第55話 クララの触れたもの、コウタの触れたもの
パソコンなるものを使って文字を作っていく作業は楽しかった。
どのような仕組みで動くのかは皆目わからないが、文字の作り方やマウスと呼ばれるものの動かし方は感覚で理解できた。
コウタの言葉を借りればグラフィカルユーザーインターフェイスというらしい。
画面上のボタンや画像などを選択する事でリアクションを発生させる仕組み故に、初心の者でも比較的簡単に操作ができるということだ。
出来上がった文字をキーボードで打ち込んでみよう。
シールという紙にザクセンス文字を書いてキーボードに張り付けてあるが、どこに何の文字があるかはまだ覚えていないので難しかった。
試しに自分の名前をうち込んでみた。
クララ・アンスバッハ
コウタ・ヒノハル
苦労して打ち込んだ文字を眺めて顔がにやけそうになるのを一生懸命堪えなくてはならない。
私は阿呆だろうか。
パソコンの画面に二人の名前が並んでいるだけで幸せな気持ちになるなんて。
「バックスペースを押せば文字を消せますよ」
あ、こら、まだ消さないでくれ。
もう少しだけこの気持ちのままでいたいのだ。
「どうぞ、クララ様もやってみて下さい。ちょっと失礼します」
そう言うとコウタは立ち上がって体を伸ばし始めた。
ずっと座っていたから全身が凝り固まっているのだろう。
人のコリはほぐしてやれるのに自分にマッサージをすることが出来ないとは皮肉なものだ。
画面の上にはまだ二人の名前がそのまま残っている。
バックスペースか……、突然に私は子供じみたいたずらを思いついた。
クララ・ヒノハル
文字の上の絵空事。
バックスペースをさらに数回押せば消えてしまうテキストの羅列。
10文字にも満たない記号が人の胸をここまで締め付けるものなのか。
コウタがストレッチを終えて戻ってきたので慌てて全ての文字を消した。
画面上の呪文はキャンセルされたのに、私の心は甘い痛みを伴う幸福の魔法の中から抜け出せないままだった。
「お疲れ様でした。何か飲み物を入れましょう」
「うん。流石に肩がこったな」
自らの動揺を誤魔化すように首を回して見せた。
苦しいのは肩ではなくてこの胸の内だ。
「よろしかったらマッサージをいたしましょうか?」
「うっ」
どうしてコウタはそんなに気軽に!
お前が私に触れれば、私の気持は引き返せなくなるところまで連れて行かれてしまうのだ。
コウタはザクセンス人になる覚悟があるのか?
祖国を捨て、この国の貴族となり、私と人生を共に歩んでいく覚悟が。
翻って私はどうか?
爵位などなげうってコウタと共に異国の地へでも旅立てればどんなに幸せかと思う。
領民を見捨て、ギリール人の故郷を捨てて私だけが幸せになることが正しいこととは思えない。
だが、もしコウタが私を愛してくれれば、私は心に残った良心など小枝を暖炉に放り込むようにあっさりと捨てることが出来てしまう気がするのだ。
だからこそ私はこの現状に恐怖を感じている。
「コウタは……コウタは平気なのか?」
私と同じように感情が高ぶったり、喜びを感じたりはしてくれないのだろうか。
「何がでしょうか?」
女としての私に魅力がないことなどわかっている。
でも、私は女なのだ。
「コウタは私の身体に触れて……その……何も感じないのだろうか」
コウタの気持が知りたい。
「そ、そうですね。畏れ多いことを言いました。お許しください」
「そうではないのだ。そういうことでは……」
覚悟を決めて踏み込んだ斬撃をあっさりと躱された気分だ。
私は焦りすぎているのだ……。
「ホットレモンを作りましょう」
少し落ち着いたほうがいいな。
今夜は自分の感情が抑制できなくなっているようだ。
これ以上コウタの心に踏み込んで、もしもコウタがどこかへ行ってしまったらどうするというのだ。
私の呼びかけには応じず二度とコウタを召喚できない事態を想像して、私はらしくもなく怯えた。
今夜は飲み物を飲んで寝てしまおう。
そうすれば夜が明けた時にはいつもの二人の関係に戻れているはずだ。
けれども私の考えとは裏腹に夜はその濃さを増し、手探りで進む私の手は怪しげにコウタの心に触れてしまう。
これは運命神の導きか、はたまた単なる戯れなのだろうか。
画面上の女は優しくこちらに微笑みかけていた。
これがコウタの妻だった女か。
「この人は?」
白々しくも聞いてみる。
「別れた元妻です」
答えは聞く前からわかっていた。
「美しい人だな……」
事実ゆえに胸が痛んだ。
この女が醸し出す家庭的な優しさは私にはないものだ。
そして思考が停止している私は無意識にとんでもない質問をしてしまった。
「まだ……愛しているのか?」
口に出してすぐに後悔した。
別れたばかりのコウタになんということを聞いてしまったのだろう。
こんな質問は傷口をえぐるような行為じゃないか。
「もう愛してはいないのだと思います。ですが、愛していた事実が希薄になるほどの時間はまだ経ってはおりません」
コウタの答えに私は何も言えなかった。
「さあ、ホットレモンをどうぞ。冷めないうちに召しあがってください」
マグカップを受け取ると、コウタはその手で写真を画面から消してしまった。
刺さった棘が残ってしまったようにチクチクといつまでも胸が痛む。
こんな気持ちは嫌だ。
いっそ切り裂かれてしまった方がずっと楽だ。
こんなつらい気持ちのままでいるくらいなら……。
私は手の震えを悟られないようにマグカップを置いた。
「マッサージをしてくれないか。……少し……つらいんだ」
これ以上は耐え切れそうもない。
私はコウタに身をゆだねる覚悟を決めた。
初めて肩に触れたコウタの手には迷いがあった。
だから私はコウタの手の上に自分の手を重ねる。
どうせ私の感情は止められない。
だったらコウタの手で取り返しのつかないところまで連れて行って欲しかった。
この重ねた手は貴方の共犯になるという私の決意だ。
「はじめます」
指に力がこもり、私は快楽の吐息を漏らした。
コウタの指を通して優しさが染み入ってくるようで身体がどんどんほぐれていく気がする。
アキトがいつもマッサージを欲していたが今ならその気持ちがよくわかった。
これは大変に素晴らしいものだ。
こんなに長く男の人に触れられたのは初めてで恥ずかしいのだが、羞恥など忘れてしまいそうな魅力がある。
そんなことを考えていたら、突然マッサージの質が変化した。
まるでもう一段深いところをもみほぐすような快感が心までもほぐしていく。
やがて私の中の恥じらいはどんどん薄らいで、陽光に当たる薄氷のように溶けてなくなってしまった。
だが、コウタのマッサージはそれだけでは終わらなかった。
今度はさらに気持ちの方がフワフワと心地よく、この上もない多幸感に包まれていくのだ。
我知らず私は呟いていた。
「コウタ、私は貴方を愛しているのだ。貴方が望むのならば爵位などいらない。共に異国をさすらう身になっても決して後悔はしません。だから貴方のそばに……」
天上の空気に包まれたような穏やかさと幸福感の中で、私はそのまま眠りについていた。
目を覚ますと私は自分のベッドの中にいた。
部屋の中には誰もいなかったが身を守るように思わず毛布を被る。
昨夜のことを思い出して心臓が早鐘のように鼓動を速めた。
「やってしまった……」
夢ではない。
夢にしてはやけにリアルなコウタの指使いを私の頭と体がはっきりと覚えていた。
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