第5話 トーラ先生の家
いらだちを抑えきれないまま、あたしはトーラ先生の家へ帰った。
ブラック家のマティスに勉強を教えに行くのにはまだまだ時間があるわ。
その間に写本を何ページかできるのかと思ったのよ。
トーラ先生の家は、平屋の木造、漆喰壁の古い家だった。何回も兄さんたちが手直ししてやっとたっている家よ。天井からは雨漏りがひどいし、隙間風が入りまくり。
その隣と隣に、兄さんたちが手作りした家があって。
トーラ先生とあたしたち、弟子十人はそこに主に住んでいたわ。
毎朝、一番弟子の兄さんから五番弟子の兄さんまではそのうちのひとつの家で街の子供たちに、字を教えてる。少ないながらも、その子供の親御さんたちから収入を得ているわ。
そして、もう一つの家は完全な写本スペースだった。
六番弟子から最後の弟子のあたしの主な仕事場ね。(ちなみにギールは九番弟子よ)
古語を現代語に訳した経典ばっかりを写本したいけど、収入のことを考えるとそうもいかなくて。
あたしたちはなんでも、写本する。
それこそ、戯曲(喜劇や悲劇なんでもござれよ)や、過去の異人たちの見聞録、この国の歴史を記した叙事詩、巷で有名な滑稽本や艶本もね。
写本小屋に入ったあたしに、字を書き写していた手を止めて、八番弟子の兄さんが声をかけた。
「おかえり、アネッテ。……ギールはどうした」
「『淑女の会』にあいつだけ、呼ばれたんだそうです。お菓子を持ち帰るように言っておきました」
兄さんは苦笑した。
「またか。うらやましいね、あいつは」
ほんとにね。
でも、ギールがいるからこそ、私たちは王家の恩恵を少しは受けたりしてるんだから、文句もいえない。
「トーラ先生」
あたしは、写本室の一番奥に座っていた先生に近づき、膝をついた。
「おお、お帰り、アネッテ」
胸まで届く長く白い髭としわくちゃの顔であたしに微笑みかけてくれるのは、今年で八十を超えるトーラ先生。
やさしい先生よ。
いきなりここへ訪れた異国の女であるあたしを、受け入れてくれた先生。
あたしにこの国での居場所を与えてくれた人。
「疲れたろう。写本は今日は、良い。厨房へ。メイヤにお湯をもらって、お菓子でもつまんできなさい」
優しそうに目を細めて、トーラ先生はあたしに言ってくれた。
「またすぐに、ブラック家にいくんじゃろうて。一息ついてから、行きなさい」
「……はい」
あたしは頷いちゃった。
今日の厨房当番はメイヤ兄さんね!
トーラ先生はあたしの表情を見て確認すると、また作業に戻り、机上の紙にインクをつけた羽ペンで字を書きだした。
はあ、ほんとうに、トーラ先生の字は綺麗。このお年になっても、手先が震えないなんてすごいわよね。
でも、一番はメイヤ兄さんの字だけどね!
あたしは、机にむかって静かに写本に精をだす兄さんたちの横を通り過ぎ、うきうきと厨房に向かった。
メイヤ兄さんの字は、本当に素敵なのよ。
流れるようなその美しい字は芸術的だと思う。とうてい、真似できないわ。
字は生まれ持ったものなんだな、てあたし思うの。
ギールのどヘッタクソな字も、生まれ持ったものだから、どうにもなんないのかしらね?
