下からそっと覗いてみるとフード付きのコートを着た二人が見えた。
それでも大騒ぎにならないように身分を隠して来たらしい。
匂いから判断するにホイベルガーなどの護衛騎士たちも近くにはいないようだ。
だけど、こんなに簡単に聖女たちの侵入を許すなんて、駐屯所の警備体制はどうなっているんだよ。
「仕方がありませんわ。洗濯して差し上げた服をしまいましょう」
ごそごそと音が聞こえる。
ベッドの横に据え付けられた俺の棚に服をしまっているようだ。
その後、ユリアーナたちは二人して俺のベッドで寝転がったり、枕を二人がかりで抱きしめたりと、訳の分からない遊びをしてからようやく帰る素振りを見せた。
「いらっしゃらないなら仕方ありませんね、またお昼にでも来てみましょう」
今日の昼は外で食べることに決定だな。
二人の足音が充分遠ざかってからベッドの下から這い出した。
廊下の様子を慎重にうかがいながらクララ様の執務室へ移動した。
労働者たちに支払う賃金を貰わなければならない。
「クララ様、今日のお昼なんですが――」
俺は事情を話して、外で昼を食べてくる許可を貰った。
「少々困った事態だな」
クララ様もうんざりとした表情だ。
「迷惑だと告げれば、兵舎の前で跪いて許しを乞うでしょう。あの人なら本当にやりますんで」
たぶん俺一人が悪人にされる。
「わかった。そういうことなら致し方ないか」
「距離を置きたいので当面はアパートから任地へ通うことも許していただきたいのです」
クララ様の顔が少し寂しそうだ。
「そうか……」
「もちろんご用がある時はすぐに伺いますし、私の部屋に遊びに来ていただいても構いませんよ」
意味がよく理解できないと言った顔でクララ様が俺を見つめてくる。
「私がコウタの部屋へ?」
「二人でご飯を食べるのもいいですね。料理は上手ではありませんがパスタだけは得意なんです」
「二人で夕食を……コウタの部屋で」
「ええ。クララ様が来て下さるんなら頑張っちゃいますよ! 部屋中にキャンドルをいっぱい灯して、とっておきのワインを開けて、茄子とエビを入れたトマトソースのスパゲッティーニを作ります」
「……二人っきり?」
クララ様が嬉しそうに微笑んでいる。
「いつがよろしいですか?」
「今夜」
俺の騎士様は即断即決を信条にしている人だった。
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