第35話 必要なモノだけ持っていこう

 前回召喚された日から6日が経った。

今日はバッティンゲンという小さな町に宿泊だ。

宿泊と言っても俺と吉岡は向こうの世界に帰るんだけどね。

この六日間の移動距離は211キロメートル。

エッバベルクからだと430キロだ。

だいぶ王都に近づいてきたぞ。

宿代を節約するために宿泊前に送還してもらうことにした。

だって宿代を出すのはクララ様だ。500マルケスくらいの料金だけど、少しでも負担は軽くしてあげたい。

こちらの時間で夕方の5時に送還、日本時間で12月18日土曜日の午後8時に戻る。

「明日は何時に再召喚すればよいかな?」

クララ様が召喚時間を聞いてくる。

これから送還してもらっても土曜の20時だ。

買い物をしている時間はあまりない。

だとしたら明日の10時に店が開くのを待ってから仕入れになる。

少し長めに時間を貰えればありがたい。

「どうせ明日もバッティンゲンにもう一泊するつもりだ。だから時間を気にする必要はないさ。ブリッツの足を休めてやらないといけないからな」

馬にも休息は必要だ。

プレートアーマーを着込んだクララ様を430キロも運んできたんだ。

少しはいたわってやらないとな。

日本では忘れずにブリッツの好物のリンゴを買ってきてやるとしよう。

「どうする吉岡?」

「商品の仕入れはめぼしい店を夜中にネット検索しておきます。10時になったら手分けしてまわりましょう」

「それでいいと思うよ。じゃあ再召喚は3時くらい?」

「俺としては2時でもいいくらいです」

吉岡の意見を採用して再召喚は翌日の日本時間で14時になった。

こちらの時間で午前11時だ。お昼の材料を買ってくれば丁度よさそうだった。



 狭間の部屋でマルケスを円に換えた。

100万円の束が5つと1万円札が12枚。

「とりあえず先輩が持っててくださいよ。そんな大金を持ち歩くのは嫌です」

俺だって空間収納が無かったら絶対に嫌だったと思う。

「わかった。でも明日の買い物の時はどうする?」

別れて買い物をするなら吉岡も現金を持ち歩かなければならないだろう。

「しょうがないからカードで立て替えておきます」

「でもさぁ、吉岡のカードの限度額っていくらよ?」

「あ、そうか……」

クレジットカードには限度額というものがあるのだ。

明日購入するものはかなりの値段になる。

たとえ今回は購入できたとしても、俺たちが向こうの世界へ行けばこちらでの時間は止まる。

次回に来た時は確実に限度額を超えて購入不可能になるだろう。

「やっぱり二人で行動するしかないですね」

考えてみれば大きな荷物を持って街をうろつくのだって危険だ。

食器が割れてしまっては目も当てられない。

購入したらすみやかに空間収納に入れるべきだろう。

「じゃあ、明日の集合場所は店が決まったらメッセージを入れといてよ」

「了解」

しゃべりながら狭間の小部屋を後にした。


 赤いドアをくぐればそこは新宿だった。

吉岡がスマートフォンの電源を入れたので真似して俺も入れてみる。

明日はこっちも晴れるようだ。

天気予報を見るまでもなくスキルで分かった。

吉岡と別れて家へ帰ることにした。


 突然、手の中のスマートフォンが震えてびっくりする。

久しぶりの感覚なのでかなり驚いた。

これを異世界ボケというのだろうか。

見ると絵美からのメッセージだった。


――夕飯はどうするの?


しまった、すっかり忘れていた。

絵美と最後に言葉を交わしたのは俺の感覚では2週間くらい前の朝だ。

だけど絵美にとってはまだ半日前の出来事なんだよな。

いい加減二人のことをちゃんと考えないといけないと思う。

俺たちはまだ夫婦なんだ。

もしも……もしも絵美が俺のことを必要としてくれるなら、その時は絵美の要望を最大限優先しよう。

最悪の場合、俺はもう異世界に行っても危険な契約はしないし、長い拘束時間も拒否しないといけなくなるだろう。

だけど、絵美がもう俺を必要としないならば……。

例えどうであれ、今晩は恐れずきちんと向き合ってお互いの話をしてみるか。

今の俺なら何でも聞けるし、何を言われても大丈夫だと思う。

勇気だけは昔の俺の6倍はあるんだから。

「もしもし、うん……今新宿。……ああ、すぐに帰るよ」

中央線が駅のホームに入ってきた。




 日野春絵美は冷たくなった夕食を見ながら考えていた。

自分が夕飯を作ったのは何日ぶりかしらと。

夜の7時には戻るといった夫は8時になっても帰って来なかった。

腹が立ったが考えてみれば自分はまともに家にいることもない。

夫婦の会話もここ数カ月碌にないのが実情だった。

さっき夫から電話があり、様子から電車に乗る直前だったみたいだからもうそろそろ帰ってくるだろう。

今日こそは夫に伝えなければならないと、絵美はある覚悟をもって日野春公太を待っていた。

 鍵の開く音がして夫が帰ってきたことがわかった。

「ただいま」

見上げた夫の顔に絵美は少なからず衝撃を受けた。

この人はこんな顔をしていたのだろうか? 