あたしは写本小屋を出て、元のトーラ先生の家に向かう。
あたたかな湯気のにおいが鼻についてきた。あたしは、胸が高鳴るのを感じながら厨房へと入った。
「メイヤ兄さん」
長椅子に座って芋の皮を剥いていた兄さんが、入り口のあたしを見た。
「おう、アネッテ」
この人が、メイヤ兄さん。
トーラ先生の二番弟子。
あたしが一番、尊敬する兄さんよ。
がっしりした体格に、四角い輪郭。
眉は黒々と太くて、目は大きい。
メイヤ兄さんは海辺の都市、ヨランダ出身。漁師の家系で、兄さんも漁師になるはずだったんだけど、勉学の夢が諦めきれなくてここに来たんだって。
ここに来たときは、文字もうろ覚えだったんだそうよ。
それが今じゃ、みんなのお手本を書くのが兄さんの役目。
バカギールの奴、見習いなさい、てのよね。
「テドーがお金の代わりにお菓子をよこしたわ。兄さん、一緒に食べましょう」
あたしはローブの中から、さっきの木の実菓子を出した。
「おう、じゃあ椀に湯を入れてくれ」
兄さんの言葉に、あたしは食器棚から一組の椀を取ると、かまどの上の鍋から湯をすくい入れた。
そして、長椅子に座ってる兄さんの隣に座った。
どうぞ、と椀を差し出すと兄さんはナイフと芋を傍らに置き、椀を受け取った。
あたしたちは微笑み合う。
「ギールは」
「また、城に居残ってるわ。城の女の人たちと音楽でも聴きながら、今ごろお菓子でも食べてるわよ」
「あいつは、相変わらずだな」
はは、と兄さんは大きく口を開けて笑う。
あたしは目を細めた。
あたしは、兄さんのこの笑い方がとても好きだった。父さんを思い出すの。
「兄さん。あたし、今日は夕食要らないわ。ブラック家でご馳走になる」
「そうか。そりゃ、よかったな」
「本当いうと残念よ。今日の当番が兄さんなんて」
「よく言う」
また兄さんは、はは、と笑う。
本当よ。兄さんの料理は同じ材料でも、他の兄さんとは全然違うものになるんだもの。
あたしも兄さんの真似して同じように作ってみるけど、決して兄さんの味にはならない。
この国に来て、びっくりしたのは、男が炊事をすること。そして、女より上手いこと。
キエスタでは、男は厨房に入らない。
兄さんはなんでもできて、優しくて、そしてすごく細やか。
常に周りを見て、誰よりも早くそれに応じた動きをする。
怒るとすっごく怖いんだけどね。
写本で誤字脱字や、紙を汚しちゃったりしたときにはビクビクしちゃう。
兄さんに怒られた後は本当にしゅん、となっちゃうわ。
そういうところも、父さんに似てた。
「ああ、そうだ、アネッテ」
兄さんはあたしの土産のお菓子を噛みながら、気づいたようにローブに手を入れた。
「これ」
そう言って兄さんが差し出したのは、髪飾り。
綺麗な金細工のユリの花の髪留めだった。
「どうしたの、兄さん」
「今朝、キャラバン商店に用事があって。あそこの娘さんがどれでもいいからひとつ、くれると言ってくれたんだ。でも、俺は飾りなんか必要無いしな」
兄さんはあたしの耳の上の部分に、飾りをつけてくれた。
「……うん。更に美人だ」
そう言って、兄さんはあたしに微笑みかけると、何事もなかったように椀から湯を飲み菓子をかじる。
……すんごく、嬉しいんだけど。
あたしは耳の上の髪留めに手を触れながら、にやけそうになる唇を懸命に噛み締めた。
キャラバン商店は、高品質なものだけを取りそろえる気取った店よ。少し敷居が高い感じだけど、あの店の商品なら信用できる、てだれもが思ってる。
「あたしなんかが、もらっちゃっていいの?」
「君は美人なのに、飾り気がなさすぎる。もったいない。聖職者にしても、もう少しぐらい飾ってもいいと俺は思う」
……これよ、これ。
さらりという兄さんの言葉にあたしは心の中で、にまにまと笑った。
バカギール、こういうのを見習いなさいよ。
兄さんの言葉は誠実で、だから心に響くのよ。
