第9話 クララの危機
軍手って便利だよな。
作業をする時にはめれば怪我を防止できるし、手も汚れない。
なんでも旧陸軍に採用されていたから軍手というらしいぞ。
軍用手袋を略して軍手だな。
空間収納から軍手を出して、枝を集めた。
雪の上では焚火がうまく燃えないので、太めの枝を手斧とノコギリでぶった切って並べ、
それから手持ちのガストーチで火をつけた。
こいつはポケットサイズなのに1300度の火炎が出せる優れものだ。
充填するガスも卓上カセットコンロのカートリッジが使えて便利だ。
程なくして枝に火がつき凍てつく寒さが和らいだ。
自分も冬山を登るくらいだから寒さには慣れているつもりでいたが、クララ様にはとても
氷点下8度の寒さの中を冷たいプレートアーマーをまとって平気な顔をしているのだ。
騎士というのは凄い精神力をしているのだな。
当分クララ様は帰って来ないだろう。
長めの枝で
枝ももう少し集めたほうがいいな。
周囲を警戒しながらせっせと枝を集めた。
クララは森が少し開けた場所を見下ろせる斜面に立っていた。
矢を打つのに邪魔な枝は周囲にない。
既に鹿の群れは見つけていた。
今、ハスラーが風上から鹿たちを追い込んでいるところだ。
優秀な猟犬であるハスラーならきっとこの場所に鹿の群れを追い込んでくれるはずだ。
自分は風下のこの場所で待てば鹿は必ずここを通るはずだった。
大地の下月(12月)も残すところあとわずかだ。
今年は雪が早く寒さも厳しい。
プレートアーマーを通して体に染み入る冷気は尋常ではなく、クララは思わず身震いした。
先程まではコウタがいたので気を張ってそんな姿を見せないようにしていたが、一人になると寒さに震えがきた。
それにしても……とクララは考える。
コウタは期待以上の従者だった。
自分たちの文化とは少し異なるが、教養もあれば、礼儀作法も知っている。
便利な魔道具をいくつも持っていたし、空間収納や麻痺魔法まで使えるとは思っていなかったからだ。
そして何より仕事に取り組む姿勢が真面目だった。
コウタは「日本人ならこんなもんですよ」と謙遜していたが、その態度がクララにとっては好ましかった。
リアに初めて召喚術式を教えてもらったときは半信半疑だったが、コウタと契約できたことは誠に
時空神に改めて祈りを捧げなければなるまい。
魔力を温存するために最近魔法を使っていなかったが、寒さが限界を超えそうだった。
このままでは低体温症になると判断したクララは身体強化魔法を自身にかけた。
これで筋力や反射能力が高くなるだけでなく、代謝があがり体温も高くなるはずだ。
あと一時間はこの場所で獲物を待ち続けることも可能だろう。
明後日には一度コウタを元の世界に還してやると約束している。
召喚に必要な魔力は自分の全魔力の40%ほどなので余裕はあるのだが、不測の事態に備えてなるべく魔力は温存しておきたかった。
6日に1度は元の世界に還すというのはコウタとの契約で決まっているので破ることはできない。
遠くから風に乗ってかすかにハスラーの吠える声が聞こえた。
うまくやってくれているようだ。
弓に矢をつがえて静かに呼吸を整える。
ハスラーの声がどんどん大きくなってきた。
獲物を狩る高揚感が体の奥底から湧き上がってくる。
命を刈り取る行為ではあるのだが、クララはこの瞬間が好きだった。
普段から理性的に過ごしているクララが生物としての本能に身を任せ、開放的な気分に浸れるからなのかもしれない。
先頭を走る牡鹿に狙いを定めて弓を引き絞る。
狙うのは前足の付け根あたりの心臓周辺だ。
対モンスター用の強弓も先程身体強化の魔法を自分にかけたばかりなので軽々と引くことができた。
「ギャッ!」
矢が貫通した鹿はそのまま十数歩走った。
千鳥足のようになりながらも生への渇望のまま走り続けている。
だがハスラーは鹿の逃走を許さなかった。
「ワン! ワン!」
ブリッツを連れてハスラーの声がする方向へ行くと、雪の上に鮮血をまき散らしながら鹿が倒れていた。
クララは用心深く近寄った。
手負いの野生生物は例え鹿のような草食動物であっても危険なのだ。
だがもはや鹿には体を動かす力は残されていなかった。
「いま楽にしてやる」
クララは腰から短剣を抜き、鹿の喉を掻っ切った。
これはクララの優しさでもあり、心臓が動いているうちに血抜きをしようという実際的な理由からでもあった。
血抜きが終わると獲物をブリッツのソリに括り付けた。
解体はコウタにやってもらうことにしよう。
きっとコウタは焚火を焚いて待ってくれているだろう。
まだ身体強化の魔法は切れていなかったが、クララは早く荷物を置いた場所に戻って暖を取りたかった。
「おかえりなさーい」
赤々と燃える火のそばで大型の愛玩犬のような顔をしたコウタがクララを迎えてくれた。
最近のクララはコウタの顔を見るとホッとしてしまう。
「大きな鹿ですねぇ!」
クララの獲ってきた牡鹿を見てコウタはしきりに感心している。
鹿を見るのは初めてなのか?
「すげー、実物はこんなに大きいんだ」などと言っている。
鹿が珍しい場所に住んでいるのだろうか?