この数か月間まともに顔すら見てこなかった結果がこれなのだろうか。

夫はいつの間にか絵美の知っているのよりずっと精悍な顔つきになっていた。

この人は優しいけどもっと頼りなげな顔をしていなかったか? 

まともに向き合ってこなかった時間を反省はしたが絵美の覚悟はもう決まっていた。

今更引き返すことなど考えられない。

「あなた、話があるの」

そう言うと夫は静かに向かいの席に座った。

「聞こうか」

夫にいつものおどおどした態度がない。

それが不思議で絵美の心はざわついた。

だけど……。

明確に伝えたいことはシンプルな言葉を選ぶべきだと絵美は常々思っている。

だから今晩も絵美は最小限の言葉を選んで公太に伝えた。

「離婚してほしいの」

一瞬、夫の身体がピクリと動いたがそれ以上の動揺を見せることなく静かに口を開く。

「理由を聞かせてくれないかな」

彼にとっては当然の権利だ。

せめて正直に話すことが、私が彼のために出来る数少ない事柄の一つだと思った。

「好きな人が出来たの。一緒にプロジェクトを進めている別会社の人よ」

出会いは11カ月前になる。

同じ仕事をすすめ、共に苦労し、喜びも分かち合い、いつの間にか愛情が芽生えていた。

夫のことを嫌いになったわけではなかったが、その人のことをより深く愛してしまったのだ。

体の関係はまだないが夫と別れて自分と再婚してほしいとプロポーズをされていた。

何度か迫られはしたが、夫との関係を清算しない内は前には進めないと思っていた。

ここ数カ月悩んでいたがせめてそこだけは誠実であろうと思ったのだ。

そんなことを夫に説明した。




………

やべえ……。

何がヤバいかって?

びっくりするくらい動揺していない俺がいるんだよ。

そりゃあ悲しいよ。

愛している女から別れを告げられたんだ。

悲しいに決まっている。

だけどさ、動揺はしてないんだよね。

これはスキルのせいじゃないな。

予想していたから? 

それも違うな。

なんとなくこうなるとは思っていたけど、覚悟ができていたわけじゃない。

もう俺の心は異世界に在って、絵美は邪魔でしかなかったから? 

そんなことはない。

いつも心の半分はこちらにあったさ。

そうではなくて今この瞬間に俺の覚悟が決まったんだと思う。

俺は異世界で自分の思うままに生きてみようという覚悟がだ。

これまでは危険なことをするたびに絵美の顔がちらついていた。

王都警備隊の任務もあまりにやばそうなものなら断ろうと思っていた。

だけどもう俺をこちらの世界に縛るものはなくなってしまった。

今更俺が泣いて喚こうが絵美の心を変えることはできないだろう。

だったら俺は俺に与えられる神々からのギフトで、あの世界で存分に生きてみようと思う。

そんな覚悟が決まったんだ。

人間はやりたいことがわかっていれば、傷つきながらも前に進んでいけるものなのかもしれない。

せめて最後はクールに決めてやるぜ。

「こうなることはなんとなくはわかってたんだ。……離婚届は持ってきた?」

絵美は白紙の離婚届を出してきた。

まだ自分の署名捺印はしていなかったのか。

「離婚に際して一つだけ条件を出したいんだけどいいかな?」

「私が悪いんだもの、出来る限りの譲歩はするわ」

そう言ってもらえると話が早くて助かる。

俺は一刻も早くこの未練を断ち切りたいのだ。

「離婚には無条件で応ずる。その代わり明日の朝までに全てを終わらせてほしいんだ。マンションも共同貯金も俺は要らない。ただ今晩中に全てを終わらせて俺を前に進ませて欲しい。この身一つでいいからさっさと出て行かせてくれ」

俺の言葉に絵美は少なからず衝撃を受けたようだ。

「それで……いいの?」

「ああ」

四年間の夫婦生活が今終わりを告げようとしている。

「おかしな感じね。離婚を申し出たのは私なのに、まるで私が捨てられるみたい」

その時、俺が感じていたのは罪悪感だ。

絵美の言う通りなのだろう。

絵美が俺を捨てるように、俺も絵美を捨てるのだ。

「これでよかったんだよ。お互いの罪悪感が多少なりとも薄まるだろう?」


 離婚届を書いた俺は自分の荷物を車に放り込んだ。

持っていくのは登山道具と貯金通帳に着替えとパソコン関係、本も数冊持った。

これだけで十分な気がした。

「残りは全部捨てといて欲しいんだ。頼んでもいいかな?」

「本当にもういくの? こんな早い展開になるなんて予想もしてなかった……」

「元気でな……」

短い言葉で別れを告げると目に涙が溢れてきそうになった。

慌てて踵を返して階段を駆け下りる。

エレベーターを待っていたら涙を見られてしまいそうな気がしたのだ。

自動車に乗りこんでようやく一息付くとスマートフォンを取り出した。

相手は数回のコールで応答した。

「どうしたんですか先輩?」

「吉岡、お前の胸で泣いてもいい?」

日付はまだ変わっていなかった。

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