「でも……兄さん、キャラバン商店の娘さん、気を悪くしなかった?」
あたしは心配になって聞いてみた。
キャラバン商店の一人娘さんは、多分メイヤ兄さんに首ったけ。
(兄さんは、ギールと違って美形ではないけど、男ぶりがいいからモテるのよ。ほんとに気持ちのいい男の人だから。ギールのように遊び相手じゃなくて、夫にしたい理想の男性ってことね)
メイヤ兄さんに何かしてあげたかったのに、選んだのが女もののこれじゃ、ショックを受けたんじゃないかしら。
「いや、そんなことはなかったと思うが」
「あの、お嬢さん。兄さんに気があるわ。兄さんが好きなのよ」
「……だとしても、俺とはこれ以上、どうにもならないだろう?」
そうなのよ。
この国の聖職者は、結婚してはいけない。一生、独身でいなければならないの。
ここが、キエスタとは違うわね。なぜかしら。
「大昔の聖職者は結婚していたと、文献にのってるわ。……なぜ、ダメになったのかしら」
トーラ先生は古語で書かれた昔の書を訳して、この国の神の教えを体系化した人。
その古語で書かれた書では、聖職者は婚姻してたわ。
それが、いつのころからか、神に奉仕する者は神の物でなければいけないとなってしまった。
この国の神は、キエスタの神より穏やか。教えも(罪を犯すな)キエスタの神々と変わらない。
でも、なぜかしら?
「ギールのように本来の道を忘れてのめりこむ奴が出てきたからじゃないか?それを、戒めるために……もしくは、民衆のよき手本になるために」
兄さんが苦笑する。
「キエスタの聖職者は、こぞって商人たちが婿に欲しがるわ。……縁起かつぎね。神の祝福にあずかれるのを期待して。だから、聖職者たちはすごく裕福よ。商人たちからの援助がすごいもの。この国のあたしたちとは全然、違うわ」
そう。びっくりしたわよ。
ほとんど、自給自足。毎日がキツキツ。あたしは、ここに来た当初、あてが外れちゃったって……あわわ、いえ、でも、満足してるわよ。兄さんたちは優しいし、質素な生活でも、学びの舎は楽しい。
「あたし思うのだけれど……聖職者が婚姻してもよくなればいいのにと思うわ。そうすれば、教えは確実に広まると思うの。子供たちは親の教えを引き継ぐわ。同じような聖職者がそのままそっくり生まれる、てことよ。親と子の絆は強いもの。他人に教えを説くより、よっぽど手っ取り早いと思うの。……それに」
あたしは言いにくかったけど、兄さんに告げた。
「もしもの話よ。兄さんが、キャラバンの娘さんと結婚したら……兄さんはすごく顔が広くなって、力を得るわ。みんなに与える影響も随分、変わる。お金も……ここに流れてくるようになるだろうし。この神の家も今よりもっと大きく立派になったら、みんなの見る目も変わるわよね。もっと多くの民がこの家に来るようになるわ」
そうなのよ。
世で一番強いのは、商人なのよ。商人が味方につけば、怖いものはないのよ。
「君は面白いことをいうんだな、アネッテ」
兄さんは隣のあたしを見下ろした。
「真面目に言ってるのよ。ふざけてないわ」
「わかってる。キエスタではそうなんだろう。だが、この国は違う……それに」
メイヤ兄さんはあたしの髪飾りに手で触れた。
「もし、婚姻が許されるなら、俺はキャラバン商店の娘さんより君といっしょになりたいね」
兄さんは言って手を離すと立ち上がり、竈の方へ行って鍋の中をかき回し始めた。
あたしは、かああ、とほっぺたが熱くなるのを感じた。
兄さんの冗談だとわかってるわよ。それでも、想像しちゃったじゃない。
あたしの肌が暗い色で良かったわ。赤くなってるのがそんなに目立たないはずよ。
あたしは、ぽり、と菓子をはみながら兄さんの広い背中を見つめた。
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