「寒かったでしょう。早く火にあたってくださいね」
「ありがとう」
公太に促されてガントレットを火に近づける。
あんまり近づけすぎると火傷をしてしまうので気を付けなければならない。
「お飲み物をすぐにお持ちします。兜は脱いでしまいませんか?」
「うん」
クララは素直にコウタに身を任せた。
コウタの鎧の扱いは長足の進歩を遂げている。
「はいどうぞ」
ヘルムをとったクララの前に爽やかな香りの飲み物が差し出された。
「いい匂い」
甘く、かぐわしい。
レモン?
いや少し違う。
「ユズと蜂蜜とショウガのお湯割りですよ」
「ユズ?」
「ええ。私の国の柑橘類の一種です」
不思議な香りだ。
これが異世界の香りなのだろうか。
息を吹きかけて少し冷まし、一口すすって驚いた。
「美味しい……」
「それはよかった」
爽やかな香り、蜂蜜の甘味、ショウガの風味が見事にマッチしている。
ショウガのおかげか体も少しホカホカしてきた。
「だが蜂蜜なんて高級なものをどこで手に入れたんだ? 屋敷には今なかったはずだが」
「これは異世界から俺が持ってきたものですよ」
そういってコウタは蜂蜜を見せてくれた。
ペコペコとへこむ不思議な素材の容器に蜂蜜が入っている。
コウタが見せてくれるものは見たこともないものばかりだ。
「蜂蜜のような貴重なものを使わせてしまったのか。すまない」
「いえいえ、これは輸入物の蜂蜜だから安いんです。お気になさらずに」
輸入されたものが安い?
よくわからない。
ふつうは輸送費がかかるぶん異国の品は値段が上がるものではなかろうか。
「この後はどうされるんですか?」
「当然狩りを続けるつもりだ。今回の狩りは行軍訓練も兼ねているのだからな。どうした? もう辛くなったのか?」
「いえ、そうではありませんが、午後から天候が荒れるようです」
見上げた空は青く晴れ渡っている。
気温は低いが天気が崩れる様子はどこにもなかった。
コウタが嘘をつくとも思えなかったが俄かには信じがたい。
「よく晴れているようだがな」
「確かにそうですが、西から低気圧が近づいています。午後から雪が降り始め夕方には吹雪になるはずです」
「わかるのか?」
「はい。自分の能力の一つです」
そこまで言い切るのならば嘘ではないに違いない。
森の中で吹雪という事態は避けるべきだ。
「わかった。少し休憩したら今日は引き上げるとしよう」
たいしたもんだ。
天候の変化までわかるのか。
もし戦場にコウタを連れて行ったら……思わぬ武勲がたてられるかもしれない。
クララは少し冷めたユズ蜂蜜をまた一口すすって思いを巡らせた。
突然、クララの身体に震えがきた。
……まずい。
ずっと寒さの中にいたせいだ。
クララは急に尿意をもよおしていた。
これが戦場であれば覚悟を決めて鎧の中でしてしまったかもしれない。
だが打ち解けあってきたとはいえ、コウタの目の前で事に及ぶのはいやだった。
しかもあたり一面白い雪が降り積もっている。
鎧の継ぎ目からこぼれた小便はさぞ目立つだろう。
今後しばらく一緒にいなければならないコウタにそんなものを見られるわけにはいかなかった。
「コウタ……」
「はい。どうされました?」
「プレートアーマーを脱がせてくれ。……少し……リラックスしたい」
「了解です」
ありがたいことにコウタは何の疑問も抱かずクララの鎧を脱がせ始めた。
プレートアーマーは着せるときは時間がかかるが、脱がすときは半分以下の時間で済む。
日々の練習のお陰でコウタは5分強ですべてのアーマーを脱がすことができるようになっていた。
けれども今のクララにとってはわずか5分間が永遠に続く地獄の責め苦に感じるのだった。
もし自分の恥ずかしい姿をコウタにみられたら……コウタを殺して私も死のう!
またはコウタをアンスバッハ家の婿に迎えるしかない……。
我ながら鎧の脱着が上手くなったもんだ。
今日は脱がすのに5分かからなかったんじゃないか?
記録更新だぜ!
「少し周りを見てくる。コウタは火の番をしていてくれ」
鎧を脱いだクララ様は剣を掴むと足早に林の中へ消えていった。
まさか!
モンスターの気配でも感じたのか!?
そういえばクララ様の表情が険しかった。
俺は敵の襲撃に備えて手斧を握りしめる。
だけどブリッツは木の皮を噛んでいるし、ハスラーも火の傍で大あくびをしている。
???
しばらくしてクララ様が帰ってきた。
「おかえりなさい」
「うん……」
「何かいましたか?」
「いや……」
モンスターなどがいたわけじゃなかったんだ。
だったら安心だ。
安心したらオシッコに行きたくなっちゃった。
「ちょっと失礼します」
俺は小便をすべく林の中へ向かう。
「そちらへ行くな!」
「はい? なぜですか?」
「そっちには跡が……」
「跡? あっ! やっぱりモンスターの形跡が!」
「そ、そうだ! 危険だからそっちに行ってはダメだ」
「わ、わかりました」
オシッコは帰るまで我慢しよう。
俺たちは焚火の火を消して森を後にした。
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