モンシロチョウとカナリア

沙倉由衣

プロローグ さあ、目を開けて

 ――さあ、目を開けて。


 キミは今、柔らかなベッドの上にいる。

 安心して。ここは安全で清潔。

 そしてキミはちゃんと生きている。


 ここは【キルト大聖堂】の医療塔の一室。


 キミはゆっくりと意識を取り戻し、

 窓辺で膨らむ白いレースのカーテンを見る。

 風の中に草いきれの清廉な匂いをかぎ、

 静寂にまぎれる鳥のさえずりを聞く。


 安心して。キミは生きている。

 生きて、ちゃんとここにいる。


 キミはこれから始まることを、まだしらない。

 キミがこの世界へ呼ばれた、その理由をしらない。

 キミがこの世界で果たすべき、役割をしらない。


 そしてこの世界もキミを知らない。

 キミがかつてどんな存在だったか、

 もう一つの世界で、どんな日々を送っていたか。


 だから教えて、キミのことを。

 

 キミがどこで生まれ、どう生きたか、

 どんな【想い】を抱き、何を手に入れたか、

 そして息絶え、ここで目覚めるまでの物語を……。



   **



 ――……そう……そうなの、そうなのね。


 これが風、あれがさえずり、

 この光の名を『白』というのね。

 生まれたてのおひさまの色、

 なまえのないわたしの、名前の一部。


 緑色のところで私は生まれたの、

 大きな、あたたかな、おいしい屋根の下で。

 私は私のまわりの世界を囓りながら成長したけれど、

 うーん、あんまり、そのときのことは覚えていないわ。


 だけどいつしか私はあたたかな暗いところで、

 とろとろ溶けてまどろみの中、


 そうして私は生まれ変わったの。

 風の中に、明るい日差しの下に!


 覚えているわ、初めてかいだ風の匂い、

 ゆっくりと全身に巡る体液の感触、

 日差しの温度、かわいていく身体、

 大気に身を任せたその瞬間を。


 覚えているわ、全身を包む光の躍動、

 体をさらう風のうねり、

 両の複眼にうつる三百六十度の菜の花畑、

 青い空、白い太陽、

 紫外線を浴びて輝く世界を!


 そう……それから忘れもしない、

 畑を横切るあの一本の道。


 覚えているわ、風を揺すった低音、

 嗅いだことのない重いにおい、

 暗い色彩、鈍い振動、

 迫り来る巨大な『トラック』の姿を。


 見えていたのに、馬鹿だったのね、

 知らなかったの、

 春の風に誘われるまま、

 ひらひらとそこへ飛び出していたんだわ。



 ――それが私の物語。

 あの頃はまだことばを知らなかった私の、

 

 誰にも知られず四散した、

 一匹の小さなモンシロチョウの話……